第32話 違反者を救う者
黒い鎖が一斉に持ち上がり、アルトたちへ向かって伸びてきた。
「下がってください!」
アルトは治癒師の女性を背後へ押し、自分が前へ出た。
剣では斬れない。
火でも燃やせない。
第一区画で、それは確認している。
避けるしかない。
黒い鎖が右から迫る。
アルトは身体強化Ⅱを使い、半歩だけ横へずれた。
鎖が肩のすぐ横を通り過ぎる。
続けて、床を這っていた二本目が足首を狙う。
剣先を地面へ突き立て、それを支えに身体を浮かせた。
鎖は足元を通過し、背後の岩壁へ激突する。
石が黒く染まり、崩れ落ちた。
「触れたら危険です!」
「分かりました!」
女性は壁際へ身を寄せた。
アルトの前に、青白い文字が浮かぶ。
《契約継承者候補を確認》
《契約違反者への徴収を継続》
《救済行動は推奨されません》
「推奨されなくても、助ける」
《契約違反者は正規経路を経ず侵入しました》
《担保技能の強制徴収対象です》
奥から、ヴァリスの叫び声が響いた。
「やめろ!」
黒い鎖は、アルトを狙っているわけではない。
進路を塞ごうとしている。
契約違反者へ近づかせないためだ。
「アルト!」
カスパーの声がする。
「来るな! こいつはもう無理だ!」
「お前は動けるのか!」
「足を挟まれた!」
アルトは火の明かりを強めた。
魔力消費が増える。
だが、暗いままでは進めない。
通路の少し先。
折れた支柱と崩れた岩の間に、カスパーが倒れている。
左足が木材の下敷きになっていた。
さらに奥では、ヴァリスが壁へ押しつけられている。
両腕と胴へ、何本もの黒い鎖が巻きついていた。
足元には剣が落ちている。
剣を拾おうとしても、指がまともに動いていない。
《剣術技能片――徴収》
「返せ!」
《体術技能片――徴収》
「それは俺のものだ!」
《筋力強化技能片――徴収》
ヴァリスの身体から光が抜けていく。
一つ。
また一つ。
抵抗する力が弱まっていた。
「ヴァリス! 手に持っているものを捨てろ!」
アルトが叫ぶ。
ヴァリスの左手には、小さな金属片が握られていた。
金色の板と似た色をしている。
壁から剥がしたのだろう。
「これは俺が見つけた!」
「前と同じだ! 持っているから徴収されている!」
「これは技能を戻す鍵だ!」
「誰がそう言った!」
「板と同じ色をしている!」
それだけだった。
確証はない。
技能を失う恐怖に追い詰められ、都合のいい答えへ飛びついた。
「捨てろ!」
「嫌だ!」
ヴァリスは金属片を胸へ抱き込んだ。
その瞬間、黒い鎖がさらに強く締まる。
《契約資産の返却を拒否》
《追加徴収を実行します》
「ぐあああっ!」
ヴァリスの身体が跳ねた。
アルトは歯を食いしばる。
「先にカスパーを助けます」
「はい」
女性とともに、少しずつ前へ進む。
黒い鎖が再び伸びてきた。
アルトは火球を作り、鎖ではなく天井近くの岩壁へ撃つ。
爆発させない。
表面を砕く程度に威力を抑える。
細かな石と土が落ち、鎖の進路を一瞬だけ遮った。
「今です!」
二人はその隙にカスパーのところまで走った。
アルトは折れた支柱へ手をかける。
「持ち上げる。足を抜け」
「今の俺じゃ無理だ」
「俺が持ち上げます」
身体強化Ⅱ。
今度は七割。
全身へ力を流す。
傷めていた右肩に痛みが戻った。
それでも支柱を持ち上げる。
「早く!」
女性がカスパーの身体を引く。
挟まれていた左足が抜けた。
アルトはすぐに支柱を下ろす。
地面が重く揺れた。
「足を見せてください」
女性がカスパーの横へ膝をつく。
靴を脱がせると、足首が大きく腫れていた。
「骨が折れている可能性があります」
「治せるか?」
「完全には無理です。ただ、動かせる程度にはできます」
淡い光が足首を包む。
カスパーが痛みに顔を歪めた。
「なぜ来た」
「お前が助けを呼んだからだ」
「来るなと言った」
「その前に助けてくれとも言った」
「……聞こえていたのか」
