二十五頁目:墨千代発掘計画
空が、ゆっくりと宵闇のインクを吸い込み始めていた。
業務用スーパーでの重労働を終えた僕と朱音は、開店準備が始まる前の"丑三ツ書店"へと辿り着いた。両手には、墨千夜の生存を支えるレトルト食品とプリンが詰まったビニール袋が、くいと指に食い込んでいる。
「……朱音さん、裏口から入るんですか?」
「そ。店の方はまだ鍵かかってるし、荷物は直接"あいつの巣"に運び込まないと」
朱音は手慣れた動作で、書店の裏手にある錆びついた鉄扉を開けた。そこには二階へと続く、人一人が通るのがやっとの狭い階段がある。
僕がこの店で働き始めてから、一度も立ち入りを許されなかったプライベートスペース。店主・墨千夜の居住区だ。
階段を一段登るごとに、空気の密度が不自然に増していくのを感じる。
二階の扉を朱音が無造作に開け放った瞬間、僕は思わず絶句し、自由な方の手で口元を押さえた。
「あ、朱音さん……? これって、何かの事件現場、ですか……?」
「うへえ~……相変わらずだねえ。前に片付けに来たの、確か半月前だよ? 流石に散らかりすぎでしょ、これ」
「半月前!? この腐海が、たった半月で作られたんですか!?」
そこには、僕の知る"静域"としての丑三ツ書店の面影は微塵もなかった。
床一面を埋め尽くすのは、空になったカップ麺の容器、飲みかけのペットボトルの森、そして山脈のようにうずたかく積まれたスナック菓子の袋。足の踏み場どころか、床の材質すら視認できない。
ここは、文明の墓場か。あるいは、怠惰という名の怪物が棲む巣穴か。
僕は袋を抱えたまま、部屋の中に一歩踏み出すのを躊躇った。
「あ、あの……朱音さん。肝心の墨千夜さんは、いらっしゃらないみたいですが……」
「んなわけないっしょ。ここ以外に行く場所なんてないんだから。……しゃーない、さっくー、掘り出そうか」
「掘り出す……?」
「そ。世紀の"すみちー発掘計画"。見つかるのはでろでろの餅巾着一匹だけど。ま、いいっしょ、若いうちの苦労は買ってでもしろって言うしね!」
朱音はスーパーの袋を適当なゴミの山の上に置くと(もはやどこに置いても大差はない)、腕まくりをしてゴミの山脈へと挑みかかった。
僕も恐る恐る、朱音が掻き分けた後に続く。
すると、部屋の奥。レトルトカレーの空き箱が地層のように積み重なった場所から、微かに「すぅ……ふにゃ……」という、気の抜けた音が聞こえてきた。
「……いた!」
「よし、そこだ! いっせーのーで!」
朱音がゴミの毛布を豪快に剥ぎ取ると、そこから"それ"が現れた。
「……あ、あれ?」
そこには、いつもの艶やかな黒髪を流し、凛とした和服に身を包んだ"丑三ツ書店の店主"はいなかった。
代わりに転がっていたのは、膝丈のハーフパンツに、首元がダルダルに伸びきった謎のパンダ柄Tシャツを纏った、小さな生き物だった。
「……あかるい。かーてん、しめて……」
寝ぼけ眼でふにゃふにゃと手を動かす墨千夜は、まるで骨を抜かれたスライムか、あるいは綿の寄った餅巾着のようだ。普段の神秘性は霧散し、アニメなら確実に二・五頭身のデフォルメキャラとして描かれるであろう、あまりに無防備でだらしない姿。
「起ーきーろー!! すみちー! 買い出し持ってきたよ!」
「……ああ、さく……。プリン……。あかねは、あっちいって……。おなかすいた、うごけない……」
墨千夜は僕の足首を、力のない指先でぷにぷにと突いてきた。冷たい店主の威厳はどこへやら。今の彼女は、ただの餌を待つ雛のようだ。
「はい、すみちーは玄関にポイ。さっくー、手伝う手伝う! 夜の開店までに間に合わないよ!」
朱音はふにゃふにゃの墨千夜を抱え上げると、抵抗する彼女を「ぽいっ」と玄関の廊下に放り出した。墨千夜は「ひゃぅ」と情けない声を上げて、そのまま廊下で丸まって二度寝を始めている。
「あの、朱音さん。そんなに勢いよく投げ捨てて大丈夫なんですか? 一応、彼女はこの店の主なんじゃ……」
「大丈夫大丈夫! むしろこれくらいしなきゃ起きないんだから。さっくー、この見渡す限りのゴミ山に、大事そうなものがあるように見える?」
「……ペットボトル、レトルトパック、お菓子やカップ麺のゴミ。……以上、ですね」
「でしょ? さあ、行くよ! ゴミ袋、そこにあるから広げて!」
そこからは、まさに怒涛の勢いだった。
朱音が司令塔となり、僕はひたすらゴミを詰め、窓を開け、換気扇を回す。
墨千夜がたまに這って戻ってこようとしては、朱音が足蹴(もちろん愛のあるやつだ)にして押し返す。
床が見え始めた頃には、僕は汗だくになり、朱音は満足げに腰を叩いた。
「よし! 人間が住める環境になったね!」
夕闇は深まり、時計の針は開店時間を指そうとしていた。
朱音は廊下でまだ寝ぼけている"餅巾着"を見下ろし、僕に向き直った。
「さっくー、悪いけどちょっと外出ててくれる? あいつをいつもの着物に着替えさせて、無理やり人間に戻さなきゃだから。男の子は見ちゃダメだよ」
「……了解しました。外で一息ついてきます」
僕は逃げるように二階を後にした。あの、あまりに人間離れした墨千夜の残像が脳裏から離れず、頭がくらくらする。
外に出ると、装幀市の冷たい夜気が頬を撫でた。
僕は近くの自販機で缶コーヒーを買い、丑三ツ書店の前に立った。
開店まではあと数分。シャッターの降りた店の前で、僕は温かい缶を握りしめ、ふぅと白い息を吐く。
「……叔父さん。何の因果か、今日はゴミ屋敷を片付ける羽目になったよ」
ふと、自嘲気味に呟いたときだ。
店の前の、街灯の届かない暗がりに、誰かが、じっと佇んでいることに気がついた。
客だろうか。けれど、その人物は入店を待っているというよりは、そこにあるはずのない"何か"を確かめるような、痛々しいまでの緊張感を纏っていた。
「あの、すみません。まだお店、開かなくて……」
僕が声をかけると、その人物はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り向いた。
上品なチャコールグレーのコート。
緩やかにウェーブした髪を耳にかけ、縁の細い眼鏡の奥で、知的な――けれど、酷く憔悴した瞳が揺れている。
「……あ」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
その顔に、見覚えがあった。
叔父の葬儀の際、遠くからじっと棺を見つめていた人。
叔父の書斎にもよく出入りしていた、数少ない女性の知人。
「栞、さん……?」
僕がその名を呼ぶと、彼女は幽霊でも見たかのように目を見開いた。
「……朔くん? ……白河さんの、甥の……?」
彼女の声は、硝子細工が床に落ちて砕けるような、危うい透明感を持って響いた。
叔父・白河執の知人の一人――僕も良く知る彼女の名は、綴里 栞。
ゴミ屋敷のコミカルな騒動は、一瞬で遠い過去へと追いやられ、夜の風が、不穏な物語の頁を音を立てて捲っていった。




