005 人間万事塞翁が落馬
翌日は、昨日の夕食と同じような朝食を食べると、しばらく勝手にしていろと言われていたのを幸いに部屋に籠って寝込んだ。
(それにしても粗末な寝床や。おまけに臭い。ワイの臭いが染みついてるんやから仕方ないか。寒いからノミが居らんだけ益しと思わんと)
その日はただ食事をするだけで一日中寝て過ごした。翌日もほとんど寝転んでいるだけだった。日本での生活環境と余りにも異なる劣悪な世界にしかも子供の姿で落ちたこと、その中でも最底辺に近い孤児院生活をおくることになり、食事も満足にできず、将来の展望すらないことに勇人は強い喪失感を抱いていた。
確かに日本では、妻からは離婚を言い渡されて老後資金を取り上げられ、頼った浮気相手の芳香から邪険にされたりと、描いていた老後とは色々と齟齬があり、客観的に見て正当か否かは別にしてそのことを理不尽と思い強い憤りを感じていた。しかしその感情を抜きにして客観的に見れば健康で文化的な最低限度の生活ができるだけの基盤はあった。老い先短いことについても人である以上当然のこととし、ただ安らかな終焉を望むだけだった。
それと比較するとどうしても現状の悲惨さと先行きの不透明さが際立ち、勇人は強い喪失感と望郷の念に苛まれていた。
その翌日も午前中は同じ状況が続いた。孤児たちもエラドも助祭も勇人の行動に一言も文句を言わず、時々可哀そうなものを見るような目を向けるだけだった。貧しい昼食を摂り終えた後、勇人はエラドから気が向いたら持ち物を見に行くように言われていたことを思い出し、重い足取りで部屋を出て倉庫に向かった。
勇人としてはエラドから言われたから確認するという認識だったが、その心の奥底にあったのは、元の世界の物に触れて元の世界との絆を感じたいという消極的なものだった。
教えられたとおりに行くとすぐに倉庫に着き、すぐにユージンと書かれた木箱を見つけることができた。箱には大きな字で「ユージンの物、開けるな危険」と書いてある。チュードの持ち物には危険なものが有るらしい。
(まあ、帝国軍人が落ちてきたらしいし、ピストルとか小銃とか手榴弾とか、この世界にはない危ないもん持ってたんやろなぁ)
箱を開けると大きなバックパックとキャリーバッグ、ビジネスバッグがはいっており、その上に置かれた竹製のかごに、落ちてきたときに着ていた衣類が畳んで入れてあった。ポケットの小物はその上に置いてある。
(はは。スーツが洗濯してある。毛百パーセントのそこそこ上ものやったけど洗濯されたんではもうお釈迦やろなぁ。まあ、どっちにしろサイズが合わんし、スーツなんか着とったら異世界人言うて書いた札ぶら下げて歩くんと代わらんさかい今更着ることは無いやろけど)
かごの中には、封を切った煙草とライター、腕時計、財布、スマホ、カードホルダー、名刺入れ、それにベルトとビジネスシューズが入っていた。
(スマホはここではカメラ兼レコーダー、あと計算機とメモ帳くらいしか使い道はないなあ。そもそも生きとるんかいなあ)
バックパックとキャリーバッグの中には会社のロッカーに入れていたり倉庫の片隅に置いていた私物をとりあえず詰め込んでいる。大まかに言うと防災グッズと使うつもりで買ったのに使わなかったキャンプ用品、やるつもりで買ったが結局しなかった趣味用品である。
南海トラフ地震が話題になり始めてからそれに備えて、自宅まで帰るためのサバイバルグッズを買い始めた。地震と津波の危険性が話題になった頃から少しずつ買いそろえていたものだ。
衣類としては冬用の長袖下着と長袖Tシャツ、セーター、厚手の靴下、防水スラックス、スキー用のジャンパー、これが防寒と動きやすさを兼ねた上着だ。夏用としては半袖の下着と、作業服上下、多機能ベスト、薄手の靴下。
