二十八頁目:唯一の手がかり
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、埃の舞うスタジオの空気を白く染めていた。
僕は朱音から借りた端末と睨み合い、情報の海を泳ぎ続けていた。昨夜、書店で感じたあの戦慄が、今も指先の冷えとなって残っている。
テーブルの上には、出力した新聞記事の断片や、当時の地元の掲示板のログを書き写したメモが散乱していた。
そこへ、背後から小気味よい足音が近づいてきた。
「よ、さっくー。やってるね。一晩中寝てないでしょ、顔がウォーキングデッドみたいになってるよ」
朱音が、両手にコンビニの袋を提げて現れた。彼女は僕の前のテーブルに、プラスチックの音を立てて二本のボトルを置いた。
「差し入れ。ブラックのコーヒーと、目が覚めるタイプの強炭酸。どっちがいい?」
「……ありがとうございます。じゃあ、コーヒーをいただきます」
「あいよ。で、進捗はどうなん? 栞さんの持ってきた"逆さまの恋文"と、あの心中事件、繋がった?」
僕は温かいコーヒーの缶を掌で転がし、重い溜息を吐いた。
「……正直、上手く行ってはいないです。分かったことも、少なくはないんですが。調べれば調べるほど、そこにあるはずの"何か"が意図的に削り取られているような違和感があるんです」
「削り取られてる? それ、ジャーナリズムが騒ぐねえ。聞かせてよ、その二十年前の"指切り心中"の中身をさ」
僕は手元のメモを整理しながら、画面に映る当時の地方紙のアーカイブを指差した。
「正式な事件名は、装幀市立高校心中事件。今から二十年前の四月末のことです。舞台は、ここ装幀市内にある装幀高校。亡くなったのは、当時高校三年生だった羽住実那さん。同級生の男子生徒と共に心中を図ったとされています」
「四月末……。新学期始まってすぐ、って感じかな。で、どうやって死んだの?」
「死因は窒息死。同校の図書準備室で、首を吊った状態で発見されたそうです。……でも、この事件がただの心中として処理されなかった最大の理由が、遺体の状態にありました」
僕はコーヒーを一口飲み、言葉を継いだ。
「彼女の指が、すべて切り取られて持ち去られていたんです。両手の指、十本すべてです。現場に遺書めいたメモはありましたが、切り取られたはずの指は、校内のどこからも、一緒にいた男子生徒の持ち物からも見つかりませんでした。それがきっかけで、世間では"指切り心中"なんて呼ばれ方をするようになったみたいですね」
それを聞いた朱音が、眉間に深い皺を寄せた。彼女は鋭い視線で僕のメモを見つめている。
「……ねえ、さっくー。いくつか気になるとこがあるんだけど。まずさ、指を切られちゃってたら、首吊りの紐を自分で結んだり、縄に首を通したりするの、物理的に無理じゃない? ていうか、激痛でそれどころじゃないでしょ」
「僕もそう思いました。ですが、当時の捜査結果によれば、一緒に心中を図った男子生徒が彼女の作業を手伝った、あるいは主導したとされています。男子生徒も同様に首を吊ろうとした形跡がありましたが、何らかの理由で未遂に終わり、重体の状態で発見されたそうです」
「ふうん。その男子生徒は生き残ったんだよね。自殺幇助とかで捕まらなかったの?」
「書類送検はされたようですが、結局、不起訴になっています。当時も一部で物議を醸したようですが、精神状態の不安定さや、本人自身も衰弱してたとかで、すぐに事件は収束したみたいですね」
「……ますます怪しいね。じゃあ、栞さんが持ってきたあの"逆さまの恋文"を出したのは、その生き残った男子生徒ってこと?」
「ええ、それが最有力です。実那さんに宛てられた、死の直前の言葉。……ですが、ここからが一番の問題なんです」
僕は端末の画面を朱音の方に向けた。
「その男子生徒に関する情報が、ネットのどこを探しても、全く出てこないんです」
「出てこない? 名前とか、その後の足取りとか?」
「ええ。未成年だったこともあり、当時は実名報道が避けられていたのは分かります。でも、二十年も経てば、当時の同級生が何か書き込んだり、"あの時のあいつは今……"みたいな噂話がネットの隅っこに転がっていてもおかしくない。……でも、地元の掲示板や、未解決事件についての過去ログを漁っても、彼だけは"生存した男子生徒がいた"という事実以外、何も残っていないんです」
それは、奇妙な空白のように思えた。
まるで、誰かが組織的に彼の存在を消し去ったかのように――。
「……わかってるのは、死んだ羽住実那の名前と、装幀高校が舞台になったってことだけかあ。私からしても、これは不気味だね。何かの力が働いてる感じがプンプンするよ」
朱音は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぎ見た。
「……ねえ、ていうかさ。栞さんと羽住実那って、どういう関係だったんだろうね? 親友とか言ってたけど」
「そんなの、わかりませんよ。栞さんは"昔の友人"としか教えてくれませんでしたし、これ以上深入りするなと言わんばかりの態度でしたから」
「同級生とかって線はあるよね? 栞さん、若く見えるけど、二十年前って言ったらちょうど高校生くらいでしょ。……もしかして、彼女も同じ装幀高校に通ってたんじゃないの?」
朱音の推測に、僕の思考が急加速する。
栞さんの年齢。彼女の醸し出すあの独特な陰。そして、叔父との繋がり。
「……待ってください。朱音さん、今、重要なことに気づきました」
「え、何? 私の美貌に?」
「いえ、違います。……栞さんは、叔父さんと同級生のはずです」
朱音が目を丸くした。
「叔父さん……白河 執と? ……あ、そっか。栞さん、叔父さんの作業場に昔から出入りしてたって言ってたもんね」
「叔父さんと話すとき、栞さんは『同い年のよしみで……』なんて零していました。もし二人が同級生だったとすれば、叔父さんもまた、二十年前の装幀高校にいたかもしれません」
「……繋がったね。叔父さんがなんであんな一万行の絶筆を残してまで、この事件の真相を隠そうとしたのか。そして、その中に実那の名前があったのか。……でもさ、さっくー。執さんと栞さんがどこの高校だったかなんて、どうやって調べるの? 白河 執のプロフィールには"県内高校卒業"としか書いてないけど」
僕は立ち上がり、しばらく考える。
もう一度叔父の部屋に忍び込む――これはリスキーだ。日下さんが失踪しているとはいえ、僕を襲ってきた連中の正体は結局わかっていない。
それでも、今できることがあるとするのなら。
「……叔父さんの卒業アルバムなら、僕の実家にあるかもしれません。父さんが大切に保管していました。叔父さんの葬式に呼ぶ同級生のリストを作る際に、何度も見返していたはずですから」
「……細い線だけど、今はそれしかないか。ネットがダメなら、アナログな記録に頼る。これぞ本屋の意地だね」
朱音が不敵に笑い、僕の肩を叩いた。
「さっくー、そのアルバム、取ってきてもらうことできる? 今から実家まで一っ走り。……あ、クルマ修理中だから、電車で行ってもらうことになるけど!」
「わかってますよ。……今すぐ、行ってきます」
僕は上着を掴み、スタジオを飛び出した。
一万字の狂気の羅列。逆さまの恋文。そして、十本の指を失った少女の死。
バラバラだったパズルのピースが、叔父の青春時代という"過去"に向かって収束し始めていた。
装幀市の曇り空の下、僕は駅へ急ぐ。
叔父のアルバムの中に、僕たちは何を見つけるのか。僕らに残された、唯一の手がかりの下へと――。




