二十三頁目:紙背と死
装幀市に降る雨は、街全体の輪郭をぼやけさせ、古いインクが滲むような静けさを連れてくる。
見返村から命からがら逃げ帰ってきた翌日の深夜。僕は重い身体を引きずるようにして、再び"丑三ツ書店"の暖簾をくぐった。
カラン、という鈴の音が、僕の帰還を告げる。
店内に漂う濃密な墨の香りと、琥珀色の柔らかな光。そこは、あの霧深い村での狂気や、謎の男たちに囲まれた恐怖が嘘だったのではないかと思わせるほど、平穏な静寂に満ちていた。
「……こんばんは、墨千夜さん」
僕はカウンターへ歩み寄り、一冊の清書された和紙を差し出した。それは、あのボロボロの記帳本から、僕が命を削って救い出した落合香奈の"絶筆"だ。
「ご苦労さま、朔。今回は随分と大変だったみたいだね。君の筆先に、まだ泥の匂いが残っているよ」
カウンターの奥で、墨千夜は背筋を伸ばして座っていた。琥珀色の瞳は鋭く、けれど慈しむように僕が差し出した紙を見つめている。
「本当ですよ、死んじゃうかと思いました。朱音さんに振り回されて山登りした挙句、袋を被った集団に追いかけ回されて……。本屋のバイトの範疇を越えてます」
「ふふ……。でも、君はそれをやり遂げた。それが何よりの報酬さ」
彼女は白い指先で清書された文字をなぞった。僕が判読不能な塗り潰しの中から剥ぎ取ってきた、彼女の叫びを。
「……墨千夜さん。一つ、不思議に思っていることがあるんです」
「なんだい?」
「落合香奈さんは、生きていました。……少なくとも、僕たちが山を降りるのを手助けしてくれたあの少女は、彼女本人だったはずです。……肉体が滅びていないのに、この言葉は、本当に"絶筆"になるんでしょうか?」
僕の問いに、墨千夜は静かに顔を上げた。
彼女の瞳の奥で、深い知性の光が揺らめく。
「朔。人の死とは何も、肉体的な死――呼吸が止まることばかりではないんだよ」
「……どういう意味ですか?」
「イデオロギーが絶えたとき。継承してきたミームが失われたとき。あるいは、もっと単純に、その人間に大きな"変化"が起きたとき……。それまでの自分が抱えていた物語が完結し、別の何かへ書き換えられてしまう。……それは立派な"死"と言えるのではないかな?」
墨千夜は熱を帯びた声で続ける。
「落合香奈という一人の大学生は、あの展望台で、自分を塗り潰した瞬間に死んだのさ。……今の彼女は、見返村というシステムの歯車、あるいは名前を持たない"影"だ。かつての彼女を構成していた記憶も、欲望も、人間関係も、すべてはあの真っ黒なインクの下に埋没した。……だからこそ、これは彼女が遺した紛れもない"絶筆"なんだよ」
「……そういう意味で、落合香奈は死んだってことですか」
僕は彼女の言葉から視線を外し、ふと、今日の昼間にあった出来事に思いを馳せた。
朱音の"特定班"が突き止めた追加情報は、あまりにも残酷な真実を暴き出していた。
落合香奈は、多額の負債を負っていた。それも、数日前に僕と朱音が凸した、あの特殊詐欺グループによって。
彼女は、ただの"遊び人"ではなかった。
巧妙な手口で借金を背負わされ、親にも相談できず、周囲の友人に危害が及ぶことを危惧した彼女は、バイトを掛け持ちしてでも金を工面しようとした。けれど、雪だるま式に膨らむ利息と、追い詰められる精神。
そんな時に彼女が目にしたのが、あの見返村の噂だったのだろう。
すべてを捨てて、神隠しに遭う。
それまでの地獄のような人生を、他人の手によって強引に"完結"させる。
彼女にとって、あの袋を被った人々は、恐ろしい人攫いではなく、自分を救ってくれる解脱の使いに見えたのだろう。
今日の昼、依頼者である台東に、僕はあの"絶筆"の清書を手渡した。
落合香奈は今もあの村で、袋を被って生きていること。村が巨大な戸籍のロンダリング施設であること。……それらは、何一つ伝えなかった。
ただ、彼女が遺した言葉。
『――もう、わたしを、終わらせて。きれいな、なにもない、わたしに、して。また、会いに行きます』
その一文だけを差し出したのだ。
台東はその文字を何度も指でなぞり、溢れる涙を隠そうともせずに、何度も僕に頭を下げて去っていった。
「……これで、よかったんだろうか」
『真実を知りたければ、物語を裏返せ』。
叔父の遺した言葉通り、物語を裏返した先にあったのは、形は違えど一人の少女の"死"であり、僕たちにはどうしようもない、救いようのない現実だった。
やるせなさが、胸の奥に冷たい沈殿物として溜まっていく――。
「――よかったんだよ、朔。あの村のシステムが正しく作用すれば、落合香奈は必ず帰ってくる。それが、君たちが見てきた物語の筋だったんじゃないのかい?」
「……そうですね、それはそうだ」
見返村。
村という名の、戸籍洗浄機。
そこでならきっと、彼女も柵から抜け出すことができる。今はそう、信じるしかない――。
「……?」
ふと、そこで僕は、胸の中に小さなしこりが残っていることに気が付いた。
それは、別に何ということはない、小さな小さな抵抗感。しかし、気付いてしまえばもう、無視することもできなかった。
「……どうしたんだい。そんなに難しい顔をして」
墨千夜の声に、僕は我に返った。
「いえ……。ただ、あの村で感じた"違和感"について考えていたんです」
「違和感?」
「初めて訪れたはずなのに、どこか懐かしい気がしたんです。……あの村の景色、坂道の角度、石垣の積み方……。それが、叔父の代表作である『銀鏡の裏地』の中に描かれていた舞台と、あまりにも似ていたからだと、今日ようやく気がつきました」
僕はカウンターの隅に置かれた、叔父の処女作を取り出した。
「叔父さんは、かつてあの村に行ったことがあったんでしょうか。それとも……」
僕はそこまで言いかけて、息を呑んだ。
自分の鞄の中にある、叔父の遺したあの一万字の絶筆。
"あの子の指が、足りない"と繰り返される、あの狂気の原稿。
あれを"清書"した時の感覚。
一文字ずつ剥がし、インクの重なりを読み解いていった、あの時の感覚。
そして、今手の中にある、叔父の著書――。
(――待てよ、まさか)
僕は慌てて叔父の原稿用紙を広げ、指先で文字を追った。
叔父の絶筆は、一万字にわたって同じ言葉が並んでいるが、そこには筆跡の乱れではなく、意図的に"微細な変化"が混ぜ込まれていた。
「墨千夜さん、これを見てください。この文字……」
一万字の中で、特定の行だけ、漢字の"指"の字の"はね"が、コンマ数ミリだけ長くなっている場所がある。
一行目。
四十六行目。
百三十九行目。
二百行目……。
それらを抜き出し、行番号として『銀鏡の裏地』のページ数と行数に当てはめてみると――。
「――これは……!」
窓の外では、雨がさらに激しさを増していた。
見返村の霧は晴れた。けれど、叔父を殺した犯人の影が、紙背から這い出し始めているのを、僕は確信していた。
「くふふ……朔。面白いね、死者の遺した、最期の声は、さ」
琥珀色の瞳が、闇の中で怪しく輝いていた。




