君の雨
どことも知れない不思議な空間で、イヴァムとハンニバルは不気味な形をしたテーブルを用意してチェスに勤しんでいた。
無音の空間に駒を置く音が響き渡る。盤面はイヴァムが圧倒していた。一見ハンニバルは冷静沈着に見える容姿だが、その実は直情型。攻め手がとても欲に忠実であったが故に、悉く駒を掠め取られていた。
「盟主よ。我はいつ動けば良いのだ?」
ハンニバルの問いかけにイヴァムは答えなかった。しかし、ハンニバルは意に介さずそのまま駒を動かす。
「先兵のエティーラはしかと役目を果たした。他の者も、血気盛んに自らが舞台へ上がる事を望んでいる。」
再び駒を動かす。
「無論我も、例外ではない。」
カーンと、音が出る程強く駒を置いて意思表示をする。その眼は、まさに血に飢えた野獣そのものであった。力強い意志を汲み取り、イヴァムは返しとして静かに口を開いた。
「君の気持ちは良く分かるよ。でもよく考えて欲しい、これはチェスと同じだよ。王を守るべき城が先陣を切ってどうするんだい?」
「ぬ………。」
「彼女は歩兵。まさにこれから始まる戦の鐘を鳴らしたんだよ。」
ハンニバルの駒を一蹴する決め手を放ち、遊戯を終了させた。その手腕に、ハンニバルは深く頭を下げた。
「安心してよ。君が必要になる時まで、そう時間はかからないだろうから。」
「承知した。………もう一度相手を願えぬか?」
「フフフ、勿論さ。君は負けず嫌いだね、ハンニバル。」
不気味な形をしたテーブルがひとりでに動いて、盤面上の駒を整理した。そのままの流れで、ハンニバルは駒を動かし始めた。
愉快だった。今頃ラドクリフ達が、日々どんな思いで過ごしているのかを考えるだけで。
イヴァムは笑みを欠かさなかった。常に得られる快楽の笑みを。
『こちら側』の全ての準備は整っているのだが、それを実行に移すには些か早計。
今自分自身が舞台に上がってしまっては、折角華やかになりそうなこの舞踏会を台無しにしてしまう。
もっともっと、楽しみたかった。殺し合いと言う名の非道な遊びを………。
謎の賭博師レジー・ディーヴァとの邂逅から数日。結局あれからその姿を見つけ出す事は叶わず、特に害を及ぼす危険性も低いだろうという事で、ひとまず彼の件は置いておく運びとなった。
一応教会に報告はしておいたが、彼は狼の出現とはあまり関係性は無いだろうとラド自身感じていた。
本当は宿舎に立ち寄ってでも、ウルと話がしたいと思っていたが、時間が彼女の傷を癒してくれるのを待つことにしたのだった。
そして事件から数日後、ようやく早朝の修練場でウルに出会う事が出来た。
ウルはラドがいた事に気付いて少しだけ入室を躊躇したが、やがておずおずと中へ入って来た。
「おはようウル。今日も早いね。」
「う、うん………。」
やはりまだ狼の件を引きずっているのだろうか。受け答えにも、わずかながらぎこちなさが感じられた。
「ウル、今日も相手してくれないかな?」
少し悩んだようだったが、軽く頷いてくれた。ラドは礼を言いつつ所定の位置で構える。
お互いが一呼吸した後、勢いよく地面を蹴って組手を開始した。
前回対戦した際にはあっさり倒されてしまったが、今度は違う。日々鍛錬した成果が、どれ程身に付いているのかを試す絶好の機会であった。
早々に打ち出されたウルの右拳を受け流す。以前はこの速度に圧倒されたが、多少は見えるようになり始めていた。
立て続けに拳を連続で打ち込んでくるが、危なげながらも何とか捌く。
攻撃の合間を縫ってお返しに左の拳を打ち込むが、ウルは屈んでこれをかわし、勢いよく蹴り上げた。
わずかに髪を掠めたが、すんでのところでかわせた。ラドは失った体勢を取り戻す為に一度距離を置く。
その後地面にしっかりと足を付けてから、再び距離を詰める。
今度はこちらから攻撃を仕掛けるべく、勢いをつけて右拳を放つ。
しかしこの一撃は囮であり、本命は前回やられた足払いにあった。
ぎりぎりまで拳を突き出してから引っ込め、足を払う動作に移ろうとするが、やはり甘かった。
ウルは既に飛んでいた。どうやってこちらの意図に気付いたのかは定かではないが、戦いの中で養ったその経験値は流石と言わざるを得ない。
慌てて伸ばした足を引っ込めるが、それよりも先にウルの跳び蹴りが炸裂した。
その強力な一撃に急ごしらえの防御では守りきれず、体ごと吹き飛ばされる。
幸い受身は間に合ったので怪我はしなかったが、これが実践であればもうラドの命はない。
この試合、ラドの負けであった。自らの体を起こしてウルの元まで歩み寄る。
「いてて………。はは、少しは成長したかと思ったんだけどな。やっぱりウルには敵わないな。」
「ううん、そんなことない。ラド強くなってるよ。その………お世辞とかじゃなくて。」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。」
武術を嗜む人間の言葉で、『心に迷いが生じていると、それが気の濁りとなって表れる』と言う格言があるが、今のウルは気の濁りなど微塵も感じさせない、純粋で透き通った武術であった。
どうやら、狼の件に関しては吹っ切れているようであった。それを確認出来たラドは安心した。
