三十二頁目:宵闇の餞(はなむけ)
「――犯人は、定本 征志郎。……あなたたちのクラスメイトだった、定本 征志郎。違いますか?」
僕が投げかけたその名前は、深夜の"丑三ツ書店"に冷たく、そして重く響き渡った。
一瞬、すべての音が消えた。古い書物の匂いと、墨の香りが立ち込める店内の空気が凍りつき、静止した時間の中で、四人の視線が交錯する。
「……さ、さだもと、せいしろう……?」
沈黙を破ったのは、朱音の掠れた声だった。彼女は驚愕に目を見開き、僕と、そしてソファに深く腰掛けたままの栞を交互に見つめる。
墨千夜は何も言わず、ただ静かに、射抜くような鋭い眼光を栞へと向けていた。
対する栞は、僕の言葉を真っ向から受け止めていながら、その表情を微塵も崩さなかった。
それどころか、彼女の唇の端が、幽かな弧を描く。
それは降参を告げる笑みでも、嘲笑でもなかった。まるで、ようやく正しい頁に辿り着いた読者を迎えるような、ひどく意味深で、そして哀しげな微笑だった。
「……犯人って、いったい何のことかしら。朔くん、あなたの想像力は、執さんに負けず劣らず豊かすぎるようね」
栞さんは、硝子細工が触れ合うような涼しい声で言った。
「私はただ、あの不器用なラブレターに、どのような思いが込められていたのかを知りたかっただけ。……それ以上のことは、私には身に覚えがないわ」
「……そうですか。わかりました」
僕は短く答え、手元の清書原稿をゆっくりと整えた。
彼女が否定することは、最初からわかっていた。真実を口にするということは、時に、その真実そのものを壊してしまうことにもなりかねない。そして、今回のこれは、恐らくそういう類のものだ。
だが、納得できないのは朱音だった。彼女は不満げに頬を膨らませ、テーブルを叩くようにして立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、さっくー! 栞さん、絶対なんか知ってるじゃん! なんでそんな、わかったような顔して引いちゃうのさ!」
「……朱音さん」
「だってそうでしょ!? 犯人が定本征志郎だって、さっくーは断言したんだよ。それが叔父さんの死にも、二十年前の事件にも関わってるんでしょ!? なのに、なんでそんな『関係ありません』みたいな顔で済ませられるの!?」
朱音の激しい追及。けれど、栞はやはり崩れない。眼鏡の奥の瞳は、凪いだ湖面のように静まり返っている。
「……あくまでも、あれはただの"心中"、自殺だった……って、そう言いたいの? 誰かが仕組んだ殺人じゃなくて、羽住 実那は勝手に死んだって……そう言い切るつもり!?」
朱音の声が震える。正義感の強い彼女にとって、この沈黙という名の拒絶は、何よりも耐え難いものなのだろう。
栞は、ゆっくりと僕の方へ視線を戻した。
「なんとでも言っていいわ。……それよりも、ラブレターに込められていた気持ちは、結局どんなものだったの? このお店の"清書係"なら、それを教えてくれるでしょう?」
その問いに、僕は迷わず、平然とした声で返した。
「……込められていたのは、純粋な憎悪でした。あれは、ラブレターの形をした、痛烈な告発文です。二十年前、あの図書準備室で起きたことを、決して許さないという……一人の男の執念そのものです」
「…………」
栞さんは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、すぐに満足げな、どこか憑き物が落ちたような顔をして、小さく頷いた。
「……そう。わかったわ。……ありがとう。最後にそれが聞けて、本当に満足よ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、チャコールグレーのコートの襟を正した。
それは、この物語からの退場を意味する、明確な仕草だった。
「ちょっと、あんた! 待ちなさいよ! これで終わりじゃないでしょ!? まだ聞きたいことが――」
店を出ようとする栞の背中に、朱音が追いすがろうとする。
だが、それを制したのは、これまで沈黙を守っていた墨千夜だった。彼女は朱音の肩を、柔らかく、けれど拒絶を許さない力強さで押さえた。
「朱音、落ち着いて。栞さんは、決して私たちを煙に巻こうとしているわけじゃないわ」
「……すみちー、そんなこと言ったって! あのまま行かせちゃったら、もう二度と――」
「たぶん、彼女は話さないんじゃない……話せないのよ」
墨千夜の低い声が、朱音の勢いを止めた。
そう、話さないのではなく、話せない――恐らく、あの事件にはそういった、一種の抑止力のようなものが働いている。
僕の脳裏に過っていたのは、叔父さんのパソコンに仕込まれていたマルウェアと、謎の襲撃犯たち。
栞さんが抱えているのは、単なる秘密ではない。それは、二十年間、自分の命を繋ぎ止めるための唯一の命綱だったのだ。
「……僕、少し行ってきます」
僕は朱音と墨千夜に一言残し、足早に店を出た。
夜の装幀市の街並みを、冷たい風が吹き抜けていた。
シャッターを下ろした商店街の片隅。街灯の下に、栞さんの細い影が佇んでいた。
僕が近づく足音に気づくと、彼女はゆっくりと振り返った。
「ごめんね、朔くん。お別れが、こんな形になってしまって」
「いえ、謝らないでください。栞さんは最後まで、僕たちに……いえ、僕に手がかりを残してくれたじゃないですか」
僕は、彼女がこの店にあの手紙を持ち込んだ真意を、ようやく理解していた。
彼女は、真実を語る証人にはなれなかった。けれど、真実の一端を僕に手渡してくれた。それは、彼女なりの、最大限の抵抗であり、叔父への手向けだったのだ。
僕の言葉を聞いた栞さんは、一瞬、驚いたように瞬きをした。
やがて、彼女は憑き物が落ちたかのような、安らかで、どこか少女のような無垢さを感じさせる表情で笑った。
「……ふふ。執さんに、本当によく似ているわね。頑固なところも、言葉の裏側を覗き込もうとするところも」
彼女はそう言うと、夜闇の向こう側へと、一歩を踏み出した。
もう、その背中には、先ほどまでの悲壮な緊張感はない。
だが、去り際。
彼女は一度だけ足を止め、振り返ることなく、夜の静寂に溶け込むような声でこう告げた。
「……朔くん。敵は、あなたが思っているよりもずっと強く、そして大きいのよ。この装幀市そのものが、一人の男の意志で編み上げられた物語だと言ってもいいくらいに」
その"一人の男"が誰を指すのか、言うまでもなかった。
「あなたが本当に、あの日の真相に……執さんの見た景色に辿り着きたいのなら、すべてを"裏返す"必要があるわ。あの、不器用で醜いラブレターがそうであったようにね」
「……ええ。わかりました。肝に銘じておきます」
僕の返事を聞き届けると、栞さんは今度こそ、二度と振り返ることはなかった。
彼女の足音が、遠くの暗闇へと消えていく。
市立図書館、郷土資料室の主であり、叔父のよき理解者であった綴里 栞。
彼女は、自分自身の物語をこの街から切り離し、新しい場所へと旅立っていった。
僕は一人、冷え切ったアスファルトの上に立ち尽くし、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、月が冷淡な光を投げかけている。
(裏返す、か……)
叔父が遺した一万字の絶筆。
日下さんも触れたであろう記帳本。
そして、巻 良介が綴った逆さまの恋文。
すべての物語が、一つの方向へと向かっている。
右手の指を握り締めれば、いつもの、あの火傷のような痺れが、これまでで最も強く、僕の全身を支配しようとしていた。
それを振り払うようにして、踵を返し、再び"丑三ツ書店"の明かりを目指して、夜の街を歩き出すのだった。




