第36話 債務者を呼ぶ箱
「債務者アルトを確認――と」
職員の言葉を聞いた瞬間、アルトの胸の奥が強く脈打った。
黒い箱は、保管施設の中にある。
アルトは直接触れていない。
最後に近づいたときも、契約印は現れなかった。
それなのに、箱はアルトの存在を認識している。
「ほかに文字は?」
「まだ増えています」
「誰かが触れましたか?」
「誰も触れていません!」
職員は首を振った。
「封印札の内側で、勝手に浮かび上がったんです」
アルトは杖を取った。
治癒師がすぐに腕をつかむ。
「どこへ行くつもりですか?」
「確認します」
「近づくだけで影響を受けたばかりでしょう」
「だからこそです」
「今度は何をさせられるか分かりません」
「近づかなければ、箱が何を求めているか分からない」
「一人では行かせません」
治癒師は自分の鞄を持ち上げた。
「私も同行します」
「治癒師が影響を受けたら困ります」
「あなたが倒れたとき、治す人がいないほうが困ります」
言い返す言葉がなかった。
「距離を取ってください」
「あなたもです」
二人は職員とともに、保管施設へ向かった。
◇
施設の周囲には、先ほどより多くの職員が集まっていた。
張られていた縄は、さらに外側へ移されている。
「ここから先へは入らないでください!」
入口を守る職員が叫ぶ。
「文字は見えますか?」
アルトが尋ねると、職員は窓を指した。
「内側の壁に映っています」
窓には白い封印札が貼られていた。
その隙間から、黒い光が漏れている。
アルトは、縄の手前で立ち止まった。
胸の圧力はある。
だが、昼間ほど強くない。
「読める範囲でいい。内容を教えてください」
中を監視していた職員が、手元の紙を見る。
「債務者アルトを確認」
「続きは?」
「古代契約の継承権を確認」
アルトの指が、杖を強く握った。
「返済率五パーセント」
「さらに続いています」
職員は息を呑んだ。
「不足分――十五金貨」
返済率十パーセントまでの不足額。
黒い箱は、アルトの借金だけではなく、返済状況まで把握している。
「最後は?」
「不足分を回収後、第二判定を開始」
周囲が静まり返った。
「回収というのは、アルトさんから十五金貨を取るという意味ですか?」
治癒師が尋ねた。
「分かりません」
アルトは答えた。
「金貨だけとは限りません」
遺跡の黒い鎖は、技能を奪おうとした。
借金契約が担保にしていたのも、元仲間たちの技能だった。
この箱が同じ仕組みを持っているなら、回収の対象は金ではない可能性がある。
「保管施設の中に金はありますか?」
「管理用の金庫があります」
「いくら入っていますか?」
「緊急経費として、三金貨ほどです」
「すぐに外へ出してください」
「箱へ近づく必要があります」
「建物へ入らずに取り出せませんか?」
「裏口からなら、箱との距離を保てます」
「急いでください」
二人の職員が裏手へ走った。
しばらくして、小さな金庫を抱えて戻ってくる。
「中身を確認してください」
金庫が開けられた。
金貨三枚。
銀貨と銅貨も残っている。
「減っていません」
「なら、今のところ金を直接奪ってはいない」
アルトは帳面を取り出した。
黒い箱がアルトを認識した時刻。
表示された文言。
施設内の金額。
胸に感じる圧力。
すべて書き留める。
「こんなときまで記録するんですか?」
職員が尋ねた。
「変化を比べるためです」
「何が分かるんです?」
「今は分からなくても、次に同じことが起きたとき役に立ちます」
そのとき、保管施設の内側から音がした。
硬い物が、床を引っかくような音。
職員たちが身構える。
「中に誰かいますか?」
「いません」
「魔道具が動いている?」
黒い光が強くなった。
壁に映っていた文字が消える。
代わりに、新しい文字が浮かび上がった。
「何と書いてある?」
アルトが尋ねる。
監視役の職員が声を震わせた。
「回収対象を検索」
「回収対象?」
「周辺の債務を確認」
保管施設の周囲にいた職員たちが、自分の腕や胸を見る。
一人の男が、突然うめき声を上げた。
「何だ、これは……」
男の右手首に、黒い文字が浮かび上がっていた。
《未返済債務――銀貨十二枚》
「俺は借りていない!」
「縄の外へ下がってください!」
アルトが叫んだ。
男は後ろへ下がろうとした。
だが、足が止まる。
「銀貨を払わないと」
「払うな!」
「でも、返さないと増える!」
「それはあなたの借金ではありません!」
「表示されているだろう!」
男は懐へ手を入れた。
アルトは杖をつきながら近づく。
縄は越えない。
「金を出さないでください」
「払えば消えるかもしれない!」
「払えば、箱は回収できると学ぶかもしれない」
男の手が止まった。
「自分で借りた記憶がありますか?」
「ない」
「契約書へ署名しましたか?」
「していない」
「なら、それは借金ではありません」
「でも……」
「表示されただけです」
アルトは男の手首を見る。
残額は銀貨十二枚。
先ほどと変化はない。
「治癒師、状態を見てください」
治癒師が男へ近づく。
「呼吸が速くなっています。こちらを見てください」
「払わないと」
「今は呼吸を整えます」
「借金が――」
「吸って。ゆっくり吐いてください」
治癒師が男の肩へ手を置いた。
何度か呼吸を繰り返すうちに、男の震えが弱くなる。
手首の文字も、少し薄くなった。
「消えかけています」