帰宅までの三日分の食糧として乾パン九食分と水の二リットルペットボトル二本と五百ミリペットボトル二本を入れている。
帰宅までサバイバルになることも考えて、安全のための装備として米軍仕様のヘルメット、防刃ベスト、防刃手袋、踏み抜き防止仕様の安全靴、剣鉈、サバイバルナイフ、十徳ナイフ、マグネシウム・ファイアースターター。それに大型の懐中電灯これはラジオと手回し発電器、太陽光発電器が一体になった便利グッズだ。小型懐中電灯、他に小型ラジオとイヤホンも加えており、状況に応じて使うつもりだった。
それに防寒シート、エア・ピロウ、エア・マット、寝袋、これらを担ぐためのバックパックなど。災害が起こった場合、その状況や季節に併せて持ってゆくものを取捨選択するつもりだったが、退職とあって全部一度に持ち出さなければならなかった。そのおかげでいろいろとこの世界に持ってこれた。何が幸いするか分らないものだ。
あと地震に備えたものの他にクロスボウとその矢三十本。これはまだ合法の時代に趣味にと思って買ったものだが、近くに射撃が出来る場所もなく、箱に入ったままロッカーの肥やしになっていたものだ。それから模造刀の脇差。これも居合道を習おうと衝動買いしたものだが、結局習うには至らず、大刀の方は後輩が居合いの練習に使いたいというので譲った残り物だ。
ビジネスバッグには会社の机の中の私物を詰め込んでいた。ボールペンとシャーペンが多数、使い切りライターも多数、三十センチ尺など物差しが数本、分度器、三角定規、コンパス、ハサミ、ステープラーとその針、ドライバーセット、ニッパー、糊、接着剤、付箋、メモ用紙、レポート用紙、切手、名刺、電卓数個、置き時計、盗聴器と受信機、レコーダー、充電式電池と充電器、テーブルタップ、爪切り、扇子、ポケットディッシュ多数。
それにタブレット。これは良い。実用百科事典、家庭向けの医学書、サバイバルのハウツー書などいろいろ実用書を自吸したものが入っている。家を追い出されたときに趣味の本を自吸してタブレットに入れていたのがこんなところで役に立つとは思わなかった。
五十八歳で役職停年で平社員に戻ったとき同じ課の連中が自分のことをどう言っているのかひどく気になりだした。今から考えると少しナーバスになっていたのだろう。盗聴器やレコーダー、充電式電池と充電器はその頃に、自分が不在のときに課の連中がどんな噂をしているのか知りたくて買った物だ。六十になった頃に芳香と懇ろになってからは気にならなくなった。結局あいつにも捨てられたが。
(なんや、この世界でも使い道がありそうな物が多いやないか。この世界に落ちてきたんが定年の日でよかったわ。普通の日やったらこんだけ物持ってることなんかあらへんでなぁ。『人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如し』言うこっちゃな。まあそもそもこんな世界に落ちて役に立つんなら、塞翁も落馬しとるけど)
勇人は自分と一緒にこの世界に落ちてきた元の世界の品々を見ているうちに、次第に自分がここの孤児たちに比べれば随分恵まれた状況にあると思えるようになってきた。鉈やナイフひとつとってもそれは明白だった。ここで調理に使っていたのは土鍋だったし、フライパンも土製のものかせいぜい銅製のようだった。それから考えて製鉄は発達しておらず、孤児が自分の鉄製の鉈やナイフを持っているということはないだろう。
ここを出る頃には持ち込んだ衣類を身に付けておかしくないくらいに成長しているだろうし、仮に魔猟士以外に付ける職業がないとしてもヘルメットや防刃グッズはアドバンテッジになるだろう。
勇人は地球産の物品の数々を見ているうちに、自分がここで生きることについて少し前向きに考えることができるようになってきた。
