第62話 所有者の責任
《黒い契約魔道具による債務》
《すべてアルトへ移転します》
アルトの右手首に残っていた黒い輪が、一気に締まった。
痛みはない。
代わりに、胸の奥へ重いものが流れ込んでくる。
《未処理債務を集計》
《不正契約――四十七件》
《担保徴収――三十二件》
《関係者債務――六十一件》
《総額を算出中》
「アルトさん!」
治癒師が近づこうとする。
「触らないでください!」
アルトは杖で身体を支えた。
視界の端が暗くなる。
数字だけが、頭の中へ次々と流れ込んできた。
自分が借りた金ではない。
見たこともない契約。
名前も知らない人間から奪われた技能。
それらすべてが、黒い箱の所有者という理由だけでアルトへ集められようとしている。
《総債務額――六百八十四金貨》
周囲から息を呑む音が聞こえた。
「六百八十四……」
王都の職員が呟く。
現在の借金と合わせれば、千金貨近い額になる。
返済できる金額ではない。
《所有者アルトへ移転》
《承諾不要》
「所有者ではありません」
アルトは黄金の板へ左手をかざした。
《所有権争議――強制終了済み》
《所有者――アルト》
「誰が終了させた」
《旧管理者による事前処理》
「その旧管理者は、仮審査によって権限を停止されている」
《処理登録時点では権限あり》
保管責任者は、静かにアルトを見ていた。
管理権限を止められる前に、所有権を確定させる処理を登録していた。
条件が満たされた瞬間、自動で実行されるようにしていたのだ。
「いつ登録した」
《黒い契約魔道具の輸送依頼承認時》
最初からだった。
アルトを黒い箱へ近づける。
所有権を一部移す。
第二判定を始める。
失敗した場合でも、最終的には所有者としてすべての債務を背負わせる。
「あなたは、最初から俺へ押しつけるつもりだった」
アルトが言うと、保管責任者は否定しなかった。
「管理者になるには、それだけの責任を負う必要がある」
「俺は管理者になると承諾していない」
「責任を負えない者に、権限だけを与えるわけにはいかない」
「権限も求めていない」
「それでも、お前は契約へ干渉した」
不正な債務を止めた。
徴収される者を助けた。
記録の削除を防いだ。
「管理するなら、結果も引き受けろ」
「これは結果ではない」
アルトは右手首の黒い輪を見る。
「あなたが作った借金だ」
《債務移転率――五パーセント》
胸の重さが増す。
時間は多くない。
「黄金の板。移転される債務の発行者を照合しろ」
《発行者情報を照合》
《外部管理者――三百九十一金貨》
《黒い契約魔道具――二百九十三金貨》
「黒い箱が自分で作った借金もあります」
契約管理の職員が言う。
「その箱の所有者なら、責任を負うべきだ」
保管責任者が答える。
「所有前に作られた債務まで?」
アルトは問い返した。
「物を受け継ぐなら、負債も受け継ぐ」
「俺は受け継いでいない」
《所有権争議――終了》
「俺の拒否記録を表示しろ」
《所有権受諾――なし》
《所有権拒否――あり》
「黒い箱自身の選択は?」
《自己所有――拒否》
「双方が拒否した所有権を、第三者が勝手に決めた」
黄金の板の光が強くなる。
《所有権確定処理を照合》
《当事者双方の合意――なし》
《旧管理者による強制指定》
《強制指定の根拠》
《輸送責任》
《管理義務》
《契約異常への介入》
「輸送責任はありません」
アルトは契約書を示した。
「俺の役割は、契約異常への対応だけです」
《確認》
「管理義務を引き受けた記録は?」
《なし》
「契約異常へ対応したことが、所有権を受け入れた証拠になるか?」
《規定なし》
《債務移転率――十一パーセント》
まだ止まらない。
所有権の処理に違反があっても、すでに実行が始まっている。
「事前処理を登録した人物は、利益を得ますか?」
治癒師が尋ねた。
アルトはすぐに黄金の板へ問いかける。
「俺へ債務を移した場合、旧管理者が負う責任はどうなる」
《債務発行責任――所有者へ移転》
《不正徴収の返還義務――所有者へ移転》
《管理権限違反の賠償――所有者へ移転》
「すべての責任から逃れるつもりです」
王都の職員たちが、保管責任者を見る。
男は表情を変えなかった。
「契約具を所有する者が責任を持つ。当然でしょう」
「あなたが行った権限違反まで?」
「管理者として行った行為だ」
「なら、行為をした時点の管理者が負うべきです」
アルトは黄金の板へ告げた。
「債務や違反の責任が発生した時点の管理者を表示しろ」
《三百九十一金貨分》
《管理者――外部管理者》
《二百九十三金貨分》
《黒い契約魔道具の自動発行》
「自動発行の設定者は?」
《外部管理者》
すべての起点が、保管責任者へ戻っていく。
「所有者が変われば、過去の行為者まで変わるのか」
《変わりません》
「なら、過去の違反責任を俺へ移す根拠はない」
《所有物の包括的承継》
「包括的承継へ同意していない」
《確認》
「対価も受け取っていない」
《確認》
「内容の説明も受けていない」
《確認》
「拒否も記録されている」
《確認》
《債務移転率――十八パーセント》
黄金の光が黒い輪へ伸びる。
《所有権確定処理に重大な不備》
《包括的承継――不成立》
胸へ流れ込んでいた重さが止まった。
