二十六頁目:さかさまの恋文
ゴミ屋敷の発掘作業から数十分。
書店の二階から降りてきた墨千夜は、先ほどまでのハーフパンツ姿が嘘のように、いつもの凛とした和服に身を包んでいた。艶やかな黒髪は完璧に整えられ、その琥珀色の瞳は、夜の店主としての神秘的な温度を取り戻している。
店の奥、応対用の革張りソファ。
そこに座る綴里 栞さんは、運ばれてきた茶碗から立ち上る湯気を、どこか遠い目で見つめていた。
「……まさか、朔くんがここでバイトしているとは思わなかったわ」
栞さんが、硝子のように繊細な声で切り出した。彼女は市立図書館の郷土資料室に勤める司書だ。叔父の作業場によく出入りしていた彼女は、僕にとっても叔父の数少ない理解者の一人として、幼い頃から親しみのある存在だった。
「僕も驚きました。栞さんが、こんな時間にここへ来るなんて」
「叔父さん……執さんのことは、本当に残念だったわね。彼は一度執筆に入ると、自分の限界を忘れて追い込んでしまう人だったから……。心臓に負担がかかっていたことも、薄々は気づいていたのだけれど」
栞さんの瞳に、一瞬だけ深い哀悼の色が過る。
僕は彼女の言葉を受け止め、静かに首を振った。
「……栞さん。ありがとうございます。でも、叔父さんのことは、もういいんです。自分なりに調査をして、ある程度の踏ん切りはつきましたから」
他殺であるという真相。そして叔父が命を懸けて遺した暗号。それらはまだ完全には解けていない。けれど、栞さんの前では、これ以上彼女に心配をかけたくないという思いが勝った。
「それよりも、栞さん。ここに来たということは、何かご用があったんじゃないですか?」
僕の問いかけに、栞さんはゆっくりと頷いた。彼女は膝の上に置いていたカバンから、一通の古い封筒を取り出した。経年劣化で少し茶色く変色したそれは、大切に、けれどどこか忌まわしいものを扱うような手つきでテーブルに置かれた。
「……これよ。二十年前、私の友人が受け取った、奇妙な一通の手紙。ずっと寝かせていたの。返すべきか、捨てるべきか、それとも燃やすべきか……。答えが出ないまま二十年が過ぎてしまった」
栞さんは眼鏡を指で押し上げ、僕と、そして隣で静かに茶を啜る墨千夜を交互に見た。
「実は私、この街を離れることになってね。県外の親戚の所へ行くことに決めたのよ」
「えっ、栞さん、引っ越しちゃうんですか?」
僕は思わず、身を乗り出した。
「ええ、色々あってね。……心機一転、というところかしら。でも、この手紙だけは持っていけない。かといって、ただのゴミとして捨てることもできなかった。……そんな時、ここ"丑三ツ書店"の噂を聞いたのよ。死者の最期の言葉を、汲み取ってくれる本屋さんがあるって」
墨千夜が琥珀色の瞳を細め、栞さんの差し出した封筒を見つめる。
「ふむ……。郷土資料室の司書が、物語の"裏地"を求めてやってくるとはね。……いいだろう。その手紙を見せてもらえるかい?」
栞さんは震える手で封筒から便箋を取り出し、テーブルの上に広げた。
それを見た朱音が、怪訝そうに眉を寄せる。
「……何これ。パッと見は、ただの古臭いラブレターじゃ……って、わあああ!? ちょっと、何これ、怖いんだけど!」
朱音が悲鳴を上げて仰け反った。
テーブルに並べられた三枚の便箋。そこに記されていた文字は、あまりにも異様だった。
便箋そのものにはおかしなところがない。装幀市の市章があしらわれた、簡素なデザインのものだ。問題は、そこに書かれた文字の方。
――全文が、"上下逆さま"に書かれていたのだ。
文字の一つひとつが、天を地として、地を天として綴られている。鏡文字ではない。ただ単に、文字という記号が重力に逆らうようにして並んでいるのだ。三枚の便箋、その隅から隅まで。
「……書く向きを間違えちゃった、とかですかね? 酔っ払ってたとか……」
僕は自分の指先が微かに痺れるのを感じながら、その文字を凝視した。
だが、墨千夜は即座に否定した。
「違うね。もし書く向きを間違えただけなら、書き進める方向も逆になるはずだ。便箋の末尾から先頭に向かって、あるいは右から左へとな。……だが、この手紙を見てごらん。便箋の使い方は至って普通だ。上から下へ、右から左へと、正しいルールで書き進められている」
墨千夜は白い指先で便箋の空間をなぞった。
「文字の"向き"だけが、逆なんだ。書き手は、自分の正面に紙を置きながら、まるで"向かい側に座っている人間"の視点に合わせて文字を書いたか、あるいは……世界そのものを逆さまに見ながら、この言葉を紡いだか」
「そんなの、普通に考えてあり得ないでしょ……」
朱音が腕をさすりながら呟く。
手紙の内容は、一見すれば切々とした恋文のようだった。けれど、その逆さまの文字が、言葉の背後に潜む歪んだ情念を剥き出しにしているようで、眺めているだけで平衡感覚が狂いそうになる。
墨千夜は栞さんに視線を戻し、低い声で尋ねた。
「まず、聞かなくてはならないね。あなたは、どこでこの手紙を? そして、これを書いたのは誰だい?」
「……私の友人が、昔受け取ったものなのよ。彼女がこの街を去る際、私の部屋に忘れていったのを、結局返せないまま私が持っていたの。差出人は……彼女の当時の恋人だった人。彼女にひどく執着していた……」
栞さんの声が、さらに細くなる。
「……書き手は、わかっているの? 本当に、これは"絶筆"――書き手の最後の言葉なのかい?」
「ええ、それは保証するわ。これを書いた人間は……」
栞さんは一度、言葉を詰まらせた。
「……もう、この世にいない」
店内に、氷のような沈黙が落ちた。
死の間際に書かれた、逆さまの恋文。
僕は吸い寄せられるように、一枚目の便箋を手に取った。
逆さまの文字が僕の脳内で反転し、清書係としてのフィルターを通じて意味を結び始める。
丁寧な、けれどどこか神経質な筆致。
僕は便箋の冒頭――逆さまに記された"宛名"へと視線を走らせた。
そこには、こう書かれていた。
『――実那さんへ』
「……っ」
全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
指先が、激しく震える。
実那。
二十年前、装幀市立高校の放課後の教室で起きた、あの惨劇。
一人の女子生徒が殺害され、その両手の指が永遠に失われたとされる――"指切り心中"事件の被害者。
そしてそれは、僕の叔父、白河執が死の間際まで調べていた事件でもある。
「朔くん? ……どうしたの、顔色が真っ青よ」
栞さんの心配そうな声が遠くで聞こえる。
僕は返事ができなかった。
手にした便箋の冷たさが、まるで死者の指先に触れているかのように、僕の体温を奪っていく。
二十年前の心中事件。
そこで死んだ少女に向けて書かれた、逆さまの遺言。
ならばきっと、この言葉を紡いだものは、あの事件の背景に関わっている――。
「墨千夜さん……これ……」
僕は震える指で、その名前を指し示した。
墨千夜の琥珀色の瞳に、鋭い光が宿る。
彼女もまた、この手紙がただの清書依頼ではないことに気づいたようだった。