索敵Ⅱがなければ、入口から声を拾えなかったかもしれない。
その技能は、カスパーから移ってきたものだ。
「歩けます」
女性が治癒を終え、カスパーの肩を支えた。
「体重をかけすぎないでください」
「俺はいい。ヴァリスを連れて出ろ」
「お前も出る」
「この足で逃げたら、二人とも巻き込まれる」
「三人です」
女性が静かに訂正した。
カスパーは一瞬黙った。
「俺は仲間じゃない」
「怪我人です」
「それだけで助けるのか?」
「治癒師ですから」
女性は迷わず答えた。
カスパーが目を伏せる。
アルトは奥を見た。
ヴァリスの声が弱くなっている。
黒い鎖に囲まれ、膝をついていた。
《剣術技能片――徴収》
《剣術技能片――徴収》
《剣術技能片――徴収》
何度も光が抜かれている。
アルトの契約印が熱を持った。
返済したときとは違う。
技能が移ってくる感覚はない。
遺跡が独自に徴収しているのだ。
「ヴァリスを助けます」
「無理だ」
カスパーが言った。
「あそこまで鎖が増えたら近づけない」
「金属片を手放させれば止まる」
「本人が離さない」
「だから、離させる」
アルトは腰のロープを外した。
第一区画で、金色の板を奪い取った方法。
同じことが使えるかもしれない。
ただし、今回は距離が遠い。
鎖も多い。
「私も行きます」
「ここでカスパーを支えてください」
「でも、あなた一人では」
「一人のほうが動きやすい」
アルトはロープの先に輪を作る。
ヴァリスが握っている金属片は小さい。
直接引っかけるのは難しい。
腕ごと取るしかない。
「ヴァリス!」
アルトは大声で呼びかけた。
ヴァリスが顔を上げる。
「金属片を捨てろ!」
「これを……持ち帰れば……」
「技能は戻らない!」
「分からないだろう!」
「少なくとも、それを持っているせいで奪われている!」
「お前は強くなったから、そんなことが言えるんだ!」
ヴァリスの目には、怒りより恐怖が浮かんでいた。
「俺には剣しかない!」
「だから何だ!」
「剣術までなくなったら、俺は何者になる!」
「それを俺に押しつけたんだろう!」
アルトの声が坑道へ響く。
「借金も、弱さも、何もできなくなる恐怖も! 全部、俺に押しつけて逃げた!」
「俺たちは……」
「お前たちは俺を捨てた! だが、俺はお前をここへ捨てていかない!」
ヴァリスが目を見開いた。
黒い鎖が再び締まる。
「だから手を放せ!」
「……嫌だ」
「なぜだ!」
「何もなくなるのが、怖い」
その声は小さかった。
初めて聞く、ヴァリスの弱音だった。
「何もなくならない」
「分かったようなことを言うな」
「俺は借金だけ残されて、何もないところから始めた」
アルトはロープを握り直す。
「剣術がなくなっても、生きていれば覚え直せる」
「簡単に言うな!」
「簡単じゃない! だから生きて帰るんだ!」
アルトは走った。
黒い鎖が左右から伸びる。
索敵Ⅱで動きを読む。
一本目を屈んで避ける。
二本目は剣の腹で軌道だけを変える。
触れない。
受け止めない。
わずかに横へ逸らす。
三本目が正面から迫った。
身体強化Ⅱを使い、壁を蹴る。
鎖の上を越える。
着地した瞬間、右足に痛みが走った。
無視してロープを投げる。
輪がヴァリスの左腕へかかった。
「何をする!」
「手放させる!」
アルトは両手でロープを引いた。
ヴァリスの腕が前へ伸びる。
だが、金属片は握ったままだ。
「放せ!」
「嫌だ!」
黒い鎖がアルトの背後から迫る。
《契約継承者候補への直接徴収を制限》
鎖の動きがわずかに遅くなる。
止まりはしない。
未承認経路から入ったため、アルトも完全には保護されていないのだろう。
「アルト! 後ろだ!」
カスパーが叫ぶ。
アルトはロープを片手へ持ち替え、身体をひねった。
鎖が外套をかすめる。
布の端が黒く染まり、崩れた。
あと少し遅ければ、背中へ触れていた。
「もう一度だ!」
