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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
38/43

三十六頁目:鎖と盤面


 丑三ツ書店の二階から見る窓の外、衆議院選挙の公示を告げる看板が、街灯に照らされて冷たく光っている。


 僕たちに残された時間は、あと四日。


 投開票日の夜、定本 誠志郎が万歳三唱と共に"不逮捕特権"という名の不可侵の鎧を手に入れるまで、カウントダウンは止まらない。


「……さて。どこから手を付けたもんかね。時間は刻一刻と過ぎてるよ、さっくー」


 朱音が、タブレットの画面を指で弾きながら、苛立ったように声を漏らした。


 テーブルの上には、僕が清書したあの"逆さまの恋文"の写しと、叔父が遺した一万字の暗号、そして市立装幀高校三十七期生の卒業アルバムが並べられている。


「定本に二十年前の事件の証拠を突きつける……。でも、残っていそうな物理的な証拠って、一体何があるんでしょう」


 僕は自分の指先を見つめた。あの火傷のような痺れは、真実が近いことを告げているのに、肝心の決定打が見つからない。


「証拠ね……さっくーが清書したあの不器用なラブレターじゃ、裁判所に持って行っても怪文書扱いで終わりだもんね。正式な告発文としては、ちょっとパンチが足りないっていうか」


「ええ。あれはそもそも、巻 良介や羽住 実那、当時の人間を知らなければ解読不可能な代物です。第三者、ましてや警察に理解してもらうのは、この短期間では無理がある」


「なら、やっぱり白河 執の自宅をもう一回洗う? もしくは、日下の家にでも夜這い――じゃないや、凸ってみる?」


 朱音の無茶な提案に、僕は首を振った。


「日下……巻さんの遺体が見つかってまだ数日です。現場周辺には警官が目を光らせているでしょうし、それ以上に定本の手の者が、余計な証拠が残っていないか見張っている可能性が高い。今の僕たちがあそこへ行くのは、わざわざ『消してください』と言いに行くようなものです」


「だーよねぇ……。となると、結局この卒アルから、地味に関係者を探してローラー作戦やっていくしかないかぁ。二十年前の同級生、今の定本のことをどう思ってるか聞き回るの、骨が折れそうだけど」


 朱音が溜息をつき、卒業アルバムのページを無造作に捲ったその時。


 背後の布団の山から、もぞもぞとした動きと共に、掠れた声が聞こえてきた。


「……あかね。あぶない。……だめ。……さわっちゃ、だめ」


 墨千夜だった。


 布団からひょこりと突き出されたその指先が、朱音のパーカーの裾を、力なく、けれど必死に手繰り寄せている。

 

「……? どうしたの、すみちー。お腹空いた? プリン、まだ冷蔵庫にあるよ?」


「……ちがう。……いっちゃ、だめ。……みんな、みてる」


 餅巾着モードの彼女の言葉は、いつも断片的で要領を得ない。けれど、その底にある"清書係"の直感だけは、僕の中に鋭い警笛を鳴らした。


(……危ない? 触っちゃダメ……?)


 僕は、墨千夜が怯えるように見つめている卒業アルバムを凝視した。


 そこにあるのは、若き日の定本誠志郎。そして、亡くなった羽住実那。


 僕は思考を反転させた。叔父の教え通り、"物語を裏返す"のだ。


「……朱音さん。一つ、根本的な疑問をぶつけてもいいですか」


「何さ、改まって。私の今日の運勢?」


「いえ。……そもそも、どうして羽住 実那は、指を切られたんでしょう?」


 朱音はきょとんとした顔で僕を見た。


「は? そんなの、猟奇殺人者の歪んだ愛とか、ドラマティックな演出とかじゃないの? "指切り心中"なんて名前がつくくらいなんだし」


「……学校内での殺人ですよ? 幾ら定本の家が有力者だったとしても、放課後の教室や図書準備室という場所で、そんな手間と時間のかかることをしている余裕があるでしょうか。いつ誰が来るかわからない、見つかれば終わりの状況です」


