二十二頁目:漂白の村
ガタン、ゴトン。
深夜のローカル線は、重い沈黙を乗せて闇の中を這うように走っていた。
装幀市へと戻る車内には、僕と朱音の他に人影はない。まばらな蛍光灯が、くたびれた座席を青白く照らし出し、窓の外にはただ、どこまでも深い虚無のような夜の山並みが流れていく。
「……はあぁ。いやあ、にしてもさ、今回こそはもう本当の本当に駄目かと思ったよね。マジで『あかねチャンネル、最終回! 神様の世界から生配信!』ってテロップが脳内を駆け巡ったもん」
朱音はふぅ、と長い息を吐きながら、自動販売機で買ったばかりの温かい缶のミルクティーを傾けた。一口飲むごとに、張り詰めていた緊張が甘い液体と共に解けていくのが、横に座っている僕にも伝わってくる。
僕はといえば、展望台で強打した背中の痛みに耐えながら、窓ガラスに映る自分の青白い顔を見つめていた。
「本当ですよ。展望台で、あの懐中電灯にパッと照らされた時は、いよいよ年貢の納め時かと思いました。心臓が止まるかと思いましたよ、本当に」
「あはは! そりゃねえ、私もだよ。でもさ、不思議だよね。死ぬかもって思った瞬間、後悔したのが『もっと過激な企画やっとくんだった!』とか『未公開映像のバックアップ取ってねえ!』とかだったんだもん。自分でも引くわ、この配信者体質」
「……今際の際に考えるのが、それなんですか。もう少し、人生の走馬灯とか、家族のこととかあるでしょうに」
「まあ、いいじゃん。とにかく、こうして五体満足で電車に乗れてるんだからさ。結果オーライ、終わりよければすべてよし! でしょ?」
朱音はヘラヘラと笑いながら、空いた方の手で僕の肩を叩こうとして、僕が痛みに顔をしかめるのを見て慌てて手を込めた。
「……ごめんごめん、まだ痛むよね。さっくーがあの時庇ってくれなかったら、今頃私の頭がカボチャみたいに割れてたかもだし。そこだけは、マジで感謝してるよ」
「……いいですよ、別に。朱音さんがいなくなったら、僕、装幀市で路頭に迷いますから。生活防衛のための行動です」
「ふふ、可愛くないねえ。でもまあ、そういうことにしておいてあげる」
朱音は再びミルクティーを啜り、視線を窓の外の暗闇へと戻した。
少しの間、電車の揺れる音だけが車内に響く。ガタン、ゴトン。そのリズムは、僕たちを見返村という異界から引き剥がし、再び現実の泥沼へと連れ戻していく。
「……それにしても」
朱音が不意に、少しだけ声を落として言った。
「まさか、あの子に助けられるとは思ってなかったよ」
「ええ……僕もです。まさか、あの人が、僕たちを逃がしてくれるなんて」
二人は、つい一時間ほど前の、あのみはらし峠での光景を思い返していた。
展望台で、真っ黒に塗り潰された記帳本と向き合い、その"絶筆"の核に触れた瞬間。
強烈な懐中電灯の光が僕たちを射抜いた。
そこに立っていたのは、麻袋のようなものを被った小柄な影だった。
襲撃者の一人だと思い込み、僕は朱音を背中に隠して身構えた。だが、その少女――体つきからして、明らかに僕たちと同年代の少女は、バットを振り上げることも、怒号を上げることもなかった。
彼女はただ、黙って自分の人差し指を口に当て、"静かに"というジェスチャーを見せた。
そして、展望台の下から追いかけてくる袋の男たちの足音を気にしながら、僕たちの手を引き、正規のルートではない、獣道のような急斜面へと案内したのだ。
彼女は一度も喋らなかった。
袋の穴から覗く瞳は、ひどく悲しげで、けれど確かな意志を持って僕たちを導いていた。
山を降り、見返村とは反対側の麓にある、小さな無人駅まで。
そこで僕たちが終電に間に合うのを見届けると、彼女は一度だけ小さく頭を下げ、再び深い森の闇の中へと消えていった。
「ねえ、さっくー。あの子さ、やっぱり……」
朱音の言葉を、僕は静かに引き継いだ。
「……たぶん、朱音さんの考えている通りですよ。あの少女は、落合香奈さん本人だったんだと思います」
確証はない。袋を剥ぎ取って顔を確認したわけではない。
だが、清書を通じて彼女の"孤独"と"願望"に触れた僕にはわかった。
彼女は、あの展望台で僕がなぞっていた、あの真っ黒な殴り書きの主だ。
「稿坂さんのところで、僕が彼女の写真を出したのが功を奏したんでしょうね。村の誰かが、あるいは稿坂さん自身が、彼女に『お前の友達が来ている』と伝えたのかもしれない。あそこで彼女に会うことができたのは、本当に、奇跡に近い幸運でした」
「でもさ、落合はどうしてあんな、おっかない村に出向いたんだろうね。あの子、大学でも人気者で、友達もたくさんいて、バイトも掛け持ちしてて……。端から見れば、人生絶好調に見えるじゃん。なのに、なんで自ら"神隠し"なんてものに縋ったの?」
僕は、清書をした時に感じた、あの指先の痺れを思い出す。
「……朱音さん。彼女のあの三つのバイト、遊びのためじゃなかったんじゃないですか? 理由はわかりませんが……あの村に"参加"するための、多額の資金作りだったんだと思います」
清書してわかったのは、恐らく落合は前評判ほど、順風満帆な人生は送っていなかったのだろうということだ。
