一時の戯れ
目覚めると、ラドは地平線の彼方まで真っ白に染まった空間に佇んでいた。
一体ここは何処なのだろうと周囲を見渡すも、物一つ存在しないこの空間は方向すらも分からない。
とりあえず浮いたような感覚の足を前へ前へと押し出すと、先程までは背景に溶け込んでいて見えなかったが、奥に一人の少女が立っていることに気が付いた。白色のワンピースに、美しくも儚いその白銀の髪を風になびかせて遠くを眺めている。
ラドはその少女がウルだと思い、近くに寄りながら声をかけるも、少女は何の反応も示さない。再度呼びかけるも、微動だにしなかった。聞こえていないのか、はたまた聞こえないフリをしているのか不思議に思ったラドは、回り込んで顔を覗き込む。
するとそこには、人間かどうかさえも識別出来ないぐらい崩れた何かが、ラドに向かって微笑みかけていた。驚いて距離をとると、ウルだと思っていた少女は瞬く間に地面に溶けて消え去った。
そして気が付くと、真っ白だった辺り一帯にはどす黒い闇が広がっており、ラドは必死にもがくも、底の見えない沼の中へと引きずり込まれて意識を失った。
まるで悪夢から逃げるように、ラドは半ば飛び跳ねる格好で目を覚ました。
動機が激しく、汗ばんだ寝間着はべっとりと身体にくっ付き、非常に気持ちが悪い。額に手を当てて汗を拭いながら、もやもやと湧き出る感情を掻き消す。
夢だったとはいえ、どこか現実味を帯びた感覚が頭から離れない。ラドはしばらくその悪夢と格闘したが、結局今日一日は引きずる羽目になりそうだった。
早朝の修練場に顔を出すと、珍しくラドよりも先にウルの姿があった。力を抑えて能力の練習をしているのか、髪色は漆黒のままであった。
「あ、ラド。」
ラドの姿に気付いたウルは、美しい髪を揺らしながら近寄って来る。その光景に今朝の悪夢が重なって、思わず右手で頭を抱えてしまう。
「どうしたの?頭痛い?」
「ううん、ただの立ち眩み。今日は随分と早いね。」
「目が覚めちゃって。早いのはお互い様だよ。」
「はは、全くだね。」
ウルの隣に陣取って、ラドは早速練習を開始する。雑念を取り払うには集中あるのみと、意識を身体の動きに集中させる。しかし、視界にウルの姿が入る度に動きが鈍るのが、自身でも感じ取れた。
「ラド、やっぱり何かあったの?」
ウルは鋭かった。ラドのほんの僅かな違いを、脇目で気付いていた。
「………いや、何でもないよ。」
「嘘。私と目を合わせないようにしてる。」
夢の内容とは逆に、ウルがラドの顔を覗き込む。曇りのない澄んだその瞳に、嘘はつけなかった。
「ごめん、実は今日嫌な夢を見たんだ。」
ラドは事細かに内容を話す。すると、ウルはラドの右手を強く握ってみせた。
「大丈夫だよ、私はここにいる。だから心配しないで。」
「うん………ありがとう。」
先程まで真剣に悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるぐらい、ラドの心の不安は消し飛んでいた。出来る事ならしばらくの間こうしていたかったが、それでは修練場に来た意味が無い。ウルの手を優しく解いて、わざとらしく腕を勢い良く前に突き出す。
「本当にありがとう、ウル。おかげでこの通りさ。」
「空元気じゃない?」
「まさか!組手、やれば分かるよ。」
「分かった。」
それから小一時間、何度も床に叩きつけられながらも、一所懸命に訓練に励んだ。徐々に体力がついてきているのか、ウルに膝を突かせる事は出来ずとも、長時間に渡って舞踊を演じる事が出来るようになった。
ウルもそれを感じていたのか、時折ラドが放つ意表を突いた攻撃に眉をひそめる場面もあり、結局惨敗ではあったが、ラドは自身が少しは成長しているのを実感出来て嬉しかった。
