第40話 共同債務の解除
《共同輸送契約を確認》
《契約参加者――十名》
《共同債務を発行》
《総額――十五金貨》
アルトは鐘を三回鳴らした。
甲高い音が、まだ薄暗い街道へ響く。
「全員、停止してください!」
馬車が止まる。
黒い箱を載せた荷台も、ギルドの門を出たところで動きを止めた。
「黒い箱から離れろ!」
護衛たちは馬車を降り、決められた距離まで下がった。
御者も手綱を固定し、荷台から離れる。
治癒師が、全員の手首を順番に確認した。
「表示は同じです」
一人当たりの金額は書かれていない。
十人で十五金貨。
誰がいくら返すのかも、返せなかった場合に何を取られるのかも分からなかった。
「こんな契約には同意していないぞ!」
護衛の一人が声を上げる。
「署名もしていません」
治癒師も言った。
「輸送依頼には署名しました」
アルトは答えた。
「黒い箱は、それを利用しています」
「輸送依頼と借金に何の関係があるんだ?」
「分かりません。今から確認します」
アルトは右手首を見る。
《共同債務――十五金貨》
その下へ、新しい文字が浮かんだ。
《返済義務――契約参加者全員》
《不足時――共同担保から徴収》
「共同担保?」
王都の職員が契約書を取り出す。
「輸送契約には、担保など記載していません」
「全員が共同で輸送を行う、と書いてありますか?」
「はい」
「損害が発生した場合、参加者全員で対応するとも?」
職員が契約書を読み返す。
その表情が変わった。
「あります」
「どのような文章ですか?」
「輸送中に予期せぬ損害が発生した場合、参加者は共同で解決にあたる……」
「黒い箱は、それを共同債務として扱った」
予期せぬ損害。
共同で解決する。
本来は、事故や魔物の襲撃が起きたときに、互いに協力するための文章だった。
だが、金額も責任の範囲も書かれていない。
黒い箱は、その曖昧さへ十五金貨の借金を押し込んだ。
「契約を破棄してください」
アルトが言った。
「今ですか?」
「このまま動けば、共同債務を受け入れたと判断されるかもしれません」
「依頼を中止するのですか?」
「契約を作り直します」
王都の職員が眉を寄せる。
「再契約には、全員の署名が必要です」
「だから、今止まりました」
アルトは同行者たちを見回した。
「現在の輸送契約を破棄します。この契約では黒い箱を運べません」
「破棄すれば、報酬はどうなる?」
護衛の一人が尋ねた。
「新しい契約へ同じ報酬条件を記載します」
「借金は消えるのか?」
「確認しなければ分かりません」
アルトは正直に答えた。
「ですが、このまま進むよりは可能性があります」
契約管理の職員が、ギルドの中へ戻ろうとする。
「書類を取ってきます」
「黒い箱の近くで新しい内容を話さないでください」
「分かっています」
職員が走り去った。
アルトは同行者たちへ指示を出す。
「黒い文字に触れないでください。承諾や拒否の表示が出ても、何も選ばないでください」
「金を払えば消える可能性は?」
「払わないでください」
「一金貨と少しなら、払えない額ではない」
「一度払えば、次も発行されます」
存在しない借金でも、誰かが返済すれば契約として成立したと扱われるかもしれない。
「俺たちは、もう債務者なのか?」
「まだ分かりません」
アルトは黄金の板を運んでくるよう頼んだ。
黒い箱から距離を取り、地面へ置く。
十人全員が黄金の板の周囲へ集まることはしなかった。
アルトだけが近づき、右手をかざす。
《契約継承者候補を確認》
《外部契約を照合》
《共同輸送契約――有効》
《共同債務――未確定》
「未確定です」
アルトが言うと、周囲から安堵の息が漏れた。
「まだ借金として成立していません」
「どうすれば確定する?」
王都の職員が尋ねる。
黄金の板へ、続きが表示された。
《債務の受諾》
《返済行為》
《担保提供》
《債務発行後の契約履行》
「このまま輸送を続ければ、受け入れたことになる可能性があります」
