表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
44/49

四十一頁目:指の行方


 見返村を包み込んでいたあの乳白色の霧が、背後でゆっくりと遠ざかっていく。


 朱音の愛車、黒光りする四輪駆動車のタイヤが、濡れたアスファルトを力強く蹴り、装幀市へと続く山道を下っていた。車内には、使い込まれたエンジンの唸りと、ワイパーが雨を拭う規則的な音だけが響いている。


 僕は助手席で、稿坂から託されたあの分厚いクリアファイルを抱きしめていた。二十年前の真実。巻 良介が日下 匡という偽りの皮を被る直前に、この世に遺した剥き出しの傷跡が、そこには綴られている。


「……それにしても、わざわざあんな辺鄙な所まで行った甲斐がありましたね」


 暗い車窓に流れる夜の木々を眺めながら、僕はぽつりと漏らした。


 膝の上のファイルは、単なる紙の束とは思えないほどの重みを持って、僕の脚を圧迫している。


「そうだね。……切り取られた羽住 実那の指。もしそれが本当に出てきたら、それは何物にも代えがたい、動かぬ証拠になるはず」


 朱音は前を見据えたまま、どこか不安げに眉を寄せた。


「……もっとも、二十年も前の指が、今どんな状態で残っているのかは、想像するだけでも怪しいけどさ。骨だけになってるのか、それとも……」


「そこは、信じましょう」


 僕は、彼女の言葉を遮るように、けれど静かな確信を込めて言った。


「巻さん……日下さんは、その手がかりを、必ず検証可能な形で残しているはずです。彼はただの逃亡者じゃなかった。二十年間、いつかこの物語を清書る日が来ることを信じて、文字を、記録を、そして証拠を保存し続けてきた人なんですから」


 その言葉に、論理的な裏付けはなかった。


 日下がそのような特殊な保存技術を持っていたという確証もない。けれど、清書係として彼の筆跡をなぞり、あの"逆さまの恋文"に込められた凄まじい執念に触れた僕には、わかる。


 彼は、未来の誰かに真実を託すためなら、どんな非人間的な努力も厭わなかったはずだ。それは祈りにも似た、死者への信頼だった。


「でもさ、さっくー。もっとシンプルに考えられないかな?」


 朱音が、ハンドルを軽く叩きながら提案してくる。


「さっきの稿坂さんから貰った資料。あれだけでも、十分に定本を追い詰める証拠にはなるんじゃないの? 彼の過去のいじめ、共犯者たちの名前……。これを"あかねチャンネル"を通じて、パパっと拡散しちゃえばさ。今のネット社会なら、一晩で大炎上、選挙どころじゃなくなるでしょ!」


 確かに、朱音のフォロワー数とリスナーの拡散力があれば、定本 誠志郎の社会的信用を失墜させることは容易だろう。


 だが、僕は首を振った。


「……稿坂さんがそんな真似、許すわけないでしょう。あの村の"掟"を破って情報を公開したとなれば、次にみはらし峠の土の下に埋められるのは、僕たちですよ」


「う……それは、勘弁だね」


「それに、朱音さん。……"二十年前にいじめをしていた"という事実だけでは、今の定本を完全に殺すには弱すぎるんです」


 僕は、駅前で見たあの男の演説を思い出した。自信に満ちた声、聴衆を惹きつける清潔な貌。


「政治家という生き物は、スキャンダルを燃料に変えることさえあります。『若気の至りでヤンチャをしていたが、今は更生して国を救おうとしている』。そんな風に美談にすり替えられたり、あるいは羽住さんの死を『自分にとっても悲劇だった』とヒーローぶられて利用されたりでもしたら……」


「……そっか、むしろ、こっちが不利になっちゃうかも」


 ネットの炎上は一過性のものだ。定本のような巨大なバックボーンを持つ人間なら、ほとぼりが冷めるまで沈黙し、その後で"不当なバッシングを受けた被害者"として返り咲くことすら可能だろう。


「……定本 誠志郎は、汚い殺人犯だ。そう突きつける以外に、彼の息の根を止める方法はありません。そのためには、言葉の羅列ではなく、彼が隠蔽し続けた"物質的な死"……つまり、奪った指そのものを突きつける必要があるんです」


