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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第三部「逆さまのラブレター」
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三十三頁目:決意の夜と、冷たき再会


 栞が夜の帳へと消えていった後、僕は一人で"丑三ツ書店"の重い扉を押し開けた。


 店内に満ちる古い紙とインクの匂い、そして墨千夜が焚いている沈香の幽かな香りが、火照った脳を少しだけ冷やしてくれる。


 応接スペースでは、朱音がソファに深々と沈み込み、不貞腐れたような顔で自分の爪を眺めていた。テーブルの上には、先ほどまで全神経を注いでいた、あの"逆さまの恋文"が、役目を終えた亡骸のように置かれている。


「かーっ! 私は最初から思ってたんだよね。あの定本って男、なーんか裏があるってさ。顔付きからして、清廉潔白な政治家一族の御曹司ってタマじゃないでしょ!」


 僕が戻ったことに気づくと、朱音は待ってましたと言わんばかりに吠えた。その声は静かな店内に不自然に大きく響く。


「……朱音さんがそう思うのは、前に駅前で配信を邪魔されたからでしょ? 私怨が混じりすぎてますよ」


「いーや、それだけじゃないね。私の配信者としての勘が言ってるんだよ。政治家ってやつはね、頭のてっぺんから爪先まで、特権意識と隠蔽体質で腐りきったやつばっかりなんだから! 特にあの定本って男……あの冷え切った目。あれは人の温かさを知ってるやつの目じゃないよ」


「……偏見が過ぎますよ。でも」


 僕は自分の指先を見つめた。


 あの手紙をなぞった時に感じた、あの底なしの憎悪。


 巻 良介という男が、人生のすべてを擲ってでも隠し、そして伝えたかった怨念の矛先。


「あながち、朱音の言うことも外れてはいないさ。少なくとも、その定本 征志郎という男に関してはね」


 店の奥から、墨千夜がゆっくりと姿を現した。


 彼女はいつもの和服の袖を整えながら、僕たちの向かいの椅子に腰を下ろした。琥珀色の瞳は、夜の闇をそのまま溶かし込んだように深く、静かだ。


「"告発文"――巻 良介の最期の言葉を、私たちは真摯に受け止めなきゃいけない。朔、君はあの歪な筆跡の中に、彼が二十年かけて熟成させた地獄を見たはずだ」


「……はい。あれは愛の言葉なんかじゃなかった。定本への、執拗なまでの呪いでした」


「さて。それを踏まえて、朔。……君はどうするんだい?」


 墨千夜が、試すような視線を僕に投げかけた。


 店内の空気が、ピリリと緊張を孕んで引き締まる。


「定本征志郎を追うかどうか、さ。真相を暴き、悪を討つなんてのは、しがない古本屋の清書係がやる仕事じゃない。……ここで筆を置いて、栞さんのようにこの街を去ることもできる。君はもう、十分すぎるほど役割を果たした。……だが、あの恋文を読んで、すべてを"仕事"として割り切れるほど、君はドライな人間でもないだろう?」


「……僕は」


 僕は視線を落とした。


 頭の中に、叔父の顔が浮かぶ。


 いつも難しそうな顔で原稿に向き合い、僕に様々な物語を見せてくれた人。


 彼が死ぬ間際、あの一万字の狂気の羅列を書き殴った時、その瞳には何が映っていたのか。


 定本 征志郎という存在。


 それが、僕の大切な人たちを壊し、狂わせ、沈黙させてきた元凶なのだとしたら。



「――僕は、定本を追おうと思います」



 自分でも驚くほど、声は震えなかった。


「危険な目に遭うかもしれない。……いえ、間違いなく遭うでしょう。でも、最初から僕の目的は変わっていません。叔父さんの死の真相を探ること。そのために必要なら、僕はどんな深淵にだって足を突っ込みます。……清書係として、最後まで物語を見届ける義務があるんです」


