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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
41/49

三十八頁目:遺したもの-後


 朱音の声が、微かに震える。


「日下さんは、それが"凶器"だとは知らされていなかった。いいところが、無意味な情報止まり……そう思っていたはずです」


 仕込まれていたマルウェアなんかと同じ。あくまでも叔父さんの調査を邪魔するためのもの。それそのものが、死に至るような脅威となるものだとは思っていなかった。


 だから、日下はあの資料を、叔父さんに届けて――。


「……日下さんは同級生を、そして、自分があれほど暴いてほしいと願っていた事件の真相に迫りつつあった叔父さんを、自分の手で殺してしまったことに、後から気づいた」


「……っ。じゃあ、日下は……ずっと、味方だったの? 白河 執を守りたくて、でも、守れなくて……。自分が殺しの道具にされてたって、気づいたから……」


「だからこそ、あの日下さんは、あの日、叔父さんの家で僕に会った時、既に覚悟を決めていたのかもしれません。……定本が国政に出て、本当の意味で"不可侵の存在"になる前に、自分の命を賭けて、あの男の化けの皮を剥いでやろうと」


 僕は思い返す。あの日、何を聞いても日下ははぐらかすばかりで、本当のことを語ってくれそうにはなかった。


 盗聴されている可能性がある叔父の家では話せなかったのだろうし、僕では、託すのに頼りないと思われたのかもしれない。


 どうあれ、彼はもう、動き出すつもりでいたはずだ。余計な人間を巻き込まず、自身の手で、真実を詳らかにしようと――。


「……けれど、反旗を翻そうとする日下さんの動きは、定本に筒抜けだった。……日下さんが持っていた手がかりや、告発のための証拠は、彼の死と共に、すべて闇に葬られた可能性があります」


 部屋の中に、沈痛な重圧が満ちていく。


 僕たちの唯一の希望、あるいは協力者であったかもしれない男は、今や冷たい海の底を彷徨った末に、物言わぬ肉塊へと変えられてしまった。


 朱音は力なく椅子に座り直し、自分の膝を抱えた。


「……最悪じゃん。結局、日下は何も残せなかったってこと? 定本はもうすぐ議員になって、手出しできなくなるのに。……私たちは、ただ見守ってることしかできないの?」


 僕は言葉を返せなかった。


 二十年前の事件を追うための"扉"は、日下の死によって、最後の一枚が閉じられたように思えた――。


 ――その時だった。


 朱音のデスクに置かれたスマートフォンが、執拗なバイブ音を鳴らした。


 彼女は気だるげに手を伸ばし、画面をタップする。


「……え? 何これ……」


 朱音の瞳が、急速に焦点を結び直す。


 彼女は画面をスクロールしながら、何度も息を呑んだ。


「……さっくー、ちょっと見て。これ、私のファンコミュニティ……"あかねチャンネル特定班"の専用掲示板に届いたタレコミなんだけど……」


 彼女が震える手で差し出した画面には、粒子の粗い、モノクロの静止画が映し出されていた。


 日付は、日下が行方不明になったあの夜の深夜。場所は、装幀市の外れにある、寂れたバス停留所。


 そして、そこに立つ、見覚えのある人影――!


「……っ! 朱音さん、これは……日下さんですか!?」


「間違いないよ。この立ち姿、服装、帽子を被ってるけど、たぶん髪型も。……オーナーやってるリスナーが、自分のコンビニの監視カメラを洗い直して見つけてくれたんだよ。このバス停、本数が極端に少なくて、特定の時間にしかバスが来ないんだけどさ」


 朱音は不敵な笑みを浮かべた。その瞳には、絶望を焼き切るような、配信者としての光が宿っている。


「……さっくー。日下は、私たちが思っているよりずっと、()()()男だったかもしれないよ。……あいつ、死ぬ直前に、わざわざこんなところまで足を運んでるんだもん」


「このバス停……。朱音さん、まさか……」


「そ。思い出した? 私たちにとっては、最悪で、最高に苦い思い出の場所だよ。……本数の少ない、山奥へ向かう深夜のバス。刺客に追われて、逃げ出したあの夜の――」


 僕はモニターの地図を凝視した。

 そのバス停から繋がる唯一の終着点。

 



「――ここ、"見返村"に向かうバス停だ」




 心臓が、一度大きく跳ねた。


 見返村。戸籍を洗浄し、過去を捨てて別人として生まれ変われる場所。

 

 かつて巻 良介が日下 匡へと変貌を遂げた、彼の偽りの人生の原点。

 

「日下のやつ、最後にあの村に向かったんだよ。もっと遠くに逃げることもできただろうに、それよりも、あんなどん詰まりの、逃げ場のない村に向かった。なんでだと思う?」


「……さっき朱音さんが言ってたじゃないですか。マトモな人間は、都市伝説に近づかない。……定本のような、表の光を浴びようとする権力者にとって、あの村はあまりに生臭く、汚らわしい場所だ。……だからこそ、日下さんはそこに"保険"を隠したんじゃないでしょうか」


 僕は立ち上がり、上着をひっ掴んだ。


「……さっくー、考えてることわかるんだけどさ。普通に考えて、めっちゃ危なくない? 私たち、あそこの虎の尾を思いっきり踏んづけて、逃げるように去ったんだよ? 今さら戻ったら、今度こそ袋に詰められて……」


「それでも、行くしかありません。日下さんが遺してくれた最後の頁がそこにあるのなら、清書係として、なぞりに行く義務がある」


 僕は朱音を真っ直ぐに見据えた。


「朱音さん。今度こそ、そのハンドル捌きを見せていただきたいんですが……協力してくれますか?」


 朱音は、少しだけ呆れたように溜息を吐いた。そして、乱暴に髪を掻き揚げると、車のキーを指先で回した。


「……了解。さっくーのその頑固なところ、嫌いじゃないよ。……もう、毒を食らわば皿まで、だ! 行くよ、さっくー、準備はいい?」


 墨千夜が、布団の中からゆっくりと這い出してきた。


「……くふふ。さく、いってらっしゃい」


「……はい、行ってきます、墨千代さん……!」


 彼女の不敵な笑みを背に、僕たちは丑三ツ書店の二階を飛び出した。


 外は、いつの間にか激しい雨に変わっていた。


 装幀市に潜む怪物、定本 誠志郎。


 彼がどれほど高い壁を築こうとも、死者の声は沈黙しない。

 

 日下が命と引き換えに遺した最後の希望を探しに。

 

「――行きましょう、朱音さん。見返村へ」


 エンジンの咆哮が夜の静寂を切り裂き、四輪駆動車は土砂降りの雨の中、深い霧が待ち受ける山嶺へと向かって、猛然と加速を開始した。


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