終了後、いつものように床に大の字になり息を切らしていると、ウルがタオルを手渡してくれる。
「お疲れ様。」
「んっ、ありがとう。………どうかな、少しは強くなれたかな?」
「前よりもさらに強くなったね。そろそろ私じゃ役不足かも。」
「そんな事はないよ。だって、まだ一度もウルを倒せてないじゃないか。」
「そうなんだけどね。でも、超える日もそう遠くないな………って。」
ウルを超えて守ってあげられるようになるのが目標だった。それ故に、本人からその一言をもらったラドは、より努力しようという強い意思が芽生えた。タオルで汗を拭き取って、勢い良く立ち上がる。
「さて、と。それじゃあ僕はそろそろ行くね。」
「待って、ラド。」
ウルに呼び止められて身体を捻った際、思わずバランスを崩してしまい、ウルを半ば押し倒す形で床に倒れ込んだ。ぎりぎりの所で踏み止まったが、ラドの真正面にはやや頬を紅潮させたウルの顔があった。その恥らう姿に、思わず心臓が高鳴る。
「………バカッ!」
すぐにその場から離れて謝罪すれば良かったのだが、いつまでも眺めていた所為でウルの怒りを買ってしまい、勢いよく突き放される。その後ウルは紅潮させたまま、脱兎の如く修練場から飛び出していった。
呼び止めようとしたが間に合わず、ラドはその場に一人残されて呆然とした。今も尚残留するウルの甘い匂いが、ラドの心臓の鼓動を加速させる。
「ウル………。」
思わず独り言までこぼれる。悪い事をしたと分かってはいたが、普段見せないウルの特別な表情を見れた事に、喜びも感じていた。
確実にウルの表情は豊かになっている。そう再認識出来た瞬間でもあった。と、ラドは浮かれていたが、先程の行為は早急に謝罪しなければならないだろう。荷物をまとめて修練場を後にし、ウルの行きそうな所に隅々まで寄ったが、始業開始時間までにその姿を見つける事は出来なかった。
「ラド、どうした?何だか浮かない顔してるぞ。」
職場に着くや否や、ノークに声をかけられる。昨日と同じくして、またも心配させてしまった。
「すいません。ちょっと今朝トラブルがありまして………。」
「トラブル?何だ、ラッキースケベか?」
勘で言ったのだろうが、ズバリ当たっていた。赤面するラドを見て勘が当たった事を察したノークは、顔をにやつかせて詰め寄る。
「おいおい、当たりかよ。で、どんなラッキーだったんだ?」
「ちっ、違います!決してそう言うのでは………。」
「ねえのか?」
「………あるかも知れません。」
現在はやもめだが、仮にも結婚経験があるノークなら、何か良い答えをくれそうな気がした。ラドが事情を話すと、ノークは僅かに眉間に皺を寄せて、返答に困ったといった様子であった。
「それってつまり、アレだろ?」
「アレ………ですか?」
「うーむ、何て説明してやりゃいいか。」
無造作に頭を掻いて考えるも、明確な回答が出なかったらしく、ノークはしばらくの間唸っていた。
「うーん、まあそうだな。年頃の女の子ってやつは色々とデリケートなんだよ。そんな節操の無い事すりゃあ誰だって怒るし嫌がる。」
「そう、ですよね………。ウルは僕を許してくれるでしょうか?」
「なーに、心配すんなって。俺だってミシェラとはしょっちゅう喧嘩してたが、次の日にはケロッと仲直りしてたからよ。」
真摯に反省して謝れば許してくれる、仲が良いなら尚更だ。ノークはそう力強く言い放ってラドの背中を軽く叩く。上司のありがたい声援を受けたラドは、段々と気力を取り戻した。
「ありがとうございます、ノークさん。今日仕事終わりにウルに謝って来ます。」
「おう、頑張れ。」
