三十頁目:二人の器と一つの空白
あれから、数時間。
朱音のマンションの一室で、僕は細く息を吐いた。
高性能なPCが微かな排気音を鳴らし、机の上には昨日実家から持ち帰った卒業アルバムが、解決の見えない問いのように開かれたままになっていた。
僕はコーヒーの最後の一口を飲み干し、朱音が差し出したタブレットの画面に視線を落とした。
「……さっくー、巻のこと、徹底的に洗ってみたんだけどさ……」
朱音の声は、いつもの動画配信用のハイテンションとは程遠い。低く、湿り気を帯びたその響きが、調査の結果が芳しくないことを予感させた。
「……どうでした? 何か、足取りは掴めましたか」
「うん。巻 良介は、高校を卒業した翌年に失踪してた。……それも、ただの家出とかじゃない。当時の地方紙の片隅に、捜索願いの記事が出てたよ。結局、二十年近く経った今も、見つかってないって」
「……そうですか。やはり、そうでしたか」
僕は背もたれに深く体重を預け、天井の白いシーリングライトを仰ぎ見た。
二十年近く前の失踪。日本の法律では、行方不明から七年が経過すれば、利害関係人の請求によって"失踪宣告"が出される。そうなれば、その人間は法的に死亡したものと見なされる。
(巻 良介は、もうこの世にいない。……少なくとも、書類上は)
だとしたら、栞さんが持ってきたあの手紙の重みが、一気に増してくる。
"差出人はもうこの世にいない"――彼女がそう断言した理由。もし、あの逆さまの恋文をしたためたのが失踪直前の巻だったとすれば、それは間違いなく、彼の人生の最後の一行――"絶筆"と言える代物だ。
「ねえ、ていうかさ。さっくー」
朱音が空のペットボトルを弄りながら、僕の顔を覗き込んできた。
「仮にさ、その失踪した巻が日下の正体だったとしたらさ。あいつ、白河 執とは同級生だったわけでしょ? 同じクラスで、同じ時間を過ごしてた。……その辺のこと、叔父さんと話したこととかなかったの? 『よぉ、久しぶり!』みたいなさ」
「……いえ、何も。というか、そもそも日下さん、僕の記憶が正しければ、叔父さんと同い年じゃなかったはずですよ。……いくつか下、三、四歳は若かったはずです」
「え? じゃあ、巻と日下が似ていたのは、他人の空似ってこと? それとも、若作りの達人?」
僕は首を振った。
卒業アルバムの巻と、僕が知る日下。その顔立ちは、単なる似ているというレベルを超えていた。骨格、耳の形、笑った時に寄る目尻の皺……。清書係としての僕の目が、それを同一人物だと告げている。
「……逆に、ですけど。日下さんの方の経歴には、何かおかしなところはなかったんですか?」
「それがさ……」
朱音は不服そうに頬を膨らませた。
「さっくーが、叔父さん殺したの日下だって言うから、私のツテを使って徹底的に調べたんだよ。でもさ、日下の経歴は真っ白。もう、眩しいくらいの超ホワイトなの」
「と、いうと?」
「大学は都内の有名国立。現役合格。三年の時に一年間、イギリスに留学してて、サークルはバドミントン。卒業後は今の出版社に就職して、そこからの勤続年数も長い。どこをどう突いても、過去を隠してるような綻びは見つかんないんだよね」
「……そう、ですか」
「ぶっちゃけ、さっくーが卒業アルバムで見つけたあの一致がなきゃ、誰だってあいつが"指切り心中"に関わってるなんて、夢にも思わないよ」
朱音の言葉を聞きながら、僕は冷たい戦慄を感じていた。
あまりにも完璧すぎる。まるで、誰かが一から丁寧に書き上げた、理想的な履歴書をなぞっているようだ。
「……だからこそ、あの人は警察にもマークされていなかったんでしょうね。叔父さんの死が"過労による不審死"で片付けられ、周囲の人間が疑われなかったのも、彼の潔白すぎる背景があったからかもしれません」
しかし、僕にはどうしても、巻と日下の一致が偶然とは思えなかった。
今思えば、叔父さんの家に忍び込んだあの日に、日下さんが見せた、独特な雰囲気――あれは、当事者だったからこそではないだろうか?
日下と巻。
二人の男を結びつける、見えない線。
僕はノートに記した日下の年表と、巻の失踪時期を指でなぞった。
「……朱音さん。巻は、高校卒業の翌年に失踪しているんですよね? つまり、二十年近く、この街からも、社会からも消えていた」
「うん、そのはずだけど。それが?」
「ふと、気になったんです。……僕らは、知っているじゃないですか」
僕は、数日前のあの山あいの村での体験を思い出した。
深い霧。袋を被った人々。そして、一度死んで"別の何か"になって帰ってくる、あのシステム。
「……失踪者が、数年後に、全く別の人間として帰ってくる。……そんな話を、僕らはもう、知っている」
少しの間、朱音はきょとんとした顔で僕を見ていたが、やがてその瞳に驚愕の色が広がった。
「――まさか、見返村の"記帳本"!?」
「ええ。日下さんの経歴にあった"一年間のイギリス留学"。……もし、その留学中に本物の日下さんに何かが起きていたとしたら? あるいは、その期間に巻が見返村を通じて、本物の日下さんの戸籍を"洗浄"して手に入れていたとしたら……。無い話ではないと思います」
「……なるほど。イギリスにいる間なら、日本の友人や家族とも疎遠になる。その隙に中身が入れ替わって、帰国した時には『ちょっと雰囲気が変わったね』で済まされちゃう……? ううん、そんなことあるかな?」
「あるいは、そもそも本物の日下さんが、実家と疎遠だった可能性もあります。クリーンな経歴の方ですが、見返村を訪れているわけですから」
「……あな恐ろしや。でもさ、だとしたらどうして巻は巻のまま帰ってこなかったの? わざわざ他人の人生を乗っ取るなんて、よっぽどの理由がないと……」
「……それは、巻 良介のままでは、この街に……いえ、社会に居場所がなかったからかもしれません。何らかのしがらみから逃れる唯一の手段が、別人になることだったと考えれば、わからない話ではないです」
僕は、テーブルの上に置かれた古い封筒に目を向けた。
栞さんが預けていった、あの逆さまの恋文。
「……その辺りの手がかりは、あそこにあるのかもしれません。二十年前、巻 良介が失踪する直前に、死んだ羽住 実那に向けて何を遺したのか」
文字だけが上下逆さまに綴られた、狂気の手紙。
そこには、叔父さえも救いきれなかった、二十年前の惨劇の"本当の幕引き"が記されているのだろうか?
「……さっくー、やるの? あの"逆さま"、清書るの?」
朱音の声が、不安げに震える。
僕はゆっくりと立ち上がり、スマホを手に取った。そして、栞さんの連絡先を探し始める。
「それが僕の仕事ですから。……叔父さんが遺した暗号、日下さんの正体、"指切り心中"……。それらの"裏"にあるものを引きずり出すには、この手紙を通るのが一番早い」
外では、雨が降り始めていた。
夜の丑三ツ書店が開店するまで、あと数時間。
勝負の時間が、近付いていた。