「止まって正解だったんですね」
治癒師が言った。
「はい」
アルトは自分の右足へ視線を落とした。
鐘を鳴らすために急いで動いたせいで、痛みが強くなっている。
だが、止めるのがあと少し遅ければ、十人全員が本当に債務者になっていた。
「現在の契約を正式に破棄します」
王都の職員が宣言した。
契約書の破棄欄へ、職員が署名する。
続いて、アルト。
護衛。
御者。
治癒師。
全員が順番に署名した。
最後の一人が書き終えた瞬間、手首の文字が揺らいだ。
《共同輸送契約――終了》
《債務確定条件――未達成》
《共同債務を破棄》
黒い文字が、十人の手首から消えていく。
「消えた……」
護衛の一人が手首をこする。
「まだ触らないでください」
治癒師が止めた。
「痕が残っていないか確認します」
一人ずつ調べたが、火傷や傷はなかった。
胸の圧迫感を訴える者もいない。
共同債務は、完全に消えたようだった。
「新しい契約は、どう変えるんですか?」
契約管理の職員が白紙の契約書を机代わりの板へ置く。
「全員を一つの契約へ入れません」
「個別に契約する?」
「はい」
護衛は護衛。
御者は御者。
治癒師は治療と中止判断。
契約院の職員は魔道具の管理。
アルトは契約異常への対応。
役割ごとに契約を分ける。
「互いの責任を負わせないでください」
「協力義務も書けないのですか?」
「協力はします。ただし、金銭や担保の責任を共有しないと明記します」
新しい契約書が作られていく。
事故や損害が発生しても、同行者個人へ債務は発生しない。
参加者同士の責任は連帯しない。
別の参加者の報酬、財産、技能を担保にできない。
魔道具が発行した債務は、本人が明確に署名しない限り無効とする。
「黒い箱が、この文章を認めるでしょうか」
王都の職員が言った。
「認めさせるための契約ではありません」
アルトは答えた。
「俺たちが、何を受け入れないか決めるためです」
契約書が完成する。
全員が、自分の役割について書かれた書類だけへ署名した。
黄金の板が一枚ずつ照合する。
《護衛契約――債務共有なし》
《御者契約――債務共有なし》
《治療契約――債務共有なし》
《契約管理契約――債務共有なし》
《契約異常対応契約――債務共有なし》
すべての確認が終わっても、黒い箱から新しい表示は出なかった。
「出発しますか?」
御者が尋ねる。
アルトはすぐには答えなかった。
出発した瞬間に、また別の方法で契約を作られる可能性がある。
「一台ずつ門を出ます」
「一緒に動かないのですか?」
「最初の百歩だけです」
先に護衛が進む。
次に人員を乗せた馬車。
最後に、黒い箱を載せた荷台。
同時に門を越えなければ、全員を一つの輸送契約として扱いにくくなる。
「荷台が門を出るまでは、誰も進行を再開しないでください」
全員が配置へ戻った。
先頭の護衛が門を越える。
手首に変化はない。
人を乗せた馬車が続く。
何も起きない。
最後に、黒い箱を載せた荷台がゆっくりと動き始めた。
門を越える。
アルトは自分の右手首を見た。
文字は現れなかった。
「成功ですか?」
治癒師が尋ねる。
「まだ分かりません」
黒い箱を載せた荷台が、百歩進む。
何も起きない。
アルトは鐘を一度鳴らした。
予定どおり、全員がゆっくりと進み始める。
王都へ向かう輸送が、ようやく始まった。
だが、街を離れる直前。
黄金の板を持つ職員が声を上げた。
「アルトさん。板に表示が出ています」
「何と書かれていますか?」
職員は、浮かび上がった文字を読み上げた。
《共同債務の発行失敗》
《代替対象を検索》
《債務者アルトとの関係者を確認中》
アルトは、黒い箱を載せた荷台を見た。
自分から取れない。
同行者からも取れない。
それなら、次は誰を狙うのか。
アルトの頭に浮かんだのは、街に残してきた二人だった。
ヴァリスとカスパー。
黒い箱は、元の担保所有者を探し始めていた。




