第42話 受け入れた者
《第二代替対象――カスパー》
《旧担保――索敵・罠解除・隠密》
《対象は、すでに提案を受諾しています》
「すでに……?」
アルトは黄金の板を見つめた。
カスパーは街にいる。
黒い箱から離れているはずだった。
それでも、契約は届いた。
「いつ受諾した」
アルトの問いに、黄金の板が反応する。
《受諾時刻――直前》
《債務額――十五金貨》
《担保返還処理を開始》
アルトの視界が揺れた。
遠くの物音を拾っていた感覚が、急に薄くなる。
馬の呼吸。
護衛の装備が擦れる音。
風に揺れる草。
今まで無意識に捉えていたものが、次々と消えていった。
「索敵が戻っている」
ヴァリスが言った。
アルトは目を閉じた。
意識を周囲へ広げる。
だが、以前より範囲が狭い。
情報も曖昧だった。
《索敵Ⅱ――返還中》
《罠解除Ⅱ――返還待機》
《隠密Ⅰ――返還待機》
「三つとも取るつもりです」
アルトは黄金の板へ手をかざした。
《技能所有権を照合》
《旧所有者――カスパー》
《債務受諾――本人の意思》
《技能返還――有効》
二重徴収ではない。
カスパー自身が十五金貨の借金を受け入れた。
その対価として、返済によってアルトへ移った技能を取り戻そうとしている。
黄金の板は、それを違反とは判定しなかった。
「止められないのか?」
ヴァリスが尋ねる。
「カスパーが自分で選んだ契約です」
「条件を理解していないかもしれない」
「それでも、受諾は成立しています」
アルトは鐘を手に取った。
「街へ戻ります」
「輸送は?」
王都の職員が言う。
「ここで待機してください」
「黒い箱を街の近くへ置き続けるのですか?」
「箱は動かしません。俺と護衛一人だけ戻ります」
「その身体で馬に乗るつもりですか?」
治癒師がアルトの前へ立つ。
「時間がありません」
「だから私も行きます」
「三人なら馬車を使うことになります」
「あなた一人で落馬するよりましです」
アルトが反論する前に、ヴァリスが前へ出た。
「俺が行く」
「ヴァリスさんは依頼の参加者ではありません」
「カスパーを連れてくるだけだ」
「馬に乗れますか?」
「左手で手綱は握れる」
右手では、まだ剣を満足に持てない。
だが、馬を走らせるだけなら左手でもできる。
「俺が先に戻る」
ヴァリスは馬へ向かった。
「アルト。お前はここで、返還を遅らせる方法を探せ」
「一人で説得できますか?」
「説得できるかは分からん」
ヴァリスは振り返らなかった。
「だが、あいつが受け入れた理由なら分かる」
馬へ乗り、街へ向かって走り出す。
アルトは止めなかった。
今の自分が同行すれば、移動に時間がかかる。
黒い箱のそばを離れる危険もある。
「返還を遅らせます」
アルトは黄金の板へ問いかけた。
「技能返還を一時停止できるか」
《所有者間の合意が必要》
「俺が拒否しても?」
《現所有者の拒否を確認》
《返還速度を減速》
完全には止められない。
だが、アルトの意思も無視されるわけではなかった。
《索敵Ⅱ――返還率二十パーセント》
先ほどより進行が遅くなる。
「カスパーさんが拒否へ変更すれば、止まりますか?」
治癒師が尋ねる。
「おそらく」
「借金を受け入れたあとでも?」
「契約が完了する前なら、可能性はあります」
問題は、カスパーが拒否するかどうかだった。
◇
ヴァリスが訓練場へ戻ると、カスパーは壁際に立っていた。
固定具をつけた左足をかばいながら、目を閉じている。
「カスパー!」
呼びかけるより先に、カスパーが顔を上げた。
「ヴァリスか」
「聞こえたのか?」
「馬が門を通る前から分かった」
その言葉に、ヴァリスは足を止めた。
以前なら当然だった。
だが、技能を失ってからのカスパーには難しかった。
「索敵が戻り始めているのか」
「ああ」
カスパーは右手首を見せた。
《未返済債務――十五金貨》
《担保返還処理中》
「なぜ受け入れた」
「必要だからだ」
「条件を確認したのか?」
「十五金貨を返せば、技能が戻る」
「それだけとは限らない」
「表示された条件はそれだけだった」
「アルトが、条件を隠した契約を受けるなと言っていただろう」
「アルトは三つの技能を持っている」
カスパーの声は静かだった。
「俺には、何も残っていない」
「歩けるようになった」
「走れない」
「訓練を始めただろう」
「小石の音を当てるだけの訓練だ」
カスパーは壁へ手をついた。
「以前の俺なら、訓練場の外を歩く人間の人数まで分かった。罠を見れば、触れる前に仕組みを読めた。気配を消せば、魔物の横を通り抜けられた」
「また身につければいい」
「何年かかる?」
ヴァリスは答えられなかった。
「十五金貨なら返せる」
カスパーが続ける。
「アルトが受ける依頼の報酬は二十五金貨だ。俺だって技能が戻れば、高い依頼を受けられる」
「返済できる保証はない」
「何もできないままでは、もっと返せない」
カスパーの判断には筋が通っていた。
技能を取り戻す。
高い報酬を得る。
十五金貨を返済する。
それだけを見れば、無謀な契約ではない。
「アルトから技能を奪っている」
ヴァリスが言った。
「元々、俺の技能だ」
「返済によって移った」
「俺たちが押しつけた借金を、アルトが返したからな」
カスパーは唇を噛んだ。
「分かっている」
「なら、なぜだ」
