第38話 借金を作る者
《我々の契約を邪魔するな》
右手首に浮かんだ文字を、アルトは黙って見つめた。
痛みはない。
だが、文字が皮膚の上にあるのではなく、身体の内側へ刻まれているような不快感があった。
「誰が送っているんですか?」
治癒師が尋ねる。
「分かりません」
「返事はできますか?」
「試してみます」
アルトは黄金の板へ右手をかざした。
「お前たちは誰だ」
黒い文字が一度消える。
しばらく反応はなかった。
やがて、新しい文字が浮かび上がる。
《契約を管理する者》
「名前ではないですね」
「名乗るつもりがないんでしょう」
アルトは続けた。
「存在しない借金を作ったのも、お前たちか」
《債務は必要な場所に発生する》
「質問に答えていない」
《返済できる者が返済する》
アルトの眉が動いた。
「借りていない人間にも?」
《契約は秩序を作る》
「それは契約ではない」
アルトは迷わず言った。
「相手の同意もなく、勝手に借金を作っているだけだ」
保管施設の中で、黒い箱が強く震えた。
職員たちが身構える。
《債務者に拒否権はない》
その言葉を見た瞬間、アルトの胸の奥に冷たいものが広がった。
ヴァリスたちから三百金貨の借金を押しつけられたときも、アルトに拒否権はなかった。
知らないところで契約が作られた。
知らない借金を背負わされた。
返さなければ罪に問われると告げられた。
黒い箱を管理する者たちも、同じことをしている。
「違う」
アルトは静かに言った。
「拒否できないものは、契約ではない」
《債務者アルト》
《残債――二百八十五金貨》
《返済率――五パーセント》
見慣れた数字が手首へ並ぶ。
《我々は不足分十五金貨を提供できる》
周囲にいた職員たちが、ざわめいた。
「十五金貨を?」
契約管理の職員が呟く。
「受け取れば、返済率十パーセントに到達します」
アルトは文字を見たまま答えた。
「代わりに何を求めるのか確認します」
《不足分を受け取りますか》
《承諾》
《拒否》
右手首に、二つの選択肢が現れた。
「触らないでください」
治癒師がアルトの腕を押さえる。
「触りません」
「返済に使える金貨かもしれません」
王都の職員の一人が言った。
「第二判定を受けるために必要なのでしょう?」
「そうです」
「なら、受け取ってから条件を確認する方法もあります」
アルトは王都の職員を見る。
「条件を確認せずに、金を受け取るんですか?」
「危険なのは承知しています。しかし、相手と接触するためには――」
「俺は、条件を隠した契約で三百金貨を背負いました」
職員が口を閉じる。
「同じことを、もう一度するつもりはありません」
アルトは黄金の板へ問いかけた。
「十五金貨を受け取る条件は?」
黒い文字が揺れる。
すぐには答えが出ない。
「条件を聞かれたくないらしいですね」
治癒師が言った。
やがて、手首へ小さな文字が現れた。
《管理権限の共有》
「管理権限?」
「誰と何を共有するのか聞きます」
アルトはもう一度問いかける。
「共有される権限の内容を表示しろ」
《契約継承者候補の権限》
《債務の発行》
《担保の指定》
《強制徴収》
契約管理の職員が息を呑んだ。
「債務を発行する権限……」
「借金を作る側になれる、ということですか?」
治癒師の声が低くなる。
文字はさらに続いた。
《管理権限を受け入れた場合》
《現在の債務を優先的に処理》
「優先的に処理とは?」
アルトが尋ねる。
《他の債務者へ移転可能》
その場から、音が消えた。
アルトが背負っている二百八十五金貨を、別の人間へ移せる。
誰かを選び、自分の借金を押しつける。
そうすれば、アルトはすぐに自由になれるかもしれない。
「受けるつもりですか?」
王都の職員が慎重に尋ねた。
「受けません」
アルトは即答した。
「ですが、三百金貨もの借金から解放される可能性があります」
「その代わり、誰かが俺と同じ目に遭う」
「対象を罪人などに限定すれば――」
「誰に押しつけても同じです」
借りていない者へ借金を背負わせる。
返済できなければ技能や財産を奪う。
それを正当化する理由を探し始めれば、黒い箱の管理者と変わらなくなる。
「俺は、借金を返して自由になる」
アルトは手首に浮かんだ《拒否》へ左手を近づけた。
「待ってください」
契約管理の職員が止める。
「拒否した場合、何が起きるか分かりません」
