二十一頁目:黒痕を剥がして
一度登ったはずの山道が、帰り道では全く別の貌を見せていた。
街灯など一本地もなく、僕たちが頼れるのは朱音が持つスマートフォンの、震えるような心細い光だけだ。背後からは常に、枯れ葉を踏みしめる"誰か"の足音が追いかけてくるような錯覚に襲われる。
見返村。振り返ってはいけない村。
一度追い出された場所へ自ら戻るという行為が、これほどまでに心臓を削るものだとは思わなかった。
「……ハァ、ハァ……。さっくー、大丈夫? まだ、あいつら、いないよね?」
「……わかりません。でも、行くしか、ないんです」
朱音の囁き声に、僕は掠れた声で応じる。
奇跡的に、僕たちは袋を被った襲撃者たちと鉢合わせることなく、再び"みはらし峠"の頂上へと辿り着いた。
展望台のデッキは、夜の静寂の中にぽつねんと浮いていた。下界の村が完全に消灯しているせいか、ここから見下ろす景色は真っ暗な深淵にしか見えない。
僕は真っ先に、先ほど記帳本を投げ捨てた茂みの付近へと目を凝らした。
「……あ」
絶望的な捜索を覚悟していた僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
あの記帳本が、展望台の中央に備え付けられた木製の机の上に、整然と戻されていたのだ。
まるで、僕たちが戻ってくるのを分かっていたかのように。あるいは、誰かが物語の続きを綴らせるために、わざわざ拾い上げて配置したかのように。
「……戻ってる。さっき、崖下に投げたはずなのに」
「……誰かが拾ったってこと? それとも、勝手に歩いて戻ったとか? ねえ、さっくー、早いとこやらないと、見つかったら今度こそ逃げられないよ……!」
朱音が怯えたように僕の袖を引く。その指の震えが、僕の腕を通じて伝わってきた。
「わかってます。……なんとか連中に見つかる前に、事を終える。……朱音さん、ライトを。揺らさないでくださいね」
「わ、わかった……。配信……いや、今回は録画だけの方がいいかな。これが私たちの"絶筆"にならないことを祈るよ」
僕は意を決して、机の前に腰を下ろした。
ボロボロのノートが、夜風にパタパタと捲れる。
僕はあらかじめ持参していたペンを握りしめた。冷たいプラスチックの感触が、高揚しすぎた僕の脳を辛うじて現世に繋ぎ止めてくれる。
「それじゃあ、始めます……!」
朱音が掲げる撮影用ライトの白い光が、暗黒の中に一枚の和紙のような舞台を作り出した。
僕は、落合香奈が書き残した、あの塗り潰された文字の塊と真っ向から向き合う。
まずは、彼女の元の筆跡を確認する。
ページの端に書かれていた、彼女の名前。丸っこくて、少し右肩上がりの、いかにも現代の女子大生らしい可愛らしいフォント。……いわゆる"丸文字"だ。
そして、問題の殴り書き。
(……見えてきた)
叔父の絶筆をなぞった時の感覚が、指先に蘇る。
一見すれば、それは単なるインクの塊だ。だが、清書係としての視点で細部を凝視すれば、そこには厳格な"秩序"が存在していた。
筆致が崩れていない。
これほどまでに激しい密度でペンを動かしながら、一画一画の始点と終点は正確だ。
叔父の時と同じだ。これを書いている時、落合香奈は決して錯乱などしていなかった。
極限の集中状態。あるいは、こうして塗り潰すことでしか表現できない、何らかの高度な秘匿意志。
さらにページをなぞるように視線を動かした時、僕はそこに、かすかな違和感を見つけた。
インクの層の周辺。紙がわずかに波打ち、円形のシミがいくつか残っている。
(……涙、だ)
彼女は、泣きながらこれを書いたのだ。
絶望して泣いていたのか。あるいは、ようやく"ここ"に辿り着けた安堵に泣いていたのか。
或いは――単純に、別離の痛みによるものか。
僕はペン先を紙に下ろした。
清書とは、単になぞることではない。書き手の魂の速度に、自分の心拍数を合わせる儀式だ。
――剥がしていく。
幾重にも重なった黒い線を、脳内で一枚一枚、薄いフィルムを剥がすように分解していく。
わずかなインクの濃淡。後から重ねられた線の順序。
(……この線は、拒絶。……この線は、懇願)
組み立てられる言葉と共に、落合香奈という少女の輪郭が、僕の中に逆流し始める。
(――学業よりもバイト。三つの掛け持ち。いつも羽振りが良かった。……でも、それは遊びのためじゃなかった。なら、一体……?)
ペンを走らせる僕の目元が、不意に熱くなる。
(――SNSでの虚飾。いつも笑顔。……誰からも見放されないために、彼女は自分を演じ続けていた。……でも、その内側は、もうとっくに摩耗して、空っぽになっていたんだ)
彼女の孤独。
どれだけ多くの友人に囲まれていても、どれだけ多くの反応を稼いでも、彼女を救う言葉はこの世のどこにも存在しなかった。
だから彼女は、この神隠しの村に至ったのだろう。
自分を一度、完全に消し去るために。
そして、全く別の"何か"として、この村で新しく生まれ変わるために。
清書の手が止まらない。
殴り書きの下から、真実の叫びが浮き上がってくる。
『――もう、わたしを、終わらせて』
『――きれいな、なにもない、わたしに、して』
言葉は、震えていた。
それは願いなどという高尚なものではない。救いを求めて泥水を啜るような、剥き出しの生存本能にも似た、けれど相反する、"死"への渇望。
「……っ」
僕は込み上げてくる吐き気と悲しみに耐えながら、最後の一画をなぞり終えた。
記帳本の黒い塊は、僕の脳内ではっきりとした文章に変わった。
彼女は、神隠しに遭ったのではない。
彼女は、自ら望んで――。
「……さっくー? 終わったの? 何か、わかったの?」
朱音の不安げな声が聞こえる。
僕は答えるために顔を上げようとした。
だが、その瞬間。
――カッ、と。
背後から、暴力的なまでの光が僕たちを射抜いた。
「……っ!!」
強烈な懐中電灯の光に目が眩む。
「……さっくー!」
朱音が悲鳴のような声を上げ、僕の背中にしがみつく。
(……っ、見つかったか……!?)
袋を被った男たちの、あの無機質な暴力が再び襲ってくる。そう身構えた僕は、光に目を細めながら、なんとかその主を視認しようとした。
だが。
光の先に立っていたのは、屈強な男たちではなかった。
そこにいたのは、小柄な人影。
サイズの合わない、村の古い作業着を身に纏い、頭には、先程僕らを襲った連中が被っていたのと同じ、歪な麻袋をすっぽりと被った、一人の少女だった。
袋の穴から、暗い、けれど何処か見覚えのある瞳が、僕たちをじっと見つめている。
「……君、は」
僕の声は、まるで水面に石を投げたかのように、すうっと響いて。
夜風が展望台を吹き抜け、僕が清書し終えた記帳本のページが、一度だけ大きく捲れた。