「……厳しいねぇ。二十年前の幽霊を、現行犯に引きずり下ろせってわけか」


 朱音は溜息を吐き、街の明かりが見え始めた夜の街道を加速させた。


 だが、問題は山積みだった。


 最大の問題は、その"指"が一体どこにあるのか、ということだ。


「でも、あの見返村ではないとすると、日下はどこに指なんて隠し持っていたんでしょう?」


 車内を流れるラジオの微かなノイズを聞きながら、朱音が首を傾げる。


「普通に、自分の家とかにあるんじゃないの? 出版社とかさ」


「それだったら、日下さんの死後、真っ先に定本の手の者に回収されて終わりでしょうね。あの人は失踪してから数日経っています。定本が彼の周囲を徹底的に洗っていないはずがない。もし自宅にあったなら、もうその証拠はこの世のどこにもなくなったことになります」


 相手の慎重さを考えれば、日下を始末した後に、彼が握っているはずの"自分への刃"を放置するはずがない。

 

「……じゃあ、さっくー。大切なものをしばらく隠したり、どこかに安全に保管しておきたいって考えたら、一体どうするかな?」


「うーん……。まあ、一般的な発想なら、銀行の貸し金庫に預けちゃうとかですかね」


「さーすがに、死体の一部を預かってくれる銀行はないでしょ。窓口で『これ、羽住実那の指です。二十年お願いします』なんて言ったら、その場で通報だよ」


「……確かに。なら、誰かに預けるなんてのはどうでしょう? 親友とか、信頼できる親類とか」


「私は、死体の指を自分の家族に預ける勇気はないなあ。そんなの貰った側も迷惑だし、何よりその人が定本に狙われちゃうじゃん」


 朱音の言葉が、僕の思考を刺激した。

 

 信用できる誰か。


 日下 匡という、名前も経歴も、自分自身の過去さえも捨て去り、影のように生きてきた男に、そんな人物がいただろうか?


 定本の監視下にありながら、密かに真実を共有し、託せるような相手。




 ――いや、いた。




 僕の脳裏に、あの一万行の狂気の羅列を書き殴り、死んでいった男の貌が浮かび上がった。


「……朱音さん。今、どうして『家族には指を渡したくない』と言ったんですか?」


「え? そりゃ、気持ち悪いのもあるけど……さっきも言ったじゃん。そんなものを受け取ったら、その人が定本のターゲットになっちゃうからだよ。守りたい人に、そんな呪いのアイテム渡せないでしょ」


「――そう。その通りだ。定本は指を持つ人間を、執拗に追い詰める。指を持っているという事実は、そのまま定本への"死刑宣告"を握っているのと同じですから。……なら、その受取人は、定本の敵となるはずだ」


 朱音がハンドルを握る手を緩め、怪訝そうに僕を見た。


「……何言ってんの、さっくー。当たり前じゃん。指を持ってる=定本を滅ぼせる。そりゃあ、敵対関係になるでしょ」


「なら、()()()()()()()()()()()()()()()()なら、容赦なく巻き込めるってことじゃないですか?」


 思考が、カチリと音を立てて噛み合った。

 

 失うものなど何もない人。


 定本の支配に抗い、既に命を狙われ、物語の深淵を覗き込んでいた人物。


 そんな人なら、日下は余計な気遣いをせず、最も信頼できる"器"として、真実を託したはずだ。


「……日下さんは、白河 執――叔父さんに、指を渡したんじゃないでしょうか」


「えっ、執さんに!? ……でも、叔父さんは作家で、日下は編集者でしょ? 仕事上の付き合いがあったのは分かるけど……」


「ただの付き合いじゃありません。叔父さんは、全ての真実を暴くために、あの一万行を書いていた。日下さんは、叔父さんならこの街の"裏地"を、定本の化けの皮を剥いでくれると信じていたんだ。……いや、信じるしかなかった」


 そうでなければ、叔父さんが最期の瞬間に、あんな執拗な描写を繰り返すはずがない。


 あの一万字に及ぶ絶筆。


 『あの子の指が、足りない』

 

 あれは、叔父さんの空想の産物ではなかったのだ。


 叔父さんは、自分の書斎で、その"実物"を見ながら、あるいはその重みを手の中に感じながら、呪文のように文字を書き連ねていたのではないか。


 欠けた一本の指。それを握りしめていたからこそ、彼はあの一万字という"杭"を、定本の逃げ場を塞ぐために打ち込むことができた。



「行きましょう、朱音さん。……最後に残された欠けた一本の指は、叔父さんの家、白河 執の自宅にあるはずです――!」



 夜の装幀市、そのネオンの光がフロントガラスに滲んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