気合を充填したラドは作業机に向かい、普段よりも精を出して仕事に励んだ。そんなラドの様子を眺めていたノークは、先程の『アレ』について考えていた。上手くそれらしい事を言ってはぐらかしたが、ノークはウルが何故そんな態度を取ったのか、日頃の関係も加味した上で大方理解していた。
しかし、その答え今ここで教えてしまっては意味が無い。何故ならそれは、ラド自身が気付かなければならない事だからだ。
ウルは、ラドのことが好きなんだ、と―――――
そして時間は過ぎて夕暮れ時、本日の業務を全て終えたラドは、皆に先に帰るとの一報を入れてから、教会宿舎へと急いだ。しかし、少し来るのが早過ぎたのかも知れない。扉の前の呼び鈴を鳴らすも反応はなく、また中に人がいるような気配も感じなかった。
他の場所に捜しに行こうかとも思ったが、入れ違いになるのを避けるため、それはやめておいた。それからかれこれ一時間弱、ウルが現れるのを辛抱強く待ったが、一向に現れる気配がなかった。完全に日は落ちて、辺り一帯は徐々に暗闇が支配され始めている。
これ以上待っても埒が明かないと判断したラドは、再びウルを捜す為に行動を開始した。だが、ウルが寄りそうな、行きそうな場所をしらみ潰しに歩き回ったが、とうとう見つける事は叶わなかった。
終列車に乗り、沈んだ表情のまま東区へと戻って自宅へと足を運ぶ。明日はどこを捜そうか。そんな事を考えながらふらふらと自宅に辿り着くと、ある人物が家の前の壁にもたれかかっていた。そう、ウルだった。
「ウルッ!!」
ラドは嬉しさのあまり我を忘れてウルの傍まで駆け寄る。
「良かった、ずっと捜してたんだ………!」
「ラド………。」
「今朝の件を、ずっと君に謝りたくて。その、ごめん!!」
愚直なまでに丁寧なお辞儀をして、自身の誠意の程を示す。頭を下げた関係で、ウルがどんな顔をしているのかは分からなかったが、二人の間に流れている気の流れで、怒ってはいないことを察した。
「いいよ、不可抗力だったのは分かってるから。………私の方こそごめんね。邪険な態度でラドを傷つけた。」
ウルもラドに習って、綺麗なお辞儀をする。しばらく二人とも頭を下げたまま無言を貫いていたが、やがて姿勢を戻してお互いに見つめ合う。
「それじゃ、仲直りの印に。」
「ん。」
小指同士を絡ませて、軽く上下に振る。子供の時からやっていた、ある種のおまじない。それが終わってから、ラドは頬を緩ませた。
「良かった。ウルに嫌われたんじゃないかと思って。」
「そんな事ない。ちょっと、びっくりしただけ。」
ほっと胸を撫で下ろすラドを小突くウルは、どことなく嬉しそうだった。
「大袈裟だよ。心配させたのは、申し訳ないって思ってるけど。」
「それはお互い様って事で。」
わだかまりが解消した所で、ラドは列車が終列を迎えていた事を思い出し、ウルにその旨を伝える。
「そうだったね。歩いて帰れるほど近い訳でもないし、今日はお邪魔してもいい………かな?」
「勿論。そうと決まれば、美味しいご飯をご馳走するよ。」
「それは楽しみ。」
仲良く談笑しながら自宅の扉に手を掛けたその時、ポストに一枚の封筒が入れられている事に気付き、ラドは嬉しそうにそれを手に取る。
「あっ、きてたのか。」
「誰から?」
「誰って、父さんだよ。こうして一月か二月に一度、手紙を送ってくれるんだ。」
ウルは、途端に唖然とした。もしかして知らなかったからだろうか?それにしても、その様は少々異常だった。
「どうしたの、そんなぼーっとして。」
「その手紙、誰から………!?」
「あれ、父さんって言わなかったっけ?」
「違う。だって、あの時にもうお父さんは………!」
「えっ………?」




