四十三頁目:真実を託して
深夜二時。街並みは、深い眠りというよりは、何か巨大な悪意に押し潰されたような、不自然な静寂に沈んでいた。
僕が降り立ったのは、かつて住んでいたアパートに程近い、何の変哲もない児童公園だった。
一週間前。叔父の家で感染したマルウェアによって居場所を特定され、袋を被った連中に襲撃されてからというもの、僕は一度もこの辺りへは帰っていない。
街灯に照らされた錆びついたブランコ、砂場の囲い。遠目に見えるあのアパートの輪郭。
たった一週間。けれど、清書係として世界の裏地を覗き込み続けてきた僕にとって、そこはもはや前世の記憶のように遠く、異質な場所に見えた。
僕は右手に、一台のスマートフォンを握っていた。朱音から渡された、予備の端末だ。
それを口元に近付け、スピーカーの向こう側で息を潜めている相棒に、短く告げる。
「――それじゃ、朱音さん。始めます」
『……了解。さっくー、無理だけはしないでよ。ヤバいと思ったら、全部放り出して逃げて。いい?』
朱音の声は、いつもの動画配信での明るさを削ぎ落とした、剥き出しの緊張に震えていた。
僕は答えず、画面を数回操作して、そのスマホを公園の中央にある木製のベンチの上に置いた。
画面には、あえてパスワードもかけず、ただ、とあるページを開き続けていた。
僕はそのまま、背を向けて走り、近くの公衆トイレの影へと身を隠した。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、自分の鼓動を数える。
(来るか……? 叔父さんの時と同じなら、彼らは"網"を張っているはずだ)
数分後。
深夜の静寂を切り裂くように、低いエンジン音が遠くで止まった。
街灯の届かない暗闇から、音もなく這い出してきたのは、目深にフードを被った男たちだった。
三人……いや、四人。
彼らは迷いのない足取りでベンチへと近づき、そこに置かれたスマホを囲む。かつて僕をアパートの玄関で追い詰め、叔父を死に至らしめた、定本の猟犬たち。
彼らがスマホに気を取られた、その瞬間。
僕はトイレの陰から飛び出した。
目指すは、アパートの自室。
アスファルトを蹴る自分の足音が、夜の静寂に爆音のように響く。けれど、男たちはまだベンチの罠に囚われている。
階段を一気に二段飛ばしで駆け上がる。肺が焼けるように熱い。
錆びた鉄の扉。自分の部屋の番号。
震える手で鍵を差し込み、力任せに扉を開けた。
「……っ、うわ、ひどいな……これは」
中に入った瞬間、僕は思わず絶句し、顔をしかめた。
久しぶりに訪れた自分の部屋は、もはや部屋としての機能を失っていた。
机の引き出しはすべて引き抜かれ、中身が床にぶちまけられている。押し入れの布団は引き摺り出され、戸棚の食器は粉々に砕けていた。
定本の連中が、僕が逃げ出した後にここを徹底的に洗ったのだ。
僕は荒らされた室内を慎重に、けれど迅速に歩いた。
足元に転がる本や衣服を避けながら、記憶を、文脈を、必死に手繰り寄せる。
(思い出せ。叔父さんが僕に暗号を託した理由。墨千代さんの言葉を――)
あの日。叔父が死ぬ少し前。
彼は僕のこの部屋に来たことがある。
一人暮らしの祝いだと言って、僕が大学に持ち込むための道具を整理してくれた。
(確かあの時、僕は"あれ"を持って、玄関の方に……)
思考を研ぎ澄ませ、視線を部屋の隅々に走らせる。
定本の部下たちは、この部屋にある、あらゆるものを徹底的に壊した。けれど、清書係の僕と叔父にしか価値のわからない"文脈"までは壊せていないはずだ。
その時。
キッチンの上。吊り戸棚の僅かな隙間に、違和感を見つけた。
そこには、暗闇の中で一点だけ、脈打つように点滅する小さな赤いランプがあった。
「――っ!? 嘘だろ、Webカメラ……!?」
心臓が凍りついた。
定本たちは、この部屋を荒らすだけでは終わらせなかったのだ。
僕がここへ戻ってくることを予測し、二十四時間の監視網を敷いていた。
今、この瞬間も。僕が焦って探し回る姿は、モニターの向こう側にいる誰かに筒抜けになっている。
ドクン、と心臓が跳ねる。
ガラン、ガシャン!!
