三十四頁目:淀みの朝
低く唸るようなエンジン音が、駅前ロータリーの喧騒に混じっていた。
朱音の愛車――数日間の入院を余儀なくされ、見返村に向かう際には活躍の機会を失っていた四輪駆動車は、磨き上げられた塗装を街灯に反射させて復活を遂げていた。
その助手席に座り、僕はフロントガラス越しに街の貌を眺めていた。
視線の先には、急ごしらえの演説台に立ち、マイクを握りしめる一人の男の姿がある。
「――今の政権は、老人と既得権益者のことしか考えていない! これでは、この国は、そしてこの装幀市は衰退の一途を辿るばかりだ!」
張り上げられた声は朗々と響き、足を止めた聴衆を魅了していく。
定本 誠志郎。
仕立てのいい紺のスーツに身を包み、自信に満ちた笑みを湛えるその男は、あたかも市民の代弁者であるかのように振る舞っている。
「……若者の未来を切り拓く! 透明性の高い政治を! 膿を出し切り、新しい物語を書き始めようではありませんか!」
立派なことを宣うものだ、と僕は内心で毒づいた。
彼が語る綺麗事の裏側に、どれほど無残に塗り潰された絶筆が沈んでいるかも知らず、人々は熱狂的な拍手を送っている。二十年前、図書準備室で全ての指と共に尊厳を奪われた少女のことも。その罪を背負わされ、別人として生きることを強要された男のことも、この演説会場の誰も知らない。
僕と朱音は、無言のままその光景を複雑な眼差しで見守っていた。
すると、白バイに乗った警官が、路上駐車を咎めるべくこちらに近づいてくるのが見えた。
「……チッ。空気読めないねえ、お巡りさんも」
朱音は吐き捨てるように言うと、無言でギアを入れ、ゆっくりと車を滑り出させた。背後で定本の熱い演説が遠ざかっていく。
走り出した車内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
朱音はハンドルを握りながら、チラリとバックミラー越しに僕の様子を伺った。
「衆議院議員候補、だってさ。……さっくー、どう思う? あんなのが街のリーダー面してるの」
「……複雑ですよ、気持ちとしては。でも、仕方ないでしょう。"まだ"定本は犯罪者でも何でもない。ただの、将来を嘱望される若手政治家だ」
僕は努めて感情を排した声で応じた。膝の上に置いた拳が微かに震えているのを、自分でも自覚していた。
「落ち着いてるね、さっくー。てっきり、車から飛び出してマイク奪い取るくらい、取り乱すもんだと思ってたよ。日下さんがあんなことになった後だしさ」
「そんなこと、しませんよ。いちいち動揺していて勝てる相手でもありませんし。……それに、僕の仕事は"暴く"ことではなく、あくまで"清書"することですから」
口ではそう言いながらも、腹の底では黒い憤りが泥のように煮立っていた。
日下 匡――いや、巻 良介。
僕がずっと、真実を聞きたかったはずの男。
「……日下さんの遺体、結局、湾港の方から上がったんだよね」
朱音が静かに、言葉を選びながら切り出した。
数日前、装幀市を流れる川が海へと注ぐ、とある港の片隅で発見された水死体。
引き上げられた遺体は、数日間水の中にあったことによる損傷が激しく、身元の特定には時間を要したと報道されていた。
「一部に残っていた所持品……財布と免許証は持っていたみたいで、決め手になったみたいです。警察は、自殺と事故の両面で捜査しているようですが……」
とはいえ、それだって随分と怪しいものだ。
その死体が彼のものだとわかるように――ある種の見せしめとして殺されたのだと考えてしまうのは、邪推をし過ぎているだろうか?
「……日下の両親ね。遺体の引き取り、拒否ったんだってさ」
朱音の言葉に、僕は窓の外を流れる無機質な夜景を見つめたまま、小さく頷いた。
「……道理ですね。彼らにとって、それは本当の息子の遺体ではない可能性が高いんですから」
腐敗や損壊によって面影が失われていたから、だけではないはずだ。
二十年前、巻良介と入れ替わった本物の日下がどこへ行ったのかはわからない。だが、引き取りを拒否した両親の冷徹な反応は、日下の正体が巻良介であったという僕たちの仮説を、皮肉にも補強していた。
息子によく似た、けれど決定的に異なる何者かが還ってきたことを、彼らは本能的に悟ったのではないか。
「……とにかく、事態は最悪だよ。栞さんはもう街を出ちゃったし、日下はあんなことになった。装幀市に残った、当時の事件を知っていそうな証人は、これでもういなくなったに等しい」
「いなくなったわけじゃないでしょう。当時の装幀高校の人間……叔父さんたちの同級生を探せば、まだ話を聞ける可能性はあります」
「二十年前の卒アルから虱潰しで? かあー、さっくー、それは時間かかりそうだねぇ。相手はもう、国政にまで手を伸ばそうとしている大物なんだよ?」
朱音の懸念はもっともだった。定本誠志郎という巨大な壁に対し、僕たちの手元にあるのは一冊の古いアルバムと、死者の残した曖昧な言葉だけだ。
「仕方ないでしょう。相手が強いのなら、時間をかけて準備して、外堀から埋めていくしかありません。……叔父さんが命を懸けて繋いだこの物語を、ここで終わらせるわけにはいかない」
僕はカバンの中に忍ばせている卒業アルバムの感触を確かめた。
三十七期生。二十年前に高校生だった、まだ若さを残す顔ぶれ。
そこには、自分であった頃の巻 良介が、叔父さんが、栞さんが、亡くなった羽住 実那がいた。
そして何より――定本 誠志郎も。
「……清書係として、一文字ずつ、なぞっていくんです。たとえそれが、どれほど気の遠くなるような作業だとしても」
僕の右手の指先が、今までで一番激しく、けれど冷徹な痺れを放ち始めていた。
叔父の絶筆、一万字の"指が足りない"。
その欠けた最後の一本を探す旅は、今、最終章の幕を開けた。
「……わかったよ。とことん付き合うよ、さっくー」
朱音は力強くアクセルを踏み込んだ。ガクン、と車内が揺れる。
「で、まずはどっから手を付けるのさ。片っ端から電凸でもしてみる? 『二十年前、お前んとこの学校で何があったのか吐けー!』ってさ」
「……下手したら通報もんですよ、それ」
それに、そんな真っ向から当たっても上手くいく気がしない。
"指切り心中"の真相は、二十年間秘匿されている。つまりそれは、誰も知らないか、誰も語らないかのどちらかだ。
何も知らないまま立ち向かっても、はぐらかされて終わってしまうだろう、ならば。
「まずは、定本 誠志郎――僕らの敵について調べます。朱音さん、どこか安心して調べ物ができるところへ」
「かしこまり、安全運転で行くよ!」
「……そう言うのなら、少しスピード、落としましょうか」