「ウル、もう一回お願いしてもいいかな?」
闘争心に火がついたのか、ウルは先程よりも力強く頷いた。
それから小一時間程、二人は真剣に組手を続けたが、またしても一度も勝ちを拾う事は出来なかった。
無抵抗のまま何度も床に叩きつけられる事はなくなったが、吹き飛ばされたり、加減してあるとはいえ拳の一撃をその身に受けたりと、体中が痛いのは変わらなかった。
汗だくになって大きく呼吸しながら横たわるラドに、ウルは疲労回復効果のある飲料水を手渡す。
「お疲れ様。」
「はあっ、はあっ………ありがとう。」
ウルは相も変わらず息が上がっていない。本当に凄まじい体力だと感心した。ラドは上半身を起こしてから手渡された飲料水を喉に流し込んで潤した後、ウルに話しかける。
「どうしてウルはそんなに体力が長続きするんだい?何か、秘訣とかあるの?」
「努力。」
「やっぱり、そうだよね。」
「も、あるけど。本当は………。」
苦笑いするはずだったが、ウルの意味深な台詞に思わず不安な顔を出してしまう。その様子に気付いたのか、すぐさま言葉を繋いだ。
「ごめん、何でもない。でも努力は大事だよ。実際今日のラドは以前より強くなってた。」
「もっともっと頑張らないとね。ウルに頼ってもらえるぐらい、強く………。」
「今でも十分、頼ってるよ。」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。たとえ嘘でもやはり嬉しい。しかしいつまでもその優しさに甘える訳にはいかない。ラドは己の心の中でより一層の精進を誓った。
「あのね、ラド。この間のショップストリートの事なんだけど………。」
ウルの投げ掛けに小さく頷いて返答する。
「あの狼は、ただの狼じゃなかったんだ。」
「新種………って事かい?」
「ううん、違う。狼の正体は………人間だったの。」
突然の告白に一瞬聞き違えたのかと錯覚するが、ウルの強い眼差しにそれは真実であると伝えられた。
「ど、どうして………!?」
「それは私にも分からない。行動不能にした時に、突然表面の黒い皮膚が剥がれ落ちて中から人が………。」
当時の光景を思い出したのか、言葉に詰まる。滅多なことでは感情が揺れないはずのウルが、表に感情を漏らしてしまう程に心がかき乱れているのが読み取れた。
「今、教会の医療部門の方で解析を行っているから、じきに何らかの結果は出ると思う。」
ウルはラドと目線を合わせる為に地面に尻を付かせ、膝を立てた足を両腕で抱えて座る。
「正直ね、私の心が怖いって感じてる。私の知らない所で、一体何が起こっているんだろう………って。」
「人間だから全を知る事は出来ない。ウルが不安になる気持ちも分かるよ。」
「これから先、どうなっちゃうんだろう。何だか分からなくなって………。」
自らの顔を膝に埋めて丸くなる。決してウルは、吹っ切れていたのではなかった。
不安に押し潰されそうな、自分の胸の内を明かそうかどうか迷っていたのだ。
勿論ラドにしてみれば、ウルに頼られるのはこれ以上ない喜びだろうが、ウルは話す事でラドに余計な負担を掛けてしまわないだろうかと危惧していた。
しかし、段々と押し寄せる不安の波に飲まれてその気持ちも負けてしまい、今に至る。
ラドはそんなウルの頭にそっと触れて、くしゃりと優しく撫でた。手を動かすと共に揺れる漆黒の髪は、いつもより哀愁を感じさせた。
「いいさ、分からなくても。」
少しだけ顔を上げて脇目遣いに見てくるウルに、ラドは声を弾ませて応えた。
「分からないから、明日が楽しみなんだ。勿論いつも楽しい事ばかりじゃないけど、辛さを乗り越えたその先には、きっと楽しい事が待ってるはずさ。実際僕がそうだった。」
「………ラド。」
「だけどね、やっぱり辛さを乗り越えるのが苦しい時だってある。逃げ出したくなったり、どうしようもなく叫んでみたくなったり………。でもそんな事をしたって、目の前の壁が動くことはないんだ。だからそんな時には、一度立ち止まって周りを見て。」
「周りを………?」
「ウルが信じる『仲間』がいる。一人で越えられないなら、皆でその辛さを共有して乗り越えるんだ。それなら、もう少しだけ頑張れそうな気がしないかい?」
君が僕にそうしてくれたように。と続けようと思ったが、さすがに気恥ずかしいのでそれはやめておいた。
ウルはまた顔を埋めて丸くなったが、やがて脚を伸ばして窮屈だった格好を解放する。
「ラド。」
「うん?」
ウルはラドの肩に体を預けてくる。突飛な行動に、ラドは思わずぎょっとしてしまう。
「ウル、大丈夫!?どこか痛むの!?」
てっきり体調が優れないのかと思ったが、雰囲気でそれが杞憂である事を悟った。
「ちょっとだけ、もうちょっとだけ………こうしててもいいかな?」
何も言わずにラドは静かに目を閉じて、無言で頷いた。
それはほんの数分なのかも知れないし、ひょっとすると数十秒なのかも知れない。それでも、その少しだけの時間でも、こうして想いを繋ぎ合えればそれだけで、他に言葉は要らなかった。
早朝の修練場に降り注いでいた雨はいつしか止み、色鮮やかな虹の橋が架かっていた。




