第50話 返していない十五金貨
《第二判定を開始》
アルトの右手首に残っていた黒い輪が、一気に広がった。
手首から肘へ。
肘から右肩へ。
鎖のような模様が、皮膚の上を這い上がってくる。
「アルトさん!」
治癒師が腕へ手を伸ばす。
「触らないでください!」
アルトが叫んだ。
治癒師の指が、黒い輪へ触れる寸前で止まる。
《判定対象への接触を確認》
《共同参加者として登録しますか》
《承諾》
《拒否》
治癒師の右手首にも、選択肢が浮かび上がった。
「拒否してください」
「ですが、あなた一人では――」
「触れただけで巻き込まれています!」
治癒師は迷わず《拒否》へ触れた。
《共同参加を拒否》
手首の文字が消える。
黒い輪は治癒師へ移らなかった。
「全員、俺から離れてください!」
護衛たちも距離を取る。
林の中から近づいていた黒い外套の者たちは、まだ追ってきていた。
数は五人。
関所跡からも、黒い光が伸びている。
輸送隊を止めているのは、黒い箱だけではない。
「護衛は外套の者を警戒してください!」
「アルトさんは?」
「第二判定を止めます!」
「始まったものを止められるのですか?」
「止められなくても、条件が間違っています!」
返済率十パーセント。
それが第二判定の開始条件だった。
だが、アルトが返済したのは十五金貨。
返済率は五パーセントのままだ。
不足分を免除したのは、黒い箱の旧管理者。
債権者でもない者が、勝手に借金を減らしたことにしている。
アルトは黄金の板へ左手をかざした。
「返済記録を表示しろ!」
《総返済額――十五金貨》
《実返済率――五パーセント》
《特別免除――十五金貨》
《仮返済率――十パーセント》
「特別免除を承諾していない!」
《管理者権限による免除》
「その管理者は、俺の借金の債権者か?」
黄金の文字が揺れる。
《債権者との一致――なし》
「返済所の許可は?」
《なし》
「俺の承諾は?」
《なし》
「なら、借金は減っていない」
《仮認定済み》
「何を根拠に認定した!」
《第二判定を開始するため》
目的が先にある。
そのために条件を変えている。
契約ですらなかった。
「黄金の板!」
アルトは声を上げた。
「この判定が、古代契約の規則に従っているか照合しろ!」
《第二判定の開始条件を照合》
《必要返済率――十パーセント》
《実返済率――五パーセント》
《条件不足》
《外部管理者による仮認定》
《仮認定の権限を照合》
右肩まで広がった黒い輪が、さらに胸へ伸びようとする。
アルトは歯を食いしばった。
剣術を徴収されたときとは違う。
今度は、身体ではなく契約そのものへ何かを入れられている。
《外部管理者の権限》
《契約具の管理》
《債務発行》
《担保徴収》
《判定条件の変更――不可》
黄金の光が強くなる。
《条件違反》
《第二判定の強制開始を拒否》
黒い輪の動きが止まった。
関所跡から伸びていた黒い光が、大きく揺れる。
《異議》
《契約継承者候補の保護を目的とした免除》
「保護?」
アルトは息を整える。
「何から守るつもりだ」
《長期債務》
《技能担保契約》
《返済不能の危険》
「だから、返していない十五金貨を返したことにするのか?」
《債務者に利益があります》
「利益があれば、同意はいらないのか」
ヴァリスへ契約書を渡した男も、同じ考えだったのかもしれない。
荷物持ちへ借金を背負わせても、パーティーは助かる。
誰か一人を犠牲にすれば、ほかの者に利益がある。
「俺は免除を受けない」
《非効率》
「俺が返した金だけを、返済として認めろ」
《債務者は苦痛を選択しています》
「選ぶ権利は俺にある」
黄金の板に新しい文字が現れた。
《特別免除への債務者の同意》
《なし》
《仮返済率を取り消します》
表示が変わる。
《返済率――五パーセント》
《第二判定条件――未達成》
黒い輪が、右肩から少しずつ引いていく。
胸へ届きかけていた模様が消える。
肘。
手首。
最後に、所有権移転によって残っていた輪だけが残った。
《第二判定を中断》
アルトは大きく息を吐いた。
「止まりましたか?」
治癒師が尋ねる。
「第二判定は中断しました」
「怪我は?」
「分かりません」
「腕を動かしてください」
アルトは右手の指を曲げる。
剣術を徴収されたときのような鈍さはない。
肩の傷は痛む。
だが、黒い輪による新しい痛みはなかった。
「話はあとです!」
護衛の声が飛ぶ。
黒い外套の者たちが、木々の間から姿を現していた。
五人。
全員、顔の上半分を黒い布で隠している。
剣や弓は持っていない。
代わりに、一人ずつ小さな黒い筒を持っていた。
「輸送を停止しろ!」
先頭の者が叫ぶ。
「第二判定は中断された!」