 僕は、叔父が残した一万行の絶筆を思い出した。


 『あの子の指が、足りない』


 あれは単なる悲鳴ではなく、失われた指の"意味"を問い続けていたのではないか。


「――僕なら、こう考えます。あれは演出でも趣味でもない。口封じだったんだと」


「口封じ? でも、羽住実那はもう死んでるわけだし。……あ、まさか、一緒に心中を図ったことになってる巻 良介への脅し?」


「可能性はあります。でも、巻……日下さんは、その後二十年間、別人として生きることで叔父さんの監視や定本の指示に従ってきました。そんなリスクの高いことをしなくても、定本の権力や金で、あるいは"心中を図った"という弱みだけで、鼻薬は十分に効いていたはずです」


 朱音は腕を組み、不満げに首を傾げた。


「ならさ、他にいなくない? あの場にいたのは、殺された実那、生き残った巻、そして犯人の定本。登場人物、これで全員じゃん。誰に対して口封じをする必要があるわけ?」


 僕は深く息を吸い込み、卒業アルバムの集合写真を指でなぞった。


「――"全員"じゃなかったら?」


「……は?」


「定本の家は、代々この街の議員を務める家系です。定本誠志郎本人も、現在の地位は父親から受け継いだ基盤があってこそ。……でも、考えてみてください。二十年前、彼がまだただの高校生だった頃、そんな事後処理を完璧にこなす力が、彼一人にあったと思いますか?」


「……揉み消すだけの力は、親が持ってたでしょ」


「後処理的なところで親の力を借りることはできるでしょう。遺体の搬送や、警察への圧力などは。……でも、校内で起こった突発的な殺人を、現場にいた高校生の定本一人で、誰にも見つからずに隠し通すのは無理な気がするんです」


 僕は、栞さんのあの震える声を思い出した。


 定本 征志郎は、敵は、とても強く、大きい。


「――いたんじゃないですか? あの現場に。"共犯者"が」


 朱音の顔から血の気が引いていくのがわかった。


「共犯……? さっくー、まさかだけどさ」


「そのまさかです。指を切り取ったのは、物理的な口封じ……いえ、"共犯の証"ですよ。定本一人が手を汚すのではなく、その場にいた全員に指を持たせた。あるいは、指を切り落とすという行為そのものを共有させた」


 僕は自分の指先をギュッと握りしめる。


「そうすれば、誰一人として告発できなくなる。指の存在を明らかにすれば、自分たちまで殺人、あるいは死体損壊の共犯として芋蔓式だ。……そうして、一生解けない沈黙の契約を結ばせた。羽住実那の指を切り取ったのは、定本を守るためではなく、その場にいた全員を逃げられなくするための、呪いの連鎖だったんです」


「……無くなった指は、羽住実那の左手の指全部……五本、だっけ」


「ええ。定本本人を含めて、最大五人。……それが、二十年前のあの部屋にいた、真の共犯者たちの人数だと思います」


「……あっぶな。……卒アルで虱潰しにローラー作戦なんてやってたら、知らずにその共犯者の一人に電話してたかもしれないじゃん。そしたら、即座に定本に報告されて、私たちは今夜中に消されてた……」


 朱音は戦慄し、自分のスマートフォンを遠ざけるようにテーブルに置いた。


 墨千夜が「あぶない」と言った意味が、ようやく氷のような質感を持って理解できた。


 この装幀市という街の各所に、あの凄惨な秘密を共有し、指の一本を、比喩的にか、あるいは物理的にか、抱えたまま大人になった共犯者たちが潜んでいるのだ。


 恐らく、年頃からすれば管理職や、それなりの専門的な職業に就いている者もいるだろう。装幀市周辺に散らばった彼らもまた、定本の後ろ盾となっているのだ。


「……手がかりが、消えたね」


 朱音が力なくソファに沈み込んだ。


「二十年前の事件。唯一の手がかりである卒アルを辿れば、定本の共犯者を叩き起こすことになる。でも、共犯者の存在を恐れて動かなければ、証拠も証人も見つけられない。……完全に詰んでるじゃん。不逮捕特権までのカウントダウンだけが響いてるよ」


「……そうですね。どだい、無理そうだ」


 そもそも、ロクな手がかりもなく二十年も前の事件を、素人が追おうとすること自体、無理があったのだろうか?


 "指切り心中"は既に、閉じられてしまった事件だ。その扉を開ける鍵を、僕たちが手に入れる術はない――。


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