「箱から離れたからだ」
アルトは地面へ新しい印をつけた。
「ここより内側へ入った人間に、債務表示が出る可能性があります」
「アルトさんには?」
アルトは自分の手首を見る。
何もない。
胸の奥には圧力が残っている。
だが、新しい債務は表示されていない。
「俺には出ていません」
「なぜでしょう?」
「すでに本物の借金契約があるからかもしれません」
新しい契約を作る必要がない。
黒い箱は、既存の契約へ接続しようとしている。
そう考えれば、アルトだけが名指しされた理由も説明できる。
「全員、さらに下がってください」
職員たちが縄を移動させる。
保管施設から二十歩。
それでもアルトの胸の圧力は消えなかった。
「まだ感じますか?」
治癒師が尋ねる。
「はい」
「もっと離れますか?」
「俺だけが感じているなら、距離だけが原因ではありません」
アルトは黒い箱がある建物を見つめた。
箱はアルトを認識した。
返済額も、返済率も知っている。
さらに十五金貨を回収し、第二判定を始めようとしている。
「輸送を中止しますか?」
契約管理の職員が尋ねた。
「まだ輸送は始まっていません」
「では、依頼そのものを断りますか?」
アルトはすぐには答えなかった。
今の状態で運べば、道中の人間にも存在しない債務が表示される。
村や町の近くを通るだけで、被害が出るかもしれない。
だが、ここに置き続けても影響範囲は広がっている。
運んでも危険。
置いても危険。
「王都までの道を確認したい」
「道?」
「人の少ない経路はありますか?」
「通常の街道を外れれば、遠回りになります」
「何日増えますか?」
「二日ほどです」
「食料と水は?」
「追加で必要になります」
「馬車が通れない場所は?」
「一か所、道幅の狭い林があります」
「そこを避けた経路も調べてください」
職員が地図を取り出した。
アルトは杖を地面へ置き、腰を下ろす。
「身体を休めてください」
治癒師が言った。
「休みながら考えます」
「それなら許します」
地図の上には、王都まで続く街道が引かれている。
途中には、小さな村が二つ。
宿場が一つ。
通常なら、そこへ立ち寄る。
だが、黒い箱を近づけることはできない。
「村をすべて避けると、野営が続きます」
職員が言った。
「護衛四人と契約院二人。治癒師一人。俺を含めて八人」
「御者を入れれば九人です」
「馬の世話をする人間は?」
「御者が行います」
「交代要員はいない?」
「いません」
「増やしてください」
「さらに報酬が分かれますよ」
「必要な人員を減らしてまで、取り分を増やすつもりはありません」
アルトは地図へ印をつけた。
「村から最低でも一時間分は離れた場所を通る」
「魔道具の影響範囲は、まだ二十歩程度です」
「明日も同じとは限りません」
今日だけで、五歩から十歩。
そして二十歩近くまで広がった。
出発時には、さらに広がっている可能性がある。
「馬車にも封印を追加してください」
「すでに準備しています」
「箱を載せる荷台と、人が乗る馬車を縄でつながないでください」
「はぐれる危険があります」
「異常が起きたとき、箱に引かれて近づく危険のほうが大きい」
「では、合図は鐘で?」
「はい。先頭と最後尾の両方に持たせます」
アルトは一つずつ準備を書き出した。
金の分散。
薬の記録。
接近禁止距離。
停止の鐘。
人里を避ける経路。
御者の交代。
夜間の監視。
そして、同行者全員の借金の有無。
「借金まで確認するんですか?」
「本物の借金がある人間は、俺と同じように狙われるかもしれません」
「護衛の個人情報になります」
「金額を全員へ公開する必要はありません。契約院だけが確認すればいい」
「借金があれば外しますか?」
「額と契約内容によります」
少額の生活費を借りているだけなら、すぐに外す必要はない。
だが、大きな借金や技能を担保にした契約があるなら危険だった。
「分かりました。出発前に確認します」
職員が立ち上がる。
その直後。
保管施設の中から、再び硬い音が響いた。
今度は一度ではない。
何度も、箱の内側から何かが叩いている。
黒い光が窓全体を覆った。
監視役の職員が、壁に現れた文字を読む。
「返済意思を確認」
アルトは立ち上がろうとした。
右足に痛みが走り、治癒師が支える。
「続きは?」
「返済資金を検索」
アルトの腰に下げていた金袋が、突然震えた。
袋の中で、硬貨が勝手に動いている。
アルトは金袋を外し、地面へ置いた。
袋が保管施設の方向へ引きずられる。
「押さえないでください!」
アルトが叫ぶ。
誰も近づかなかった。
金袋は地面を進み、縄の手前で止まった。
中に入っているのは、出発準備に使わず残していた銀貨と銅貨だけだった。
金貨は入っていない。
しばらく震えたあと、袋は動かなくなる。
壁の文字が変わった。
「資金不足」
監視役の職員が読み上げる。
「不足分の担保を検索」
アルトの右手首が熱を持った。
黒い文字が、皮膚の下から浮かび上がる。
《担保技能を確認》
「アルトさん!」
治癒師が腕をつかむ。
その瞬間、アルトの視界から色が消えた。
頭の中へ、複数の感覚が流れ込んでくる。
剣を握る感覚。
遠くの音を探る感覚。
魔力を炎へ変える感覚。
元仲間から移ってきた技能。
黒い箱は、金ではなく、それらを回収しようとしていた。
《不足分十五金貨》
《担保技能の一部を徴収します》