アルトは足を踏ん張り、全力でロープを引く。
ヴァリスの身体が前へ倒れた。
左手が床へぶつかる。
それでも金属片を離さない。
アルトはロープを放し、ヴァリスへ飛び込んだ。
右手首をつかむ。
指を一本ずつ開こうとする。
「やめろ!」
「死ぬよりましだ!」
「これは俺の希望だ!」
「違う! ただの金属片だ!」
最後の指を開く。
金属片が床へ落ちた。
黒い鎖が一斉に動きを止める。
《契約資産の返却を確認》
《強制徴収を停止します》
金属片が床を滑り、壁のくぼみへ吸い込まれた。
ぴたりとはまり込む。
周囲の黒い鎖が霧のように消えていった。
ヴァリスの身体が前へ倒れる。
アルトは腕を伸ばして受け止めた。
「立てるか?」
「力が……入らない」
「肩を貸す」
「なぜだ」
「今は話している場合じゃない」
天井から大きな石が落ちた。
通路の奥で、何かが崩れる。
「出口へ戻ります!」
女性が叫ぶ。
アルトはヴァリスの腕を肩へ回した。
カスパーは女性に支えられている。
四人で入口へ向かう。
だが、途中まで戻ったところで、先ほど倒した支柱が大きく傾いた。
天井が沈む。
「走れ!」
アルトが叫ぶ。
カスパーと女性が先へ進む。
ヴァリスの足がもつれた。
「動け!」
「無理だ……」
アルトはヴァリスを背負った。
重い。
身体強化Ⅱを使う。
肩と右足に痛みが走る。
魔力もほとんど残っていない。
それでも前へ進む。
背後から崩落音が迫る。
入口の光が見えた。
「アルト!」
カスパーが外から手を伸ばす。
アルトは最後の力でヴァリスを前へ押し出した。
カスパーと女性が、その身体を引く。
アルトも地面を蹴った。
外へ転がり出る。
直後、横坑の入口が崩れた。
土煙が一気に広がる。
誰も言葉を発しなかった。
咳き込みながら、地面に倒れたまま息を整える。
しばらくして、ヴァリスが震える手を持ち上げた。
剣を握る形を作ろうとする。
だが、指が思うように動かない。
「俺の剣術は……」
「かなり徴収された」
アルトが答える。
「戻るのか?」
「分からない」
「お前に移ったのか?」
「移っていない」
契約印にも変化はない。
ヴァリスから奪われた技能がどこへ行ったのかは不明だった。
「じゃあ、俺は何のために……」
ヴァリスの声が途切れる。
アルトは立ち上がろうとした。
足に力が入らず、再び膝をつく。
「動かないでください!」
女性がすぐに駆け寄る。
「右足と肩を診ます」
「先にヴァリスを」
「全員診ます」
女性はきっぱりと言った。
そのとき、遠くから複数の足音が聞こえてきた。
ギルドの冒険者たちだ。
先頭にいた職員が、崩れた横坑と四人を見て顔色を変える。
「無事ですか!」
「生きています」
アルトは短く答えた。
「ヴァリスとカスパーを治療室へ。横坑は完全に封鎖してください」
「分かりました。アルトさんも運びます」
「俺は歩けます」
立とうとしたが、今度こそ身体が動かなかった。
女性が呆れたように息を吐く。
「歩けていません」
「……そうですね」
アルトは抵抗をやめた。
担架が運ばれてくる。
その途中、契約印が淡く光った。
アルトの前に、見たことのない文字が浮かぶ。
《契約違反者二名の救出を確認》
《返済によらない技能移転は発生しません》
《第二判定補助条件を達成》
《契約継承者候補の適性を再評価します》
さらに一行。
《技能を得られない状況で、債務者を救済しました》
アルトは、その言葉を見つめた。
遺跡は、返済額だけを見ているわけではない。
アルトが何を選ぶのか。
技能を得られなくても、人を助けるのか。
それすらも判定している。
最後に、新しい表示が現れた。
《返済率十パーセント到達時、第二判定を実施します》
《合格報酬――担保契約の一部変更権》
「契約を……変えられる?」
残り十五金貨。
十パーセントへ到達したとき。
アルトは初めて、押しつけられた契約そのものへ手を伸ばせるかもしれなかった。