 それを聞いた墨千夜は、ふっと満足げに口元を綻ばせた。それは師が弟子に贈る、初めての"合格"のような笑みだった。


「よーし! そうと決まれば善は急げだね! さっくー、よく言った! 私は最初から、あんたがそう言うって信じてたよ!」


 それまで不貞腐れていた朱音が、弾かれたように立ち上がった。


「で、まずはどこから手をつける? 定本本人の事務所にカメラ持って凸る? 『二十年前、図書準備室で指切りましたかー!?』って!」


「……死にたいなら一人で行ってください。相手は権力者です。証拠もなしに突っ込めば、今度こそ僕たちは、法的にも物理的にも消されます」


「ちぇっ、相変わらず慎重派だねえ。じゃあ、どうすんのさ」


 僕は少し考えた後、テーブルに置かれた卒業アルバムへと視線を向けた。


 そこには、巻 良介――後の日下さんの若かりし頃の笑顔がある。


「……少し思い切った動き方をしてみようと思うんです。正攻法じゃ、定本の鉄壁の守りは崩せない。なら、死人に会いに行ってみようと思いまして」


「……死人に会いに行く? さっくー、それって……」


「ええ。いるじゃないですか。もう社会的には死んでいるのに、この世界のどこかで生きているはずの人が、たった一人」


 僕の言葉に、墨千夜が鋭く目を光らせた。


「巻 良介……。いや、今は日下と呼ばれている男か」


「はい。行方不明になった日下さんを見つけ出し、直接話を聞くんです。彼こそが、二十年前の現場に立ち、定本の罪をその目で見た唯一の生き残りですから。今なら、詳しいことも聞けるでしょう」


「でもさ、さっくー」


 朱音が腕を組み、現実的な問題を突きつける。


「行方不明の日下を探すツテなんてあるの? 警察だって見つけられないんだよ。どうにかして、雲隠れしちゃったあいつをさ」


「そりゃあ、ありますよ。……例えば、優秀な特定班(リスナー)をたくさん抱えた、有名インフルエンサーとか、ね」


 僕がニヤリと笑って彼女を見つめると、朱音は一瞬キョトンとした後、パァッと顔を輝かせた。


「……っ! 私!? やだ、さっくー、たまには良いこと言うじゃん! 配信機材はもちろん最新、私のフォロワー百万人を舐めないでよね! 日下の目撃情報なんて、三日もあれば洗い出してみせるよ!」


「お願いします、朱音さん。……頼りにしてますよ」


「任せなさいって! "丑三ツ書店"の名にかけて……あ、いや、あかねチャンネルの威信にかけて!」


 墨千代も納得したように深く頷いた。


 こうして、僕たちは最大の敵――定本征志郎という、街の裏側そのものと戦うための第一歩を踏み出した。


 夜の"丑三ツ書店"。僕たちは一つの大きな共犯関係を結び、夜明けを待たずにそれぞれの準備に取り掛かった。


 未来はまだ暗い。けれど、清書すべき物語の続きが、はっきりと見えた気がした。




 ――しかし。




 物語というのは、往々にして書き手の意図を裏切る。


 僕たちの決意を嘲笑うかのように、事態は翌朝、最悪の形で急転した。


 翌朝、午前八時。


 朱音が「特定班から速報が入った!」と僕の部屋に転がり込んできたとき、僕はまだ希望を捨てていなかった。


 日下さんは生きている。どこかに隠れて、時が来るのを待っている。そう信じていた。


 だが、朱音が差し出したスマホの画面。


 SNSで拡散されているニュースの見出しを見た瞬間、僕の指先から体温が消えた。


『装幀市郊外の山林で、成人男性の遺体発見――死後数日経過か』

『衣服の所持品から、行方不明となっていた出版社勤務の日下(くさか) (たすく)氏と判明』


 日下さんは、あっさりと見つかった。

 僕たちが探し出すよりも早く。


 そして――。



 ――冷たくなった"遺体"となって、発見されたのだった。



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