二十四頁目:沈黙の符牒と隠し事
見返村から帰還して数日が過ぎた。
僕の生活の拠点は相変わらず"あかねチャンネル"の撮影用マンションの片隅にある。窓の外には装幀市の無機質なビル群が並び、時折遠くから響いてくる、選挙カーの声が、あの村の霧深い静寂がもはや手の届かない場所にあることを告げていた。
そんな中、僕は今、一冊の大学ノートと向き合っている。
大学の講義中も、あるいは"丑三ツ書店"でのバイトの隙間時間も、僕の脳内を占拠していたのは、叔父が遺した"絶筆"から導き出された"四つの一節"だった。
僕はノートに、その四つの文章を丁寧に書き出してみる。
一頁目――一に、書き手は孤独である。
四十六頁目――重みを持たぬ言葉は、空を舞う。
百三十九頁目――裏をなぞれば、真実が滲み出す。
二百頁目――鎮かなる一字に、魂を込めよ。
叔父の絶筆、あの狂気の一万行。その中から不審な点を拾い上げ、処女作『銀鏡の裏地』のページ数と行数に当てはめた結果がこれだ。
"清書係"として、僕が気付いた違和感が本物なら、抽出すべき言葉はこれで合っているはずだ。叔父は間違いなく、僕に何かを伝えようとしている。
(……でも、これが何を意味しているんだ?)
僕はノートの端に、それぞれの頭文字を抜き出して並べてみた。
"い" "お" "う" "し"。
音読してみる。"いおうし"。……硫黄か何かだろうか。いや、それとも"遺志"を捩っているのか?
今度は漢字そのものに注目してみる。
"一" "重" "裏" "鎮"。
繋げて読む。"一重裏鎮"。
「……ダメだ。さっぱりわからない」
僕はペンを置き、大きく背伸びをした。
叔父は生涯をかけて言葉を操ってきた魔法使いのような人だった。そんな彼が、死の直前にわざわざ過去の自著を乱数表にしてまで遺したメッセージが、単なる精神論であるはずがない。
『書き手は孤独である』なんて、僕に教えるまでもなく彼は身をもって示していた。
『重みを持たぬ言葉は、空を舞う』というのも、彼の創作論の根幹だ。
これらは一見、叔父らしい教訓のように見える。けれど、その裏には物理的な、あるいはもっと具体的な"真相"への道標が隠されている――まさか、僕の考えすぎだったのだろうか?
("裏"をなぞれば、か……。清書するのが僕の仕事だけど、この四つの文章のどこに裏があるっていうんだ)
思考の迷宮に足を踏み入れ、眉間に皺を寄せていたその時だった。
「さっくー、何してんの? もしかして大学の宿題? 意外と真面目なんだねえ」
背後から、陽気で、けれどどこか疲れを滲ませた朱音の声が飛んできた。
振り返ると、彼女は撮影用の明るい照明を片付けながら、僕のノートを覗き込もうとしていた。
「ああ、いや、そうじゃないんです。ちょっと、考えごとをしていただけで」
「ふうん、考えごとねえ。……それ、例の叔父さんの絶筆?」
朱音は僕のノートに"一重裏鎮"と殴り書きされた文字を見て、怪訝そうに首を傾げた。
「はい。抽出はできたんですけど、そこから先の答えが出なくて。……何を意味しているのか、叔父さんが僕に何を見てほしかったのかが、まだ……」
「ま、あんまり詰め込みすぎると脳みそ溶けるよ? 叔父さんも、あんたが知恵熱出すのは本望じゃないでしょ。……それはそれとしてさ、さっくー」
朱音が腰に手を当て、不敵な笑みを浮かべた。
この顔をする時の彼女は、決まって僕を面倒事に巻き込む時の顔だ。
「……暇だよね?」
「暇……といえば暇ですけど。何ですか? 配信なら、今日は予定にないんじゃなかったでしたっけ」
「お、すっかり"あかねチャンネル"メンバーとしての意識が芽生えちゃって。お姉さんは嬉しい限りだよ。でも違くて、今回はあんたのとこの店主からのご用命。……すみちーから買い出し頼まれてんの」
「……墨千夜さんから?」
僕は意外な名前に目を丸くした。
あの、世俗から切り離されたような、神秘的なオーラを帯びた不思議な女性が、買い出しなんていう日常的なリクエストを出すイメージが湧かなかった。
「そ。あいつ、基本引きこもりだからさ。定期的に私がまとめて食料品とか日用品とか、重いものを買い込んで届けてんの。……で、今日がその日。でもさ、今回頼まれた量がエグくてさ、私一人じゃ手が足りないわけ。……さっくー、手伝ってくんない?」
「……僕に拒否権はありますか?」
「あるわけないじゃん。はい、着替えて! 近くの業務用スーパーまで遠征するよ!」
結局、僕は朱音の後ろをついて、駅前の大きなスーパーマーケットへと足を運ぶ羽目になった。
買い物カートの中には、保存の利くレトルト食品、大量のミネラルウォーター、そして墨千夜が愛してやまないであろう、様々な種類のプリンのパックが山積みになっている。
「……というか、よくこんな面倒なことやりますよね、朱音さん」
僕は、両手に重いビニール袋を提げながら、前を歩く朱音に問いかけた。
彼女はさらに大きなエコバッグを肩にかけ、鼻歌まじりに歩いている。
「まあね。でも、こうやって雑用をこなすことで、気持ちよく"丑三ツ書店"に関わらせてもらえるのなら、安いもんでしょ?」
「……前から不思議だったんですが。朱音さん、どうしてあんなに"丑三ツ書店"に出入りしてるんですか?」
僕は、足を止めて彼女の背中を見つめた。
「朱音さんは、今や登録者数も多い人気配信者だ。あんな怪しげな、いつ客が来るかもわからない古本屋にべったりしなくても、他にいくらでも面白いネタは転がっているはずでしょう? ……確かに絶筆絡みで大きな事件に遭遇することもありますけど、そんなに頻度は高くない。日常のほとんどは、ただの退屈な店番ですよ。なのに、どうして――」
朱音が、ぴたりと足を止めた。
彼女はゆっくりと振り返る。精肉コーナーの青白い光が、彼女のボブヘアに、冷めたような色の縁取りを作っていた。
一瞬、彼女の瞳に、いつもの奔放な配信者とは違う、深くて静かな感情が宿ったような気がした。
「……配信のネタに困んないからだよ。すみちーの側にいたらさ、世の中の不思議なことが勝手に向こうからやってくるでしょ?」
「でも、それだけじゃない気がします」
「うっさいなあ、もう! しつこい男は嫌われるよ、さっくー!」
朱音は顔を赤くして(それが怒りなのか、照れなのかは判別できなかったが)、ぷいっと横を向いた。
「乙女の秘密! ひ・ー・み・ー・つ! そんなに理由が知りたきゃ、もっと立派な清書係になって、私の心でも清書してみなさいよ!」
「……僕にそんな能力はありませんよ。ただの文字のコピー機ですから」
「なら黙って荷物持って! ほら、急がないとアイス溶けちゃうじゃん!」
朱音は足早に歩き出し、僕との距離を広げていく。
僕は諦めたように溜息を吐き、重い荷物を持ち直して彼女の後を追うことにした。




