三十九頁目:再来、見返村
装幀市の喧騒を離れ、四輪駆動車が深い山嶺へと分け入る。窓の外を流れる景色は、標高を上げるごとに色彩を失い、乳白色の霧が支配する非日常へと塗り替えられていった。
再び訪れた"見返村"。
かつて落合 香奈が遺した絶筆を追い、袋を被った住人たちに追跡されたあの夜の記憶が、肌を刺す冷気と共に蘇る。しかし、目の前に広がる光景は、以前の訪問時とは決定的に異なっていた。
村は、死に絶えたかのように静まり返っていた。
以前目にした、黙々と農作業に励む住人たちの姿はない。あちこちの民家の戸口は固く閉ざされ、霧の向こう側から、幾重もの視線だけが僕たちの動向を監視しているのを感じる。
「……わかっちゃいましたけど、完全に警戒されてますね」
朱音の愛車から降り、砂利を踏みしめながら僕は呟いた。周囲の空気は重く、肺の奥まで湿ったカビのような匂いが入り込んでくる。
「ほーんと、やんなっちゃうね。今日はカメラも回してないし、平和的な取材のつもりなんだけどさ」
朱音は努めて明るい声を出したが、その視線は鋭く周囲を警戒している。彼女の手は、いつでも車のキーを回せるよう、ポケットの中で固く握られていた。
「それで、さっくー。村まで来たのはいいけど、日下の足取りを追うアテはあるの? こんな幽霊村で、誰か口を割ってくれる人がいるとは思えないんだけど」
「アテというほどではありませんが、一人だけ、まともに会話ができそうな顔見知りがいます。まずはそこへ行きましょう」
僕は迷いのない足取りで、村の奥へと続く坂道を登り始めた。向かう先は、かつて"記帳本"を巡る依頼で出会った村の人間――"稿坂"の家だ。
古びた日本家屋の門を叩くと、しばらくして奥から重い足音が聞こえてきた。
引き戸が開き、姿を現したのは、以前と変わらぬ険しい表情の稿坂だった。彼は僕と朱音の姿を認めるなり、天を仰いで深く、深すぎる溜息を吐き出した。
「……あのなあ。お前ら、自分たちが今、どんな立場にいるかわかってるのか?」
稿坂の低い声には、怒りよりもむしろ"厄介者が戻ってきた"という諦念が混じっていた。
「ええ、その節はどうも。ですが稿坂さん、今日は村の裏側を暴きに来たわけじゃありません」
「ふん、どの口がそれを言う」
訝しむように眉を跳ね上げる稿坂を真っ向から見据え、僕は本題を切り出した。
「――ここに来たんじゃないですか、日下 匡さんが。いや、今は無いもう一つの名……巻 良介と言うべきですかね」
その名が出た瞬間、稿坂の眉がわずかにピクリと動いた。
熟練した猟師が獲物の気配を察知した時のような、鋭い変化。しかし、彼はすぐにいつもの無愛想な面に自身を押し戻し、鼻を鳴らした。
「……ふん。政治家センセのお使いってわけじゃなさそうだな。あいつの犬共なら、もっと品のないやり方で踏み込んでくるはずだ」
稿坂は僕たちの背後の霧を一度睨むと、顎をしゃくって家の中を指した。
「入んな。よその連中にウロチョロされるより、うちで話してもらった方が気が楽だ」
僕は背後の朱音と視線を交わし、家の中へと足を踏み入れた。
通されたのは、囲炉裏に火が灯された、薄暗い居間。
稿坂は僕たちの前に温かいとも冷たいともつかない茶を置くと、まず釘を刺すように言った。
「いいか、お前ら。前に落合香奈の件で嗅ぎ回ってた件――そのほとぼりはまだ、冷めちゃいねえんだ。村の連中の中には、お前らの首を絞めて肥だめに埋めるべきだって声もある。そんな場所に、のこのこと……」
「……その心配はいりませんよ、稿坂さん」
朱音が、テーブルの上に自身のスマートフォンを置いた。画面には、予約投稿の管理画面が映し出されている。
そちらを指し示しながら、僕は続けた。
「僕たちが明日までに装幀市に帰れなかった場合、あるいは連絡が途絶えた場合、"あかねチャンネル"に一本の動画が自動的にアップされます。内容は、この見返村の所在地、そして"生まれ変わり"のシステムの詳細……リスナー数十万人が、一斉にこの村の平和を壊しに来るでしょうね」
稿坂は朱音を一瞥し、どこか納得したように頷いた。
「……なるほどな。現代的に保険をかけたってわけかい。確かに、この村が一番嫌うのは"注目"だ。……わかった、そよ脅しは受け取っておくぜ」
彼は深く腰を下ろすと、腕を組んで僕を見据えた。
「言っとくが、巻 良介と日下 匡――あの二人の関係性については、俺の口からは何一つ話せねえぞ。日下が死んだという報せは届いているが、過去を墓場まで持っていくのが、この村の"掟"だ」
「ええ、それで構いません。戸籍がどうこうという話を聞きに来たのではないんです。今回、僕たちがここに来た理由……それは、日下さんが殺される直前、ここに何かを遺していったんじゃないかと思ったからです」
「遺していった?」
「はい。彼はある事件を追っていました。自分を縛り付けていた二十年前の真実。それを明るみに出すために、自分に万が一のことがあった際、権力者ですら容易に手を出せないこの村に、重要な情報を隠していったのではないかと」
稿坂はしばらくの間、僕の瞳を試すように睨みつけていた。清書係として文字の裏側を覗こうとする僕の視線と、村の秘密を飲み込み続けてきた男の視線がぶつかり合う。
やがて、稿坂は根負けしたように肩の力を抜くと、一つ大きな溜息を吐いた。
「……止めだ。お前らみたいな、死に損ないの目をしたガキを相手にしてると、こっちが馬鹿をやってる気分になっちまう」
「なら、力を貸してください。僕らには、情報が必要なんです。二十年前に潰えた無念を晴らすための、手がかりが」
「協力する、しねえは置いといて、一つ聞かせろ」
そこで、稿坂は少し考え込むような素振りを見せた。
そして、十秒ほど空けてから、尋ねてきた。
「……お前さん、名前は?」
「……朔。白河 朔、装幀市にある"丑三ツ書店"で、"清書係"をしています」
「……そうかい」
彼はそう口にすると、立ち上がって部屋の隅にある古びた戸棚へと向かった。
カチ、と木の合わさる音がし、彼の手には一通の分厚い封筒が握られていた。
「……あいつが、ここへ来たのは少し前――それこそ、お前らが落合のことを探りに来た、前の夜だ。ずぶ濡れのまま、まるでもう死んでるようなツラをしてやがった。……俺にこれを預けて、『もし、巻 良介を訪ねて、白河という男が来たら、これを渡してくれ』と言い残してな」
稿坂は、その封筒をテーブルの上に滑らせた。
茶色い紙に、なぐり書きされていたのは――僕の名前だった。その筆跡には、日下さんが最期に振り絞ったであろう、切実な力が宿っている。
「……これは?」
「日下 匡が、自らの名で最後に残した手紙だ。……お前らが探し求めていた、そして、あいつが二度目の死に瀕して書いた――絶筆ってやつだよ」




