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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第三部「逆さまのラブレター」
33/44

三十一頁目:裏返る恋文-後



 ――いや、違う。

 


 部外者だからこそ、見えるものがあるはずだ。



 物語の中に囚われた当事者には見えない、物語の全体像を俯瞰できるのは、読者である僕だけだ。


(考えろ。あの人たちは、常に読者のことを考えていたはずだ。叔父さんは、どうやって僕に真実を伝えようとした?)


 脳裏に、叔父の代表作の一節が浮かび上がる。



『真実を知りたければ、物語を裏返せ』



 その言葉が、雷鳴のように僕の思考を貫いた。

 

 裏返す。

 物理的に逆さまに書かれたこの手紙。

 

 もし、中身そのものも"逆さま"だとしたら?


(愛の反対が何なのか。そんなものは、愚かな僕にだってわかる――)


 ――()()()()()()()()()。 


 僕はペンを止め、清書したばかりの文章を、意味のレベルで反転させ始めた。


 清書係としてのフィルターを一枚通す。"逆さまの愛"を"真っ当な憎悪"へと翻訳していく作業だ。

 

 "愛している"は、"憎んでいる"の裏返し。

 "守りたい"は、"壊したい"の裏返し。

 "死ぬまで一緒だ"は、"命ある限り追い詰めてやる"の裏返し。


(……まさか、これは――!)


 この文は、単なる盲目的な恋文じゃない。


 熱烈な愛の衣を纏わせた、剥き出しの"()()()"――!


(憎悪……。誰に対して? 被害者である羽住 実那に? ……いや、あり得ない。巻は彼女を愛していた。なら、この呪詛の矛先は……彼女を奪った、あるいはこの心中という"結末"を用意した、真犯人に対してだ!)


 殺人事件を"心中"という形に仕立て上げ、指を切り取り、一人の少女の尊厳を奪った"犯人"。


 巻は、死の直前にそれを知っていた。けれど、ストレートに書けば、あの街を支配する強大な力によって消されてしまう。


 だから彼は、文字を逆さまにし、意味を反転させ、ラブレターという"装丁"を施すことで、真実を未来へと投函したのだ。


 誰かが、その裏地に気が付くと、そう信じて――。


(――なら、手がかりは、必ずある。叔父さんも、これを解読したからこそ、あの一万字の暗号を遺したんじゃないだろうか)


 僕はあらゆるパターンを試していく。


 まずはアナグラム。だが、それでは情報の密度が低すぎる。


 次に、文字の"逆さま"の形状から導き出される、別の記号への変換。

 

 僕は、手紙の中に不自然に配置された句読点と、逆さまに書かれたことで別の漢字の一部に見える筆跡の跳ねに注目した。

 

 例えば、一枚目に出てくる"誓"という字。


 これを逆さまに書くと、上部の"折"に似た部分の払いが、反転した瞬間に"言"の字の特定のストロークを強調するように歪んでいる。


 二枚目の"僕"という字。人偏の部分が、逆さまに書かれることで不自然に長く、まるで数字の"1"を二つ並べたような形になっている。

 

 僕はそれらを一つずつ、和紙の余白に書き出していった。

 

「……トリミング、そして変換」

 

 逆さまの"君"という字の下半分は、反転すると"口"と"田"の組み合わせ……つまり"累"や"罪"といった文字の構成パーツに見える。


 逆さまの"永遠"の"永"は、反転すると水の流れが逆流し、特定の部首……"矛"や"予"に近い形を結ぶ。

 

 書き連ねた情報の破片が、僕の脳内でジグソーパズルのように噛み合い始める。

 

「最初の行……"一"……次の行……"正"……。いや、これは漢字そのものではなく、パーツを組み合わせた時の読みだ」

 

 母音と子音を入れ替える。


 逆さまに綴られた"心"のテンが、反転すると"点"ではなく"線"として機能し、隣の文字と連結する。

 

(――見えてきた。日下さんが……巻が、震える指で隠したかった、真実の"名前"が)


 静域の温度が、数度下がったような錯覚に陥る。


 脳が沸騰するような熱を帯び、耳の奥でドクドクと激しい鼓動が鳴り響く。

 

 僕は、手紙の中に三回だけ登場する不自然な誤字を抜き出した。

 

 一箇所目。逆さまの"正"の字の、一画目の部分が不自然に太い。


 二箇所目。逆さまの"本"の字の、横棒が突き抜けている。


 三箇所目。逆さまの"征"の字の、ぎょうにんべんが鋭すぎる。

 

 これらは誤字ではない。


 これこそが、巻 良介が二十年前、死の淵で絞り出した告発の正体だったのだ。

 

 反転させる。

 組み合わせる。

 

 そこから浮かび上がったのは、僕の叔父が最期まで抗い、栞が恐怖し続け、そしてあの不気味な黒幕の存在を決定づける、一人の男のフルネームだった。

 

 二十年前、装幀高校のヒエラルキーの頂点に立ち、心中という凄惨な舞台を演出し、すべてを"事故"として葬り去る力を持っていた存在。


 叔父と、栞と、そして日下のクラスメイト。


 その名前が、インクの染みの中から、どす黒い実体を持って浮き上がってきた。


「…………っ!」


 最後の一文字を書き終えた瞬間、視界が激しく歪んだ。


 全身の力が抜け、僕は椅子から滑り落ちるようにして、畳の上に仰向けに倒れ込んだ。


 ガタン、と文机が揺れる音が、遠くで聞こえる。

 肺が焼けるように熱く、酸素が足りない。


「っ! さっくー! 大丈夫!?」


 静域の扉が乱暴に開け放たれた。


 朱音が真っ先に駆け寄り、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。その後ろには、静かに立ち尽くす墨千夜と、どこか納得したような表情の栞が立っている。


「ハァッ、ハァッ……、だ、大丈夫……です……」


 僕は朱音の手を借りて、ふらふらと上体を起こした。


 脳が焼けるように熱い。指先は感覚を失い、冷たい氷のようになっている。

 

 僕は、書き殴ったばかりの和紙を、震える手で栞さんに向けて差し出した。

 

 心中事件は、心中などではなかった。


 一方的な殺害と隠蔽。


 そして、生き残った巻 良介は、その罪を一生背負わされるという生殺しの刑を宣告されたのだ。

 

 叔父の絶筆、一万字の『あの子の指が、足りない』という言葉。


 それは、奪われた実那の尊厳を、文字の力で必死に繋ぎ止めようとした、二十年越しの抵抗だった。


 僕は栞の目を、真っ向から見据えた。


 彼女の瞳の奥にある深い絶望の淵に、僕は、清書係として見つけ出したその"答え"を、迷いなく叩きつける。


「……栞さん、わかりました。二十年前の事件。あの凄惨な、"指切り心中"の犯人は――」


 僕は、ある種の確信とともに、それを口にした。




「――定本、あなたたちのクラスメイトだった、定本 征志郎。違いますか?」




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