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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
37/40

三十五頁目:盾と残日


 朱音の愛車に揺られ、到着した"装幀市で一番安全な場所"。


 辿り着いた先を仰ぎ見た僕は、思わず天を仰ぎ、眉間に深い皺を刻んだ。


「……朱音さん。どうして"安心して調べ物ができるところ"が、丑三ツ書店の二階なんですか!?」


 そこは、数日前に僕たちが地獄のような思いで"発掘作業"を行い、腐海から辛うじて居住可能な空間へと浄化した、墨千夜の生活スペースだった。


「いーの! ここが一番、この街で安全な場所なんだから。さ、さっさと入るよ」


 朱音は手慣れた動作で裏口の鍵を開け、僕を強引に押し込んだ。


 室内は、あの大掃除のおかげで床が視認できる程度には片付いている。しかし、部屋の隅には再び不穏なコンビニ袋の小山が築かれ始めており、その中心には、分厚い羽毛布団に包まった"何か"が転がっていた。


 墨千夜だ。


 普段、店で見せる凛とした和服姿はどこへやら。今はダルダルの部屋着を纏い、布団からわずかに覗く黒髪と、ふにゃふにゃと動く指先だけが、彼女の生存を証明している。


「……? さく、あかね? なんで……?」


 その声にも、普段のような超然とした気配や、凛とした張りは残っていない。


 いわゆる"餅巾着モード"。こうなると、まともな人間の言葉が返ってくることはまず期待できない。


「……装幀市で一番安心、ねえ」


「そう。考えてもみてよ。丑三ツ書店なんて、一般人から見れば半分幽霊物件、半分都市伝説の腹の中だよ? 相手が定本みたいな、地位も名誉もあるマトモで世間体のある人間なら、なおさらだよ」


「……なるほど。そういう権力者ほど、非科学的な都市伝説なんて信じない。盲点になるってわけですか」


「そ。それにね、もう一つ目論見があるから」


 目論見? と首を傾げる僕の前で、朱音は容赦なく布団の中の墨千夜を掴み上げた。


「――この餅巾着。こんな状態だけど、耳だけはちゃんと機能してるからね。夜中みたいな冴えはないけど、ふとした拍子に、何か鍵になるようなことに気付くんじゃないかなって」


「……あかね、やめてぇ……ゆらさないで……プリンになるぅ……」


 力なく掴まれ、ぶら下げられる墨千夜を、僕は少しだけ哀れに思った。


 しかし、彼女の店主としての直感が、餅巾着状態であっても、核心を突くことがあるというのが事実であれば、それは非常に心強い。


 何せ、今の僕らには何の指針も無いのだ。僅かでも、ほんの僅かでも構わない。前に進むための材料を欲していた。


 僕は窓際の文机(といっても、かつてはゴミに埋もれていたものだが)にノートを広げ、現状を整理し始めた。


「……まとめますよ。僕たちが追うべき真実の壁。それは、現職の市議会議員であり、今回の衆議院選挙に出馬している定本 誠志郎です」


「あのおっさん、デカいのは声ばっかりかと思ったら、ちゃーんと市議会の中でも影響力があるんだってね。地元の土建屋とか、古い利権関係をガッチリ握ってるタイプだよ」


 朱音がスマホで手際よく情報を検索しながら補足する。


「ええ、調べればすぐ出てきます。国政に乗り出さなければ、次の市長はあの人だったんじゃないか……なんて噂も本気で流れているくらいだ。装幀市の表の顔としては、これ以上ないほどの大物ですよ」


「二十年前、図書準備室で殺しをやらかして、指を切り取ったかもしれない殺人鬼が、次の市長? うへえ、マジで世も末だね、この街!」


「世間の誰も、そんなことは知りませんから。だからこそ、僕たちが明るみに出す必要がある。……それが、叔父さんの絶筆を清書した、僕の責任だ」


「んじゃ、当面の目標は、定本の二十年前の事件を掘り返して、証拠を揃えて警察に突き出す。で、逮捕してもらう。……それがベスト、だよね?」


 朱音の言葉に、僕は小さく頷いた。


 しかし、その道のりは険しい。相手は権力者だ。かつて僕のスマホに仕掛けられたマルウェアのように、派手に動けば、今度こそ僕たちは消されるだろう。


 そんな時だった。


 背後で、もぞもぞと芋虫のように動いていた布団の山から、掠れた声が漏れた。


「……さく。じかん、ない」


「……? どうしたんですか、墨千夜さん」


 布団から一本の白い腕が伸び、僕に何かを手渡してきた。


 それは、ドアポストに投函され、玄関に落ちていたであろう一枚の折り込みチラシだった。衆議院選挙の候補者たちが並ぶ、選挙公報のダイジェストだ。


「……? 選挙がどうかしたんですか? 定本の顔なら、もう見飽きるほど街中で見ていますが」


 墨千夜は、布団に顔を埋めたまま言葉を続けた。


「……せんきょ、はじまる。……そしたら、てが、だせない……」


 その言葉の意味を、朱音が真っ先に理解した。彼女はハッとして顔を上げ、僕を凝視した。



「――さっくー。知ってる? 国会議員にはね、不逮捕特権っていうのがあるんだよ」



「不逮捕特権……!?」


「日本国憲法第五十条。国会議員は、国会の会期中は逮捕されない。例外は現行犯か、院の許諾がある場合だけ。……今回の選挙、定本が当選するのはほぼ確実視されてる。そして選挙の後、一ヶ月以内に特別国会が開かれなきゃいけないんだ」


 朱音の声から、余裕が消えていた。


「そうなったら……定本を逮捕するのは、今の百倍難しくなる。警察の動きは鈍くなるし、院の許諾なんて、あの手回しのいい定本が簡単に許すはずがない。その間に、彼は証拠も証人も、そして嗅ぎ回っている私たちも、完全に始末するだろうね」


「なら、その国会が終わるまで待って、そこから動けば……」


「国会の会期は、通常なら百五十日。半年近く続くんだよ」


「……半年、近く。駄目です朱音さん、そんな時間を、相手に与えたら――!」


「うん、その間に定本は、国会議員としての権力をさらに盤石にするだろうね。予算を動かし、人事を動かし、装幀市を完全に自分の庭にする。……そうなったら、二十年前の古い事件なんて、誰も相手にしなくなるよ」


 僕は絶句した。


 法律という名の盾。定本が国政へと急いだ理由は、単なる野心だけではない。自分を追う影――叔父や僕たちから身を守るための、最強の鎧を手に入れるためだったのだ。


「……さく、いそごう」 


 墨千夜が、布団の中から琥珀色の瞳をわずかに覗かせた。その瞳だけは、いつもの冴えを取り戻しているように見えた。


「――ええ、勝負を仕掛けるなら、奴が"盾"を手に入れる前。……そのページを捲り終える前に、すべてのインクを乾かさなければならない」


 僕たちの勝利条件。


 それは、定本 誠志郎が衆議院議員として更なる力を手に入れる前――つまり、衆議院選挙の投開票日までに、彼を法の場へと引きずり出すこと。


 そして。



 ――その投開票日は、今週末にまで迫っていた。



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