第61話 契約を守る者
《仮審査対象を確認》
《外部管理者の識別情報と一致》
黄金の板に浮かんだ文字を見て、アルトは前方の男を見つめた。
古代契約資料の保管責任者。
黒い契約を操っていた外部管理者。
その本人が、道を塞いでいる。
「そこで待ってください」
アルトが告げる。
「こちらへ近づかないでください」
保管責任者は、穏やかな表情を崩さなかった。
「アルトさん。あなたを拘束するつもりはありません」
「黒い箱を引き渡せと言いました」
「危険な契約具です。専門の者が管理するべきでしょう」
「その専門の人間が、存在しない借金を作っていました」
周囲にいた契約院の者たちがわずかにざわめく。
保管責任者はアルトではなく、黄金の板を見た。
「古い判定具を持ち出しているようですね」
「知っているんですか?」
「契約院には、古代契約に関する記録があります」
「その記録を使って、何人へ借金を押しつけましたか?」
「言葉を選びなさい」
男の声は変わらない。
怒鳴りもしない。
だが、その場にいる者へ逆らうことをためらわせる圧力があった。
「私は契約を管理しているだけです」
「本人が知らない借金も?」
「契約には、個人の感情より優先される役割があります」
「役割?」
「責任の所在を明確にすることです」
保管責任者はゆっくりと周囲を見回した。
「誰かが損失を負わなければならない。誰かが返済しなければならない。全員が責任を拒めば、商会も国も成り立ちません」
「借りていない人間へ払わせる理由にはなりません」
「本当に借りていないと言い切れますか?」
アルトの眉が動く。
「あなたは元パーティーの資金を管理していた。装備も物資も預かっていた。利益を得ていたでしょう」
「報酬は、ほとんど分けられていませんでした」
「それでも、パーティーの活動によって生活していた」
「だから三百金貨を背負うべきだった?」
「誰かが背負う必要があった」
ヴァリスたちの借金。
パーティーが失敗した責任。
それを最も弱い人間へ集めた。
「俺である必要はなかった」
「あなたが最も適していました」
保管責任者は迷わず答えた。
「資金と装備へ継続的に触れ、会計記録にも関わっていた。それでいて、分配権限は低かった」
第47話で黄金の板が示した条件と同じだった。
「最初から、俺たちのパーティーを調べていたんですね」
「数ある契約候補の一つとしてです」
「俺が返済を続けることも予想していた?」
「いいえ」
初めて、保管責任者の口元がわずかに動いた。
「あなたがここまで進むとは思いませんでした」
「返せずに潰れると思っていた?」
「多くの者はそうなります」
関所地下に残されていた百二十七件の契約。
その中で、継承者候補まで進めた者は三人だけだった。
「返せない者を選んでいたんですか?」
「返せる者だけを選ぶ意味がありません」
「なぜ?」
「契約は、人間の本質を明らかにするからです」
保管責任者が一歩だけ前へ出る。
護衛たちが剣を構えた。
男はそれ以上進まなかった。
「突然、大きな債務を背負ったとき、その者が何を選ぶか。逃げるか。誰かへ押しつけるか。財産を奪うか。それとも返済するか」
「実験していたのか」
「選別です」
アルトの右手に力が入る。
「そのために、人の人生を壊した?」
「耐えられない者へ、古代契約を継承させるわけにはいきません」
「継承させる必要はない」
「必要です」
保管責任者の声が、初めて強くなる。
「古代契約は、誰かが管理しなければならない」
「管理者がいなくても、新しい債務の発行は止まりました」
「一時的にです」
「止まって困るのは、あなたでしょう」
黄金の板には、外部管理者の権限停止が記録されている。
新規債務発行。
強制徴収。
契約記録の変更。
すべて現在は使えない。
「王都の契約は、古代契約を基礎にしています」
保管責任者が言った。
「すべてを止めれば、正当な返済まで止まる。借金を踏み倒す者が増える。担保も意味を失う」
「すべてを止めるとは言っていません」
「あなたに区別できるのですか?」