「条件を満たしている!」
「返済率は五パーセントだ!」
「十五金貨は免除された!」
「俺は受け取っていない!」
先頭の外套が、黒い筒をアルトへ向ける。
《債務者の判断能力低下を確認》
《代理承諾を実行》
アルトの右手首へ、再び文字が浮かぶ。
《特別免除を承諾しますか》
《承諾》
拒否の選択肢がなかった。
「代理承諾……」
本人が拒否したため、判断能力が低下していることにして、ほかの人間が代わりに承諾する。
「黄金の板へ近づけてください!」
契約管理の職員が板を持ち上げる。
アルトは左手をかざした。
「俺の判断能力を確認しろ!」
《意識――清明》
《会話能力――正常》
《契約内容の理解――正常》
《判断能力の低下――なし》
《代理承諾条件――未達成》
黒い文字が崩れる。
先頭の外套が、黒い筒を強く握った。
「なぜ従わない」
その声は、ヴァリスが聞いたという仲介者の声とは違った。
聞き取りやすくもない。
ただ、苛立っている普通の男の声だった。
「あなたたちは管理者ですか?」
アルトが尋ねる。
「答える必要はない」
「では、管理者の命令で来た?」
「輸送を止めろ」
「理由は?」
「黒い箱は、王都へ運ぶべきものではない」
「どこへ運ぶ?」
男は答えなかった。
「関所跡ですか?」
五人のうち、一人がわずかに動いた。
図星だった。
「関所に何がある」
「答える必要はないと言った!」
先頭の男が黒い筒を振る。
《輸送契約の違反を確認》
《経路変更》
《命令拒否》
《違約金――十五金貨》
今度は、輸送隊全員の手首へ文字が浮かびかけた。
「全員、契約具を見ないでください!」
アルトが叫ぶ。
「契約書に署名していない者からの命令に、違反は成立しない!」
黄金の板が反応する。
《命令者の権限を照合》
《輸送契約への関与――なし》
《違反判定――無効》
十人の手首から、文字が消えた。
護衛たちは剣を抜く。
「これ以上近づけば、拘束する!」
外套の者たちは武器を持っていない。
だが、黒い筒がある。
剣よりも危険な契約具だった。
「アルト」
先頭の男が、初めて名前だけを呼んだ。
「十五金貨を受け取れ」
「断る」
「借金が減る」
「返していない金で減らすつもりはない」
「自由になりたくないのか?」
「なりたい」
「なら、なぜ拒む」
「誰かに決められた自由は、別の契約だ」
男の手が止まった。
アルトは杖をつきながら、一歩だけ前へ出た。
「俺は自分で返す」
「三百金貨を?」
「そうだ」
「何年かかる」
「分からない」
「返し終わる前に死ぬかもしれない」
「それでも、俺が選ぶ」
先頭の男はしばらくアルトを見ていた。
やがて、黒い筒を下ろす。
「選ばれた理由が分からない」
「何の話だ?」
「なぜ、お前なのか」
男の背後。
古い関所跡の方向から、再び低い音が響いた。
五人の外套の手首へ、同時に黒い文字が浮かぶ。
《交渉失敗》
《契約具の回収を開始》
「待て!」
先頭の男が叫ぶ。
彼らが持っていた黒い筒から、黒い鎖が伸びた。
鎖は五人の腕へ巻きつく。
《貸与物を返還します》
《使用技能を徴収します》
「技能?」
男たちは管理者ではなかった。
契約具を借り、何らかの技能を与えられていただけだった。
「外せ!」
「腕から離れない!」
黒い鎖が強く締まる。
一人が膝をついた。
アルトは杖を握り直す。
「何をするつもりですか?」
治癒師が尋ねる。
「助けます」
「こちらを罠にかけた人たちです」
「それでも、死なせる理由にはならない」
アルトは黄金の板へ右手をかざした。
黒い箱の管理者は、役に立たなくなった者から契約具だけでなく、技能まで回収しようとしている。
ヴァリスたちへしたことと同じだった。
「徴収を止める」
黄金の板に、五人分の契約が表示される。
《貸与契約》
《命令失敗時》
《契約具の返還》
《付与技能の全徴収》
《不足分は生命力によって補填》
アルトの表情が変わった。
失うのは技能だけではない。
徴収量が足りなければ、命まで取られる。
「契約条件の説明は受けたか!」
アルトが叫ぶ。
先頭の男が苦しみながら首を振った。
「失敗すれば……筒を返すだけだと……」
黄金の板が強く輝く。
《重要条件の秘匿を確認》
《契約違反》
《徴収を一時停止》
黒い鎖の動きが止まった。
五人が地面へ倒れ込む。
だが、鎖は消えていない。
《契約発行元から異議》
《契約継承者候補アルトによる干渉を確認》
《第二判定の代替項目を開始》
アルトの目の前へ、新しい表示が現れた。
《五名の債務を引き受けますか》
《総額――十五金貨》
助けるなら、十五金貨を背負え。
黒い箱の管理者は、また同じ選択を押しつけてきた。