一階の入り口で、激しい音がした。
続いて、複数の人間の足音が、階段を駆け上がってくる。
公園のデコイに気づいた男たちが戻ってきたのだ。
「急がないと……どこだ、どこにある!?」
僕は半狂乱になって、玄関近くの靴箱の裏や、傘立ての中を漁った。
違う、そこじゃない。
最初の一頁。
物語の裏地。
視界が歪む。足音が、すぐそこまで迫っている。
その時、視界の端に、剥がれかけた壁紙の隙間に押し込まれた"重み"が見えた。
逃げ出す時に投げ出してしまった、僕の、そして叔父の"最初の思い出"。
「……あった!!」
僕はそれを、ひったくるようにして掴み取った。
手のひらに伝わる、冷たく、ずっしりとした金属の質感。
それと同時に、扉が乱暴に蹴破られた。
「――いたぞ、捕まえろ!!」
フードを被った男たちが、雪崩のように室内に踏み込んでくる。
一人は警棒を手にし、一人はスタンガンを構えている。
僕は部屋の奥へと後退した。そちらには窓しかない。逃げ場はない。
男たちは勝ち誇ったような歪な笑みを浮かべ、少しずつ距離を詰めてくる。
「おとなしく捕まりな。そうすれば、死ぬよりはマシな結末を用意してやる」
「……断る」
僕は、手にした"それ"を、自身の胸元に強く抱き寄せた。
「これは、僕が清書しなきゃいけない物語なんだ。あんたたちみたいな、文字を汚す連中に、途中で止められてたまるかよ」
「ガキが……殺せ!!」
男たちが一斉に飛びかかってくる。
「――う、おおおおおっ!!」
僕は叫びながら、窓際へと跳んだ。
逃げるためではない。
男たちの手が届くよりも早く、僕は手にした"それ"を、ありったけの力を込めて窓の外へと放り投げた。
パリン、ガシャァァァン!!
窓ガラスが粉々に砕け散り、夜風が室内に吹き込む。
宙を舞う"それ"が、街灯の光を反射して一瞬だけ銀色に輝いた。
自棄になったわけじゃない。
僕には、信じられる相棒がいる。
「――あとは頼みます、朱音さん……!!」
階下。アパートの真下の暗がりに、一台の四輪駆動車がヘッドライトを消したまま待機していた。
投げ出された"それ"は、放物線を描いて、正確にその車へと吸い込まれていく。
それを見届けた直後。
エンジンの咆哮が聞こえた。
朱音の車が、タイヤを激しくスピンさせながら、夜の闇を裂いて走り去っていく。
「追え!! 追いかけろ!!」
男たちの叫び声が、遠くで聞こえる。
けれど、彼らの関心はもはや僕にはなかった。彼らにとって、僕という清書係は、証拠を持たないただの駒に過ぎない――。
――その直後、後頭部に凄まじい衝撃が走った。
硬い鈍器で殴られたのだと、脳が理解するよりも早く、視界が真っ白に染まる。
床に叩きつけられた僕の耳に、遠ざかっていく朱音のエンジン音が聞に伸びていく。
(……よかった。これで、いい……)
喉の奥に、鉄の味が広がる。
けれど、僕の心は驚くほどに穏やかだった。
物語の"真実"は、今、僕の手を離れて、正しい読者の元へと届けられる。
(……叔父さん。僕は、間違ってなかったですよね)
意識が急速に薄れていく。
僕は安堵にも似た暗闇の中へと、ゆっくりと沈んでいった。




