四十二頁目:一重の裏に鎮まる
"丑三ツ書店"の古びた扉を押し開けると、重い空気と古書の匂いが僕を迎え入れる。カウンターの奥では、朱音がノートパソコンのモニターを見つめながら、せわしなくキーボードを叩いていた。
「あ、さっくー! 戻ったね。どう、指は見つかった?」
朱音が顔を上げ、努めて朗らかな、けれど焦りを隠しきれない声で言った。彼女の横では、墨千代がソファの上で丸まっている。幾分時間が早いせいか、"餅巾着"モードは抜けていなかったが、その半眼は静かに僕の姿を追っていた。
「朱音さん、墨千代さん……遅くなってしまって、すみません」
「もう、心配したんだから! 定本の一味に捕まったんじゃないかと思って、何度もメッセージ送ったんだよ? 連絡くらい寄越しなって!」
「すみません、ちょっと事情があって……。スマホを出す余裕もなかったんです」
僕は濡れた上着を脱ぎ、椅子に深く腰掛けた。
見返村から戻った翌日、僕は単独で行動することを選んだ。朱音の派手な四輪駆動車で乗り付ければ、定本の監視網に即座に捕捉される。
だから僕は、実家の両親に連絡を取り、極めて"身内"の顔をして叔父の家へ向かった。
『叔父さんに貸していた本が、どうしても明日の大学の講義で必要になったんだ。図書室も貸し出し中でさ……』
そんな口実を設けて、複数の親族たちが遺品整理を進める中に紛れ込んだのだ。
叔父の家、白河邸。そこは今や、主を失った静寂と、段ボール箱の山に埋もれた過去の墓場だった。
僕は親戚たちの目を盗み、叔父の書斎、寝室、床下に至るまで、考えられるすべての場所を洗った。一万字の絶筆に記された"失われた指"が、何らかの防腐処理を施され、どこかに隠されていると信じて。
だが。
「……駄目でした。叔父さんの家のどこにも、指なんて隠されていませんでした」
僕が絞り出すように告げると、朱音の表情が凍りついた。
「――えっ!? だって、指を持ってるのは叔父さんだって、そう推理したじゃない。日下……巻が、白河 執に預けたんじゃないの?」
「そのはずだと思ったんですが……。僕の読み違えだったのかもしれません。叔父さんの机の引き出しも、愛用の鞄も……衣替えのために出していた春物のコートのポケットも見ましたが、どこにも……」
「そんな、どうするの……? 投票日、もう明日だよ? あいつが当選して、国会が開かれたら、手出しできなくなる。……証拠がなきゃ、あいつを止められないのにー!」
朱音が頭を抱えた。
叔父が指を持っていなかったとなると、やはり巻良介は死の間際までそれを持ち続けており、始末される寸前に定本に奪われてしまったのだろうか。だとしたら、もう証拠はこの世のどこにも存在しないことになる。
絶望が、冷たい霧のように僕の胸に立ち込める。
その時だった。
ソファの上で丸まっていた墨千代が、ゆっくりと上体を起こした。
「……ふふふ。朔。君のそれは、悪い癖だよ」
「墨千代さん……?」
「君は、眼前の事象にばかり囚われて、物語の"文脈"を忘れている。ミステリは嫌いかい?」
「"文脈"……そんなこと言われても、これ以上……」
「まだ、この一件には説明のつかない謎が残されているだろう。白河執が命と引き換えに遺したあの一万字。すべての文脈に意味があるのなら、その"謎"もまた、無意味であるはずがない」
墨千代の琥珀色の瞳が、闇の中で鋭く光る。
「残された謎……。説明のつかない、伏線……?」
「そうだよ。君が絶筆から導き出した、あの四文字はどうしたんだい?」
「――あ」
脳裏に、あの忌まわしくも美しい、血塗られた原稿が浮かび上がる。
叔父が特定の漢字の"はね"を歪ませ、僕に伝えようとしたメッセージ。
『一』『重』『裏』『鎮』。
僕はこれまで、これを何かの言葉遊びだと思っていた。順列組み合わせ並び替え、あるいは変換誤変換。そういったもので答えが出る類のものであると。
「でも、墨千代さん。僕だって何度も考えました。でも、答えは出なかったんですよ」
「そうだね。恐らく、白河執は簡単に分かるような場所には隠していないだろう。定本の手の者が、あの一万字の絶筆から、万が一そこまで辿り着いてしまっては困るからね」
墨千代はソファから降り、音もなく僕の傍らに歩み寄った。
「――けれどね、朔。本当に受け取ってほしい相手に伝わらない文章を書くほど、白河 執という男は落ちぶれてはいないだろう。彼はいつだって、読者のことだけを考えていたんじゃないかな?」
「……!」
「その暗号は、恐らく極めて単純なものだ。見るべき者が見れば、それだけでパッと解ける。しかし、他の誰が見ても、ただの精神論や創作論にしか聞こえない――。そんな、理想的な形の暗号を、彼は目指したんじゃないかな」
墨千代の言葉が、僕の脳の深い場所にある記憶の地層を揺り動かした。
理想的な暗号。
それは、共通の言語、共通の体験を持つ者にしか解けない共有された秘密。
叔父と僕。
清書係として、彼の隣で文字をなぞり続けてきた時間。
(……一・重・裏・鎮……)
僕は目を閉じ、叔父の声を、彼の手つきを思い出した。
『朔、よく見ておけ。文字を書くということは、紙の上に魂を置くということだ。……だがな、本当に大切なことは、インクが乾いた後、その裏側に隠されるものなんだよ』
叔父はそう言って、僕の練習用の半紙の端に、ずっしりと重い文鎮を置いた。
その時、彼は笑ってこう言ったのだ。
『――迷ったら戻れ。いつでも、俺たちの最初の思い出にな』
「――なんだ。そんなことだったんだ」
僕は、カッと目を見開いた。
暗号の正体。
それは場所を示す座標でも、鍵の番号でもなかった。
「朱音さん、墨千代さん」
僕は勢いよく立ち上がった。二人の顔を、確信に満ちた目で見回す。
「最後の指の在処がわかりました。……いや、ずっと僕の傍にあったんです。僕たちは、それを取りに行かなければならない。定本の手が届く前に」
「……どこにあるの、さっくー」
「ええ、それは――」
それを聞いた朱音の顔が、驚愕に歪む。
対して、墨千代は満足気に頷いた。まるでそれは、弟子の成長を喜ぶ師匠か、そうでなければ、どこか母性を思わせる優しさを帯びていた。
二人の瞳を真っ向から見つめ返し、僕は、それを口にする。
「――最後の戦いです。やってやりましょう」
僕は拳を強く握りしめた。
外では雨が激しさを増している。明日の投票日、定本が勝利の美酒に酔いしれるその前に。
「死者の声を、無きものにしないために。……そして、羽住実那さんの、失われた二十年を取り戻すために」
清書係としての、本当の、そして最後の仕事。
物語の"裏地"を引きずり出すための号砲が、今、深夜の書店に静かに鳴り響いた。