「少なくとも、本人が知らない借金は止められる」
「それだけでは足りない」
男は右手を上げた。
後ろにいた職員が、契約書の束を持って前へ出る。
「これまであなたが無効にした契約です」
「触れません」
「見るだけで構いません」
職員が地面へ書類を置き、離れた。
黄金の板が反応する。
《無効化済み債務の記録》
《総件数――四十七件》
「四十七件?」
アルトが止めた契約は、それほど多くない。
「第二候補が無効にしたものも含まれています」
保管責任者が答える。
「その結果、誰が損失を負ったと思いますか?」
「不正な契約を作った側です」
「違います」
書類の上に、複数の金額が浮かぶ。
《未回収額――合計二百三十一金貨》
「商会。貸金業者。冒険者ギルド。装備店。宿屋。正当な債権者も含まれています」
「正当な契約まで無効にした?」
「第二候補は、目の前の債務者を助けるために徴収を止めた。その結果、契約全体が不安定になった」
アルトは黄金の板へ問いかける。
「四十七件のうち、本人の同意が成立していた契約は何件だ」
《照合可能――四十七件》
《同意成立――十九件》
《重大条件の秘匿――二十八件》
すべてが不正ではなかった。
十九件は、本人が条件を理解して契約している。
「第二候補は、その十九件も無効にしたんですか?」
《徴収停止を実行》
《債務そのものは継続》
「無効ではありません」
アルトは保管責任者を見る。
「徴収を止めただけです」
「返済が止まれば、債権者は損失を負う」
「止めた理由は?」
黄金の板へ続けて確認する。
《十九件の徴収停止理由》
《債務者の生命維持が困難》
《生活資金不足》
《治療費不足》
《担保徴収による就労不能の危険》
借金そのものを消したのではない。
生きられなくなる徴収だけを、一時的に止めた。
「返済を続ければ死ぬ人間からも、予定どおり取るべきだと?」
「契約は契約です」
「死ねば、その後の返済もできない」
「担保がある」
「働く技能を奪えば、さらに返せなくなる」
アルトは自分の借金を返すため、生活費も装備費も治療費も残してきた。
すべてを返済へ回せば、一時的には借金が減る。
だが、次の依頼を受けられなくなる。
「返済させることではなく、徴収することが目的になっている」
保管責任者の目が細くなる。
「債務者が返せなくても、担保を回収すれば契約は完了します」
「それで、人がどうなっても?」
「契約の外にある事情です」
「違う」
アルトは杖をついたまま、まっすぐ男を見る。
「返済できる状態を残すことも、契約を続けるために必要です」
《仮審査中の主張を記録》
黄金の板に文字が現れた。
《外部管理者の運用方針》
《債権回収を最優先》
《債務者の返済能力維持を考慮せず》
《継続的返済を阻害した事例――複数》
保管責任者の表情から、初めて余裕が消えた。
「判定具を閉じなさい」
「嫌です」
「その板は、正式な継承者以外が使うものではない」
「候補者にも照合権限があります」
「その権限を与えたのは古代契約です」
「あなたではない」
男の後ろにいた職員たちが互いを見る。
保管責任者の命令と、黄金の板の記録。
どちらへ従うべきか迷い始めている。
「皆さんも、その人から契約を受けていますか?」
アルトは職員たちへ呼びかけた。
「答える必要はない!」
保管責任者が声を上げる。
今度は明確な焦りがあった。
「契約書を持っている人は、黄金の板へ置いてください」
「従うな!」
「置くだけです。署名も、承諾も必要ありません」
誰も動かない。
だが、一人の職員が持っていた剣をゆっくりと地面へ置いた。
「私は、命令に従わなければ違約金が発生すると言われました」
「金額は?」
「五金貨です」
「黙れ!」
保管責任者が右手を上げる。
何も起きなかった。
権限は停止されている。
新しい債務も、強制徴収もできない。
職員は震える手で契約書を取り出した。
長い棒を使い、黄金の板のそばへ置く。
《護送命令契約》
《命令不履行時――五金貨》