周囲に見せていた彼女の姿は、それこそ、傷んだ本の表紙にカバーをかけるようなもの、だからこそ。
「……彼女は、自分という物語を、一度完全に廃棄したかったんじゃないですかね?」
「廃棄……。それは、あの真っ黒な"絶筆"にも関係あるの?」
「ええ。自分という文字を、上から別のインクで埋めて、読み取れなくする。……それが、彼女にとっての"絶筆"だったんです」
朱音は複雑な表情でミルクティーの缶を握りしめた。
「でもさ、やっぱりおかしな話だよ。神隠しって、あの村の連中が総出になって、組織的に何かやってるってこと? 失踪者が数年後に帰ってくるとか、村に若い人が不自然に多いとかさ。さっくー、どう思う?」
「……これは、僕の仮説です。確たる証拠があるわけじゃないんですが」
僕は、電車の窓に映る見えない闇の向こう側を見つめながら、声を潜めた。
「あの見返村でやってるのは、大規模な"戸籍のロンダリング"……あるいは、人生の再起動請負業なんじゃないでしょうか」
「戸籍の、ロンダリング?」
「ええ。何らかの理由で――借金、人間関係、あるいは自分自身の人生そのものに絶望して、現世から消え去りたい人が、あの村を訪れる。村は彼らを受け入れ、一時的に"神隠し"という体裁で社会から隔離する。袋を被って、名前も顔も捨てさせて、数年間、村の労働力として使役する。……村に若者が多いのは、それが理由です。彼らは全員、外界から"消えた"人たち……とか」
朱音の目が、驚愕に見開かれた。
「じゃあ、数年後に帰ってくる人たちって……」
「失踪した人間が、家庭裁判所で死亡認定されるまでは通常七年ほどかかります。……その間なら、法的にはまだ"生きている"。その間に、柵を断ち切ってから世間に戻す。……あるいは、別の失踪者の名前を被せて、別人に仕立て上げて送り出す。……それが、あの村の裏稼業なんだと思います」
「……なるほどね。だから帰ってきた人は"別の何か"になってるって噂されるわけだ。中身が入れ替わってるか、そうでなくとも、本人たちは生まれ変わったような気分だろうしね」
朱音は伸びを打ちながら、深く座席に背中を預けた。
「うっわ。……それ、めちゃくちゃな特ダネじゃん。あかねチャンネル始まって以来の、超ド級の社会派告発動画になるよこれ! 『潜入! 神隠し村の正体は戸籍洗浄工場だった!』なんて、再生数、億いくんじゃない!?」
朱音の目が輝く。だが、彼女はすぐに、ふっとその火を消した。
「……でもさあ。救われてる人もいるんだとしたら、それ、配信のネタにできないじゃん。……もし私がこれを晒して警察が動いたら、あの子……落合香奈だって、せっかく手に入れようとしてる"新しい人生"を奪われちゃうわけでしょ?」
朱音は、ひび割れたスマートフォンの画面を指でなぞった。
配信者としての欲求と、一人の人間としての倫理観が、彼女の中で激しくせめぎ合っているのがわかる。
「どうすんのさ、さっくー。せっかく命懸けでネタ掴んだのに、これじゃお蔵入りだよ! 私たちの治療費も、機材代も、ランクルの修理代も、全部持ち出しじゃん!」
「どうすんの、って言われても……。僕たちの今回の依頼は、配信のネタ探しじゃなくて、落合さんの行方調査と、"絶筆"の回収がメインですから」
僕は、鞄から清書し終えたノートの写しを取り出し、彼女に見せた。
あの真っ黒な塊から、僕が命懸けで救い出した、彼女の真実の叫び。
「落合さんには、まだ戻ってこられない理由がある。……僕らにできるのは、その邪魔をしないことだけですよ」
「知らないよ、そんなの! あー、もう! 私に全然うまみがなーい! さっくーのバカ! お人好し! 清書係なんて、全然儲からないじゃん!」
朱音は子供のようにジタバタと足を動かし、座席の上で駄々をこね始めた。
その騒がしい様子に、僕はようやく、日常へと戻ってきた実感を得て、小さくため息をこぼした。
「……いいじゃないですか。依頼人の台東さんには、落合さんは生きていて、自分の意志で新しい場所を選んだ、とだけ伝えましょう。……それで、この物語は完結です」
「完結、かあ……。すっきりしないハッピーエンドだねえ」
朱音は不服そうに唇を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。
電車が、ゆっくりと装幀市の市街地の明かりの中へと滑り込んでいく。
遠くに見える駅のホーム。そこにはきっと、また別の"物語の裏地"を抱えた人々が、夜の帳の中で呼吸をしているはずだ。
僕は鞄の中の"絶筆"をぎゅっと握りしめた。
他人の絶望を書き写し、それを飲み込んで生きる。
清書係としての僕の人生は、まだ始まったばかりだ。
見返村の霧は、もう僕の視界には届かない。
「……さっくー、次はもっと儲かる依頼持ってきてよね。次は絶対、バズらせるから!」
「……善処します。でも、しばらくは大人しく大学に行かせてください」
装幀市の駅に到着し、扉が開く。
僕たちは、現実という名の騒音の中へと、再び足を踏み出した。




