三十一頁目:裏返る恋文-前
街全体が息の根を止めるかのような重苦しい静寂に包まれている。夜はいつだってそうだ、息が詰まるような暗闇の中で、人々は逃げるように眠りに就く。
深夜二時の"丑三ツ書店"。シャッターが下ろされた店内には、四人の男女が集まっていた。
僕――白河 朔。
店主の墨千夜。
協力者の朱音。
そして、市立図書館の司書であり、叔父の知人であった――綴里 栞。
中央の応接テーブルには、あの異様な"逆さまの恋文"が置かれている。三枚の便箋に綴られた、重力に逆らう、逆さ吊りの筆跡。それが放つ冷たい熱気にあてられたのか、店内の空気はひどく重く、淀んでいた。
「……来ていただいてありがとうございます、栞さん。こんな時間に」
僕は、向かいに座る栞を真っ直ぐに見据えた。
彼女は上品なチャコールグレーのコートを着たまま、微塵も揺らがない瞳で僕を見返した。その表情は、まるで精巧に作られた蝋人形のように静謐だ。
「構わないわよ、朔くん。この手紙を預け、相談を依頼したのは私なのだから。……それに、執さんの甥であるあなたなら、いつかここへ辿り着くと思っていたわ」
「……栞さん。単刀直入に言います。僕は、あなたが叔父さんの死について、何かを隠している……いえ、核心的な何かを知っているんじゃないかと思っています」
朱音が息を呑む音が聞こえた。墨千夜は無言で、琥珀色の瞳を細めている。
「……私が? 執さんの死を?」
「ええ。この異様な恋文、二十年前の心中事件、そして姿を消した同級生の"巻"……いや、日下さんと名乗っていたあの男。これらはすべて、見えない糸で繋がっているんでしょう? 叔父さんはその糸を手繰り寄せようとして、あの一万字の杭を打ち込み、そして死んだ」
栞は、薄い唇の端をわずかに吊り上げた。それは微笑というにはあまりに儚く、拒絶というにはあまりに蠱惑的な、ミステリアスな笑みだった。
「さて、どうかしら。私にはよくわからないけれど――この手紙の主なら、あなたが知りたい"声"を聞かせてくれるかもしれないわね。……それが、あなたのお仕事でしょう?」
栞の言葉は、それ以上の追及を許さない"拒絶"の響きを含んでいた。
僕は言葉を飲み込み、背後に立つ墨千夜に視線を向けた。
彼女は、何も言わずにただ一度、深く頷いた。
――もう、言葉による対話の時間は終わったのだ。
これからは、死者の筆跡を通じて、紙の裏側に隠された真実をなぞるしかない。
僕は清書のための静域へと足を踏み入れた。
四畳半の畳の部屋。外界の音を一切遮断した、真空のような空間。
中央の文机の上には、真っ白な和紙と、あの逆さまの恋文が並んでいる。
僕は深呼吸を一つ。肺の奥を凛とした空気で満たさなければ、飲まれてしまいそうなほどに、今回の"絶筆"は、密度が高い。
ペンを手に取り、まずは手紙をそのままの向きで眺める。
文字がすべて逆さまだから、一瞬だけ視覚が混乱し、平衡感覚が狂いそうになる。だが、一度それに慣れてしまえば、そこにあるのは拍子抜けするほどにありふれたラブレターだった。
『君を愛している』
『僕たちは二人で一つだ』
『この世界が僕たちを許さなくても、僕は君を離さない』
(……熱烈、というよりは……稚拙だな)
書き手である巻――あるいは後の日下の言葉選びは、どこか幼く、感情に任せたまま筆を走らせているように見える。
所々で文章の繋がりが希薄になり、激情に耐えかねたのか、インクが滲み、線が激しくブレている箇所も多い。
僕は和紙に向かい、その一文字一文字をなぞり始めた。
筆跡をコピーし、彼がこの文字を書いた時の心拍数、指先の震え、思考の速度を自分に憑依させていく。
……けれど、おかしい。
(――駄目だ、これじゃ全く、踏み込めない)
なぞればなぞるほど、僕の中に流れ込んでくるはずの"感情"が、驚くほど希薄なのだ。
文面はこれほどまでに熱く、狂おしい愛を語っているのに。
筆致はこれほどまでに激しく、震えているのに。
そこに宿っているのは、冷徹なまでに塗り固められた感情だった。
まるで、完璧に構成された小説の台詞をなぞっているような、不自然な質感。
ペン先が紙を削るカリカリという乾いた音が、静域の中に冷たく響く。
文字をなぞるごとに、僕の指先には奇妙な抵抗感が伝わってくる。逆さまに書かれた文字というのは、書き手の筋肉の使い方が通常とは全く異なる。筆圧の逃がし方、払いの方向、すべてが不自然だ。
まるで、自分の身体を無理やり反転させながら、鏡の中の世界を歩かされているような感覚。
もしも、その理由があるとするのならば、一つしか考えられない。
(……結局、僕は日下さんのことを、何も知らなかったんだ)
叔父の担当編集者。幼い頃から、僕の成長を見守ってくれた人。
進路に迷えば相談に乗り、作品を書けば誰よりも早く読んでくれた。「今度、うちの会社でこんな面白い企画があるんだ」なんて、少年のように目を輝かせて語っていた、あの人。
だが、今僕がなぞっているこの筆跡の中には、僕の知る"日下さん"の欠片も存在しなかった。
その差異が、筆を滞らせている。
叔父の裏地。
栞さんの裏地。
そして、日下さんの……巻 良介としての裏地。
僕は彼らのすぐ傍にいながら、誰一人として、"本当の貌"を見ていなかった。
「書き手は、孤独だ」
叔父が口癖のように言っていた言葉が、胸に刺さる。
僕は、その孤独に甘えていた。彼らが背負っていた、背景の秘密や想いに目を向けようともせず、ただ与えられる愛情と日常を貪っていただけだった。
叔父は死んだ。
日下さんは姿を消した。
栞さんは目の前にいるけれど、彼女は僕に何も語ってはくれない。
なぜなら、僕は物語の部外者だからだ。
二十年前、あの装幀高校の図書準備室で起きた悲劇の外側にいた、無垢な子供だったから。
(……そうだ。僕は部外者だ。この惨劇の輪の中にいない、ただの観客だ)
ペンを持つ手に、思わず力がこもる。
なら、どうする?
今更、過去に介入できなかった自分を呪って何になる。
部外者であることに絶望して、筆を置くのか?




