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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
47/53

四十四頁目:沈黙の檻


 意識の底から這い上がる感触は、泥の中を泳ぐようだった。


 後頭部を焼くような、じりじりとした痺れる痛みが脳髄をかき乱す。視界は真っ暗で、平衡感覚が消失している。自分の身体が今、上を向いているのか下を向いているのかすら判然としない。


 ただ、鼻腔を突く強烈な黴の臭いと、肌を刺すような湿った冷気。それだけが、僕がまだ、生者の世界に繋ぎ止められていることを教えていた。


「……ん、……ぅ……」


 声を漏らそうとして、口の中に異物感があることに気づく。太い麻縄が猿ぐつわのように噛ませてあった。顎の筋肉が強張り、唾液を飲み込むことすらままならない。


 自分の状態を確認しようと身じろぎするが、手足は冷たい硬質な感触に阻まれた。両手は椅子の背もたれの後ろで、両足は椅子の脚に、それぞれ執拗なまでにきつく縛り付けられている。


(……ここは、どこだ……)


 薄暗がりに目が慣れてくる。コンクリートの打ちっぱなしの壁。天井から剥き出しでぶら下がる裸電球。


 そこへ、重い足音が近づいてきた。



「よう。目は覚めたかよ、白河の甥」



 低く、地を這うような掠れた声。


 顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。


 年齢は四十代に差し掛かる手前といったところか。着古したレザージャケットに、手入れのされていない無精髭。どこか投げやりで粗野な雰囲気を纏っているが、その眼光だけは、獲物を追い詰めた猛獣のように冷酷にぎらついていた。


 その顔を見た瞬間、僕の脳裏に、あの卒業アルバムの頁が鮮烈にフラッシュバックした。


(……こいつ、見覚えがある。……定本や叔父さんのクラスメイト)


 名は確か――表堂(ひょうどう) 真也(しんや)だったか。


 アルバムの集合写真では、定本のすぐ後ろで卑屈な笑みを浮かべていた少年。当時の面影は、今や凶悪な人相の下に埋もれているが、その本質にある陰湿さは二十年の時を経ても変わっていないようだった。


 僕が彼を睨み据えると、表堂は面倒そうに鼻を鳴らし、何の前触れもなく僕の左頬を力任せに張り飛ばした。


「――っ!?」


 激しい衝撃。脳が揺れ、火花が散る。その勢いで、口に噛まされていた麻縄がぶちりと外れ、床に落ちた。


 口内に広がる鉄の味。僕は溢れそうになる血を飲み込み、喘ぐように呼吸を整えた。


「何いっちょ前に睨んでんだ、クソガキ。……お前のせいで、俺らも征ちゃんも、随分と手間ぁかけさせられたんだぜ」


「……あなたたち、……二十年前、……定本と一緒に、……羽住 実那をイジメてた奴ら……ですね」


 掠れた声で問い詰めると、表堂は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐに下卑た嘲笑を漏らした。


「だったらどうするってんだ? 教育委員会にでもチクってみるか? それとも、正義のジャーナリスト様にでも売り飛ばすか? ……ハッ、生憎だな。もう、お前が何をしようと――時間切れなんだよ」


 表堂は、背後に控えていた別の男――やはりフードを被った、目つきの悪い男に顎で合図を送った。


 男が壁際の棚に置かれた古いテレビを点ける。


 砂嵐の後に映し出されたのは、あまりにも残酷な現実の光景だった。




『――たった今、当確の速報が入りました。某県三区、定本 誠志郎氏。……圧倒的な得票差で、初当選を確実にしました!』




 画面の中、まばゆいフラッシュの嵐を浴びながら、定本が万歳三唱をしている。


 胸には真新しい赤いバラ。隣には、喜びを爆発させる支持者たちの群れ。


 その中心で、定本はこれ以上なく清潔で、善良な国民の味方としての顔をして笑っていた。


「……さだ、もと……」


 絶句する僕に、表堂は愉悦を隠そうともせずに顔を近づけてきた。


「お前さ、丸一日寝てたんだぜ。……今はもう投開票日の深夜。祭りは全部終わった。……征ちゃんは、もうただの政治家じゃねえ。巨大な政党の、そして国家の力で守られる代議士様だ。このまんま、特別国会が開かれるまでの一ヶ月弱をしのげば……二十年前の件も、巻や白河を始末したことも、全部歴史のゴミ箱行きだ」


「……そうですか。……なら、用済みの僕も、殺すんですか? 叔父さんや、日下……巻 良介のように」


「ああ、まあ、そのつもりだがな。……死体に口なし。それが一番綺麗な清書(しあげ)の方法だろ?」


 表堂は腰のポケットから、無骨で錆の浮いた大きなペンチを取り出した。


 カチ、カチ……。


 金属同士が噛み合う、不快な音が静かな地下室に反響する。


「だがよ、その前に吐いてもらわなきゃいけねえことがある。……征ちゃんの後ろ盾を盤石にするために、最後の一欠片を消しとかねえとな」


 表堂は、そのペンチの先を僕の指先にゆっくりと近づけた。


「……最後の指。巻の野郎の遺体も、白河のあの家も徹底的に洗ったが、どこにも出てきやがらなかった。……となりゃあ、あの二人から色々と入れ知恵されたお前が、在処を知ってると見るのが当然だろう?」


 男の目が、狂気と焦りを孕んで歪む。


 彼らにとっても、あの一本の指は自分たちの人生を縛り付ける"時限爆弾"なのだ。それを完全に処理しない限り、定本の王国に安息はない。


「なあ、それをおじさんたちに教えてくれよ。……お前が隠したのか、それとも別の場所に流したのか。素直に吐きゃあ……まあ、そうだな、殺す前にあちこち引き抜いたりするのは止めておいてやる。……一息で逝かせてやるよ。どうだ、悪い話じゃねえだろ?」


 錆びたペンチの冷たい感触が、僕の左手の指に触れる。

 

 定本の万歳三唱の声が、テレビから虚しく響き続けている。


 僕は震える指先を感じながら、目の前の男の醜悪な貌を見据えた。 


 外は夜。


 この街の夜は、どこまでも暗い。それこそ、夜明けがあるのかどうかを疑ってしまうほどに。


「……さあ、始めようか。……お前の指は、何本残るのかな?」


 表堂の濁った瞳が、僕の恐怖を愉しむように細められた。


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