「承諾した場合も分かりません」
「黄金の板に判定させてからでも」
「選択肢を残しておけば、また心を動かされます」
十五金貨。
返済率十パーセント。
第二判定。
今のアルトにとって、すべてが必要なものだった。
だからこそ、目の前に置き続けてはいけない。
黒い箱は、アルトが何を求めているのか知っている。
その欲しいものを使い、契約を結ばせようとしている。
アルトは《拒否》へ触れた。
《提案を拒否しました》
右手首から、二つの選択肢が消える。
保管施設の中で、黒い箱が激しく跳ねた。
床へ叩きつけられる音が響く。
《理解不能》
《債務者は返済を望む》
「望んでいる」
アルトは答えた。
「だから、自分で返す」
《非効率》
「そうかもしれない」
《不要な苦痛》
「それでもだ」
《他者へ移転すれば、債務者アルトは解放される》
「俺を借金から解放するために、別の人間を縛るつもりはない」
文字の動きが止まった。
黒い箱の震えも、少しずつ弱くなる。
アルトは黄金の板へ視線を落とした。
黄金の表面に、新しい表示が浮かび上がる。
《契約継承者候補の選択を記録》
《債務移転――拒否》
《強制徴収権限――拒否》
《第二判定時の評価項目に追加》
「第二判定の評価に影響するようです」
契約管理の職員が言った。
「良い影響なのか、悪い影響なのかは分かりません」
「それで構いません」
評価されるために拒否したわけではない。
アルトは右手を下ろした。
その直後。
保管施設の窓に、黒い文字が広がった。
《債務者アルトの協力意思なし》
《輸送計画を確認》
アルトの表情が変わる。
「輸送計画を知られています」
「なぜですか?」
「箱の近くで、何度も話しました」
接近距離。
経路。
人員。
停止の合図。
箱に聞かれている可能性を考えるべきだった。
《出発予定――二日後》
《目的地――王都契約院》
《封印処分を確認》
「王都へ運ばれる理由まで理解しています」
職員たちの顔に焦りが浮かぶ。
黒い箱は、王都で封印されることを知った。
そして、管理者へ接続できる。
「計画を変更します」
アルトが言った。
「変更?」
「ここで話した内容は、すべて知られたと思ってください」
「別の道を使いますか?」
「今決めても、また聞かれます」
「では、どうするんです?」
「出発するまで、箱の近くで輸送の話をしない」
アルトは黄金の板を布で包むよう職員へ頼んだ。
「経路は、箱から十分に離れた場所で決めます。同行者にも出発直前まで教えません」
「護衛の準備ができません」
「装備と食料だけ準備してもらう。行き先は王都だと分かっている。それ以上は必要ありません」
「出発日も変えますか?」
アルトは保管施設を見る。
黒い文字が、再び変わろうとしていた。
《輸送阻止を開始》
「変えます」
「早めるのですか?」
「はい」
置いておけば、箱はさらに準備を進める。
影響範囲も広がる。
「明日の夜明けに出発します」
「一日もありません!」
「箱も、二日後だと思っています」
「身体は?」
治癒師が鋭い目で尋ねる。
「治っていないのは分かっています」
「身体強化は禁止です」
「使いません」
「剣も?」
「必要になるまで抜きません」
「必要になっても、私が許可しなければ抜かないでください」
アルトは少し迷った。
「命に関わる場合は?」
「その場合だけです」
「分かりました」
治癒師は完全には納得していないようだった。
それでも、今ここに箱を置き続ける危険は理解している。
「職員へ連絡してください」
アルトは契約管理の職員へ告げた。
「護衛四人。御者二人。契約院二人。治癒師一人。俺を含めて十人」
「今から全員を集めます」
「借金の有無も確認してください」
「はい」
「出発時刻は、箱の近くで口にしないように」
職員たちが動き始める。
アルトも杖をついて歩き出した。
右肩も、右足も痛む。
剣術を徴収されかけた右手には、まだ鈍さが残っていた。
万全にはほど遠い。
それでも、黒い箱に準備する時間を与えるわけにはいかない。
保管施設から離れようとしたとき、壁に最後の文字が浮かび上がった。
《債務者アルト》
《出発前に、不足分十五金貨を回収する》
アルトは足を止めなかった。
出発まで、半日。
黒い箱が何を徴収しようとしているのか。
それを確かめる時間は、もう残されていなかった。