「怖いからだ」
初めて、声が揺れた。
「このまま何もできない人間になるのが怖い」
カスパーは斥候だった。
前を歩き、危険を見つける。
仲間より早く敵へ気づく。
それが自分の役割だった。
「アルトは、残っている技能を確認すると言った」
カスパーは右手を握る。
「残っている。失われていない。何度もそう言った」
「事実だ」
「俺には慰めにしか聞こえなかった」
「だから借金を選んだのか」
「そうだ」
カスパーはヴァリスを見る。
「お前には分からないのか?」
ヴァリスの右手は、今も木剣を満足に握れない。
分からないはずがなかった。
「俺にも提案が来た」
「受けたのか?」
「拒否した」
「なぜだ」
「分からん」
ヴァリスは正直に答えた。
「受ければ剣術が戻った。今でも、受けたほうがよかったと思っている」
「なら、俺を止めるな」
「止めに来たんじゃない」
カスパーが眉を寄せる。
「では、何をしに来た」
「選び直せることを伝えに来た」
ヴァリスは右手首を見た。
黒い文字は消えている。
「俺は拒否した。お前は受けた。それぞれ自分で選んだ」
「なら――」
「だが、アルトから技能が失われ始めている」
カスパーの表情が固まった。
「返還されるなら当然だろう」
「索敵だけではない。罠解除と隠密もだ」
「それが条件だ」
「アルトは、怪我をしたまま黒い箱を王都まで運ぶ」
ヴァリスは一歩近づいた。
「技能を失えば、輸送中の危険を見つけられなくなる」
「護衛がいる」
「黒い箱の契約異常へ対応できるのは、アルトだけだ」
「それでも、俺の技能だ」
「ああ」
ヴァリスは否定しなかった。
「だから、アルトもお前の選択を止めなかった」
「止めていない?」
「黄金の板が、所有者間の合意を求めている。アルトが強く拒否すれば、もっと抵抗できたかもしれない」
「なぜ拒否しない」
「元々、お前の技能だからだ」
カスパーは右手首を見た。
《索敵返還率――四十パーセント》
戻ってくる感覚は心地よかった。
目を閉じれば、訓練場の外にいる人間の足音が分かる。
風の向きも、遠くの扉が開いた音も聞こえる。
失って初めて、その力がどれほど自分の一部だったのか理解した。
「拒否すれば、また何もできなくなる」
「そうだ」
「借金も残らないのか?」
「それは分からん」
「分からないことばかりだな」
「だから、アルトは契約を確認してから選べと言っていた」
カスパーは苦しそうに笑った。
「今さらだ」
「まだ返還は終わっていない」
右手首の文字が動く。
《返還継続》
《契約変更を受け付けます》
《承諾を維持》
《返還を中止》
二つの選択肢が現れた。
カスパーの指が震える。
「ヴァリス」
「何だ」
「お前は、剣術が戻らなくても剣士なのか?」
ヴァリスはすぐには答えなかった。
右手では剣を持てない。
力も、技術も失った。
それでも毎日、木剣を拾っている。
「分からん」
ヴァリスは言った。
「だから、確かめるために訓練している」
カスパーは目を閉じた。
遠くの音が聞こえる。
失いたくない。
もう一度、この力を手放したくない。
だが、その感覚の向こうで、アルトが何度も木片を振る音を思い出した。
残っている。
もう一度。
聞き逃さなくなるまで。
カスパーの指が動いた。
《返還を中止》
文字へ触れる。
《技能返還を中止します》
《索敵――返還済み部分を確定》
《罠解除・隠密――返還中止》
《債務額を再計算》
カスパーの手首から、黒い光が弱くなる。
だが、すべては消えなかった。
《返還済み技能の対価》
《未返済債務――三金貨》
「三金貨……」
索敵の一部は、すでに戻ってしまった。
その対価として、借金も残った。
「後悔しているか?」
ヴァリスが尋ねる。
「している」
カスパーは答えた。
「受けたことも、中止したことも、両方だ」
「そうか」
「だが、三金貨なら自分で返す」
カスパーは固定具をつけた左足を動かす。
「アルトへ返させるつもりはない」
◇
街道で待っていたアルトの右手首から、文字が消えた。
周囲の音が少しだけ戻ってくる。
完全ではない。
索敵Ⅱの一部が失われている。
罠解除Ⅱと隠密Ⅰは残っていた。
黄金の板へ結果が表示される。
《技能返還――中止》
《索敵の一部を旧所有者へ返還》
《新規債務――三金貨》
《債務者――カスパー》
アルトは目を閉じた。
「止まったんですか?」
治癒師が尋ねる。
「はい」
「技能は?」
「索敵が少し弱くなりました」
「取り戻せますか?」
「分かりません」
アルトは黄金の板へ手をかざした。
《返還済み技能の再移転には、債務返済が必要》
「カスパーが三金貨を返せば、どうなる」
《返済者の選択により決定》
カスパーが返済したとき、索敵を自分へ定着させるか。
アルトへ戻すか。
その選択が与えられるらしい。
「出発しますか?」
王都の職員が尋ねる。
アルトは街の門を見る。
ヴァリスは、まだ戻っていない。
「あと少し待ちます」
黒い箱を載せた荷台から、硬い音がした。
黄金の板に新しい表示が現れる。
《代替対象からの回収――一部成功》
《不足分――十二金貨》
《第三代替対象を検索》
アルトの表情が変わった。
《第三代替対象――セナ》
《旧担保――火魔法・魔力制御・身体強化》
そして、その下に文字が続く。
《対象への提案を開始》




