二十七頁目:決意と潜航
栞さんが店を去った後、丑三ツ書店の店内には、線香の煙が消えた後のような、ひどく冷ややかな静寂が残った。
カウンターの上に置かれた、"逆さまの恋文"。
栞さんから預かったその封筒は、触れていないのに微かな熱を持っているような気がして、僕はそれを手近なトレイに載せたまま、一人で考え込んでいた。
清書は後日行うことに決めた。
本来、清書係の仕事は"なぞる"ことそのものだ。けれど、今回の手記はあまりに異質すぎる。上下が完全に反転した文字。二十年前の凄惨な心中事件。そして、被害者である"羽住実那"の名。
書き手の死の間際の心境に寄り添うには、あまりに空白が多すぎた。断片的な情報だけであの歪な筆跡をなぞれば、僕自身の精神が、あの逆さまの世界に引きずり込まれてしまいそうな予感がしたのだ。
(……栞さんは、何を知っているんだろう)
去り際の彼女の顔が、網膜に焼き付いている。
彼女は羽住実那について、多くを語ろうとはしなかった。
「昔の友人だった」
「手紙に、すべて書かれているはず」
僕が何を尋ねても、彼女は壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返すばかりだった。二十年前、彼女たちも同じ街にいて、同じ空気を吸っていたはずだ。心中事件が起きた装幀市立高校の近くに、彼女もいたはずなのだ。
知っていて、僕らに黙っている。
あるいは、知っているからこそ、この書店に"絶筆"を持ち込んだのか。
彼女がこの街を去るという決断も、単なる心機一転とは思えない。何かから、逃げようとしているのではないか――そんな邪推すら、してしまう。
「朔、君は迷っているね。綴里 栞が何を思っているか、計りかねている」
不意に、背後から衣擦れの音がした。
振り返ると、墨千夜がいつの間にか応接スペースの影から現れていた。頼れる、どこか底知れぬ、店主としての顔。琥珀色の瞳は闇の中で静かに、けれどすべてを見透かすように輝いている。
「……墨千夜さん。正直、その通りです。栞さんとは、叔父さんの家でも何度も顔を合わせてきましたし、付き合いも短くないはずなんです。でも、今日会った彼女は、僕の知らない"誰か"に見えました」
「人の心など、紙の裏側を覗くようにはいかないものさ。他人の心が計り知れないからこそ、私たちは言葉を紡ぎ、それを紙に定着させ、誰かに伝えようとする。……だが、それでも伝わらないものが"絶筆"としてこの店に流れ着く」
墨千夜はゆっくりと僕に近づき、カウンター越しに僕の目を見つめた。
「……なら、僕はどうしたらいいんでしょう。叔父さんは"指切り心中"の真相に関わったせいで、あんな死に方をしました。もし、僕がこれ以上栞さんに踏み込んで、彼女まで同じ目に遭わせてしまったら……。いや、それ以前に、僕自身が何を信じればいいのかも」
僕の問いかけに、墨千夜はふっと薄く笑った。その笑みには、残酷なまでの理知的響きがあった。
「ふむ、ならば彼女に関わらない範囲で――例えば、報道されている"事実"からアプローチしてみるのはどうだろう」
「報道されている、事実から?」
「そうだ。君は結局、あの"指切り心中"について、詳しく調べてはいないのだろう? 入り口で躓いたまま、今日まで触れずに来てしまっているはずだ」
墨千夜の指摘は、図星だった。
以前、自分のアパートで"指切り心中"を検索しようとした際、スマホは異常な熱を発し、エラーメッセージを吐き出し、直後に袋を被った襲撃者たちが現れた。あの時の恐怖が、僕の無意識にブレーキをかけていたのだ。
(……あの時は、叔父さんのパソコンからダウンロードしたマルウェアが仕込まれていたからだ)
だが、今は違う。
僕の手元にあるのは、朱音から貸与されている、徹底的にセキュリティが固められた予備の端末だ。彼女たちが情報の海を泳ぐために用意した、いわば戦うための道具。
これなら、あの時のような探知を回避できるかもしれない。
「ありがとうございます。……そうですね、まずは外側から固めてみます。栞さんが語らないのなら、記録に語らせるしかない」
「ああ、それでいい。今までよりもより深く、死者の声に耳を傾けることだ。ただし――」
墨千夜の声が、一段と低くなった。
店内の空気が、急激に密度を増したように感じる。
「……わかっているね。どこまで踏み込むのか、その境界線を見極めることだ。それを間違えたら――」
「……はい。叔父さんの二の舞。次に"絶筆"を書くことになるのは、僕の方だ」
僕は自分の右手の指先を、ぎゅっと握りしめた。
叔父・白河執が遺した一万字の"絶筆"と、そこに隠された暗号。
栞さんが持ち込んだ、逆さまの恋文。
そして、二十年前の"指切り心中"。
これらはすべて、装幀市という街の底で、一つの巨大な、歪なタペストリーを編み上げている。僕はその糸を、一本ずつ解き解さなければならない。
「……始めます」
僕はカウンターの端にある、自分専用のデスクに腰を下ろした。
震える手でスマートフォンを起動し、朱音から教えられたセキュア・ブラウザを立ち上げる。
検索窓に、呪文のようにその言葉を打ち込んだ。
『装幀市立高校 指切り心中事件 一九八六年』
エンターキーを押す瞬間、窓の外で落雷のような、重い地鳴りが響いた。
画面が青白く発光し、二十年の時を経て凍結されていた"事実"が、音を立てて溶け出し始める。
最初の検索結果。
地方紙のデジタルアーカイブ。
『放課後の教室で惨劇――女子生徒死亡、男子生徒重体』
『現場から消えた"指"の謎 遺書には"約束"の文字――』
スクロールする指が、かすかに震える。
そこには、叔父が追っていた事件の詳細と、先ほど目にした逆さまの手紙の"宛名"が、鮮血のような赤さで記されていた。
僕の、本当の調査が、今始まった。
夜の丑三ツ書店の片隅で、僕は一人、二十年前の死者たちが棲む深淵へと、ゆっくりと身を投じていく――。