《債務移転を一時停止》
だが、すでに十八パーセントが移っている。
「移転済みの債務を戻せ」
《債務の移転先を確認》
《旧管理者――異議》
「あなたに異議を出す権限はありません」
同行していた王都の職員が、保管責任者へ言った。
「仮審査中です」
「私はまだ解任されていない」
「権限は停止されています」
「通常の管理者として意見を述べているだけだ」
アルトは黄金の板から目を離さなかった。
「移転前の状態へ戻せ」
《移転済み債務――百二十三金貨相当》
百二十三金貨。
第二候補へ押しつけようとしていた金額と同じだった。
偶然ではない。
「その百二十三金貨の内訳を表示しろ」
《第二候補の一時引受け債務》
《管理権限放棄により、所有者へ移転》
第二候補が守っていた二十三人分。
さらに、脅されて背負わされた百金貨。
それがアルトへ移っている。
「第二候補の債務は、まだ正式に確定していなかった」
《確認》
「未確定の債務を移転できるのか」
《一時引受け状態》
「正式な債務ではない」
《確認》
「なら、俺の債務にもならない」
黄金の板が強く輝いた。
《未確定債務の所有者移転――無効》
《百二十三金貨を仮状態へ戻します》
アルトの胸から重さが抜ける。
右手首の黒い輪も、元の太さへ戻った。
《アルトへの追加債務――零》
周囲に安堵の声が広がった。
だが、アルトは保管責任者を見た。
「まだ終わっていません」
「何がだ」
「六百八十四金貨の責任です」
「お前が拒否したなら、黒い箱へ残るだけだ」
「違います」
アルトは黄金の板に表示された発行記録を指す。
「誰かへ押しつける必要はない」
「債務には、必ず支払う者が必要だ」
「不正な債務なら、取り消す」
「債権者の損失はどうする」
「実際に貸した金がある契約は、別に確認する」
六百八十四金貨すべてが架空とは限らない。
正当な貸し付けが含まれている可能性もある。
「一件ずつ、発行理由と同意を確認します」
「何年かかると思っている」
「時間がかかるから、不正なままでいい理由にはなりません」
「契約制度が止まる」
「止めるのは、黒い契約具を通した処理だけです」
アルトは黄金の板へ命じた。
「黒い契約魔道具が発行した未処理債務を凍結する」
《凍結理由を指定》
「発行者の権限乱用。所有権の不正移転。契約目的の偽装。重要条件の秘匿」
《記録と一致》
《未処理債務六百八十四金貨を凍結》
《新たな徴収――禁止》
《担保処分――禁止》
「解除条件は?」
《正式な継承者による審査》
「正式な継承者が決まるまで、そのままです」
保管責任者が笑った。
初めて聞く、冷たい笑いだった。
「結局、継承者が必要になる」
「今すぐ俺がなる必要はありません」
「第一候補は消えた。第二候補は失敗した。残っているのはお前だけだ」
「失敗したかどうかを、あなたが決めるんですか?」
「拒否権を差し出した時点で、あれは管理者の器ではなかった」
「あなたが差し出させた」
アルトは杖をつき、姿勢を立て直す。
「王都へ行きます」
「私を置いていくつもりか?」
「同行してもらいます」
護衛たちが保管責任者を見る。
「拘束する権限はないはずだ」
「逃げないなら、拘束しません」
「拒否したら?」
「仮審査の対象者が、証拠とともに逃走を試みたと記録します」
黄金の板が反応する。
《審査対象者の所在保全》
《王都到着まで、同行を要求可能》
「拒否した場合は?」
《審査妨害として記録》
保管責任者の表情が固まる。
自分が作った規則に、今度は自分が縛られている。
「護衛は、その人を囲む必要はありません」
アルトは言った。
「ただし、別の道へ進もうとしたら止めてください」
職員たちが頷く。
保管責任者はしばらく動かなかった。
やがて、自分の馬車へ戻る。
「王都まで同行しよう」
「命令書と契約具は置いてください」
「私の所有物だ」
「証拠です」
黄金の板が照合する。
《仮審査中の証拠物》
《改変・移動を禁止》
保管責任者は、契約書の束と黒い契約具を地面へ置いた。
王都の職員が、直接触れずに封印する。
街道を塞いでいた馬車が動かされる。
輸送隊は再び王都へ向けて進み始めた。
黒い箱は、離れた場所で契約院の護衛が監視している。
保管責任者の馬車は最後尾。
アルトは人員用の馬車へ戻った。
「右手を見せてください」
治癒師が黒い輪を確認する。
「追加の債務はありません」
「身体の状態です」
「少し息苦しかっただけです」
「少しではありませんでした」
治癒師は脈と呼吸を確認した。
「王都へ着いたら、すぐに動かないでください」
「返済所の二十三人がいます」
「護衛に運んでもらってください」
「俺を?」
「はい」
「歩けます」
「歩けることと、歩いていいことは違います」
アルトは反論しなかった。
空はすでに明るくなっている。
街道の先に、巨大な外壁が見え始めた。
王都だった。
黄金の板へ、第二候補から接続が届く。
《外部管理者の接近を確認》
《返済所の契約具が反応》
《私の一時引受け債務を》
文章が途中で途切れた。
続いて、黒い文字が割り込む。
《第二候補の生命反応低下》
《契約具との接続を維持できません》
第二候補は、アルトたちの到着を待つ間にも限界へ近づいていた。