《重要条件の説明――あり》
《契約者の理解――あり》
「本人が理解して署名しています」
契約管理の職員が言った。
「では、有効なんですか?」
《署名時の状況を照合》
《拒否した場合――職務からの解任》
《過去の報酬返還を要求》
《家族への連帯債務を示唆》
「脅されて署名しています」
職員の顔が青ざめた。
「家族へ借金が行くとは、契約書に書かれていませんでした」
「示唆しただけだ」
保管責任者が言う。
「正式な命令ではない」
「相手がそう思うように言った」
《自由意思への不当な圧力を確認》
《護送命令契約――効力停止》
職員の右手首から、薄い黒い文字が消えた。
「違約金は?」
《発生しません》
残りの職員たちが動き始めた。
一人。
さらに一人。
持っていた契約書を地面へ置く。
《護送命令契約》
《警告者拘束契約》
《黒い契約魔道具回収契約》
《証拠記録の廃棄契約》
最後の契約が表示された瞬間、同行していた王都の職員が息を呑んだ。
「証拠を消す命令まで……」
「契約院を守るためだ」
保管責任者が答える。
「不完全な記録が外へ出れば、すべての契約に対する信頼が失われる」
「不正を隠すためでしょう」
「同じことだ!」
「違います」
アルトは言った。
「契約院への信頼を壊したのは、不正を記録した人間ではない。不正を続けた人間です」
黄金の板が強く光る。
《仮審査記録を更新》
《外部管理者による証拠隠滅命令》
《契約者への脅迫》
《権限停止後も、通常命令を利用して妨害を継続》
《重大な管理権限違反》
保管責任者は、後方の馬車へ視線を向けた。
逃げるつもりだ。
「護衛の皆さん」
アルトは剣を抜かなかった。
「その人を捕まえろとは言いません」
職員たちがアルトを見る。
「ただ、証拠を持って逃げることだけは止めてください」
「お前に命令する権限はない!」
「命令ではありません」
アルトは黄金の板を示す。
「この場で何を守るか、自分で決めてください」
最初に契約書を出した職員が、保管責任者と馬車の間へ立った。
続いて、二人目。
三人目。
誰も武器を向けない。
ただ、道を塞いだ。
「退け」
保管責任者が低い声で命じる。
誰も動かなかった。
「契約院の命令だ!」
「その命令書を見せてください」
職員の一人が答えた。
保管責任者は何も出せない。
権限は停止されている。
通常の命令書にも、自分の不正を記録することになる。
「アルト」
男が初めて敬称を外した。
「お前は、すべての債務者を助けられると思っているのか」
「思っていません」
「誰かを助ければ、別の誰かが損をする」
「だから、確認します」
「何を?」
「誰が借りたのか。誰が同意したのか。返済を続けられるのか」
「そんなことを一件ずつ調べるつもりか!」
「必要なら」
「非効率だ!」
「人の人生をまとめて処理するよりはましです」
保管責任者の顔が歪む。
怒りではない。
理解できないものを見る表情だった。
「やはり、お前は継承者に向いていない」
「あなたに選ばれるつもりはありません」
「正式な継承者にならなければ、私を裁けない」
「今は仮審査で十分です」
「仮審査に、私を解任する権限はない」
「解任できなくても、証拠は残せる」
黄金の板に記録された内容。
黒い箱。
封印された命令書。
関所地下の台座。
百二十七件の契約記録。
証拠はもう、一つではない。
「王都へ着けば、外部監査へ渡します」
「着けると思うのか」
保管責任者の言葉と同時に、後方から激しい音が響いた。
黒い箱を載せた荷台の方向。
街道の遠くで、黒い光が空へ立ち上っている。
黄金の板に表示が現れた。
《黒い契約魔道具への遠隔接続を確認》
《所有権争議を強制終了》
《所有者――アルト》
保管責任者の権限は停止されている。
だが、停止される前に用意していた処理が動き始めた。
《所有者の管理義務を執行》
《黒い契約魔道具による債務》
《すべてアルトへ移転します》
これまで黒い箱が作った借金。
その全額を、所有者にされたアルトへ背負わせようとしていた。