(ここですることは、まず腹いっぱい食べられる環境の構築やな。次に栄養バランス、特にタンパク質の摂取量をどうやって増やすか。どっちにしろ、食い物についてはワイだけ言うわけにはいかんさかい孤児院全体で増やすことを考えんとしゃあない)
明日からはシモンに付いて回ってそういう目で孤児院の生活を見て回ろう、その結果改善できることが見つかればエラドと相談しよう、勇人はそう決意した。
勇人はソーラー充電式の懐中電灯とスマホ、タブレット、ソーラー電卓とソーラー式時計、充電器と充電式電池を荷物の中の小さいバッグに詰めるとそれを肩にかけ、それ以外の物を適当にバックパックとキャリーバッグに詰め込んで元の箱に戻した。いざという時のために充電しておくつもりだ。何せ懐中電灯の太陽電池をそれ付属のソーラーパネルから充電するのには恐ろしく時間がかかるのだから。
夕食後には初めて学習に参加してみた。読み書きの日だったらしく、孤児たちは助祭が壁の石板に石筆で書いた短い文章を読み、個人用の小さな石板に書き写した。それを助祭と年上の孤児たち数人が見て回って間違いを直したりしている。この世界の文字は表音文字で発音と文字とがほぼ一致しているので覚え易い。例外が数字でゼロから九まで揃っていて位取り記数法にも対応できるのだが、他に十、百、千、万に対応する記号があり、それを併用して数を表記する方が圧倒的に多いらしい。
(まるで和算みたいやなぁ。計算面倒くさそうや)
一時間ほど読み書きの時間があって、その日の学習は終わりになった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「シモン、明日からお前に付いて回っても良いかなぁ」
勇人は部屋に帰るとシモンにそう頼んだ。
「わかった。朝飯前に鍛錬の時間があるから、昨日今日よりチョット早く起きることになるよ」
シモンは何でもないことのようにそう言って寝支度を始めた。勇人はもう少し険のある対応をされるかと覚悟していたので拍子抜けしてしまった。シモンと目を合わせるのもばつが悪いのでそのまま寝てしまおうとしたが、倉庫から持ち帰った喪のを思い出した。
(明日の朝一から充電するようにセットしとかんと)
起き上がってバッグから懐中電灯を取り出すと、隼人はそれを窓際に置き、電池をセットした充電器をそれに接続した。明日雨戸を開ければ充電できるだろう。シモンはそれを興味津々で見ている。
「ユージン、それは何だい」
「懐中電灯って言う明かりの機械だよ。今は電気が空になっているけどお日さまの光を浴びると電池に電気が溜まるんだ。電池ってこれのことだよ」
そう言いながら隼人は充電式乾電池を指さした。
「明かり石みたいなものか」
「たぶん原理は違うけど似たようなもんだよ。ただ電池は明かりをつけるだけではなくて、他の機械も動かすことができるんだ」
そう言いながら隼人は今度はスマホを取り出して懐中電灯の横に並べるとそのアウトレットにコードを繋いだ。
「これも中に電池が入っていて、その電気でこの中に入っている知識を取り出すことができるんだ」
「電気って魔力みたいなものか」
「たぶん違うと思うけど、僕が元居た世界の魔力みたいなものっていえるかなぁ」
「そうなんだ」
「とにかく3年間ほったらかしだったから電気は抜けてるし、充電してもうまく動くかどうか分からないよ。動けば儲けものかな。セットも終わったし、もう寝ようよ」
隼人はシモンとうまく話ができたことに安堵しながらそう言って寝床に入った。
見出しの出典は淮南子ですが、当然「落」はありません。「禍福は糾える縄の如し」と続くはずです。ちなみにこの文の「人間」は「にんげん」だと思います。これに対して「人間五十年、下天の内をくらぶれば~」、「人間至る所青山有り」はいずれも「じんかん」です。




