第29話 八金貨の返済
返済所の窓口へ、金貨の入った袋を置く。
硬い音が八回重なった。
職員は袋を開き、中身を一枚ずつ確認する。
「八金貨、すべて返済に回すのですか?」
「はい」
「生活費や装備の修理費は残っていますか?」
「生活費を二金貨。予備資金も二金貨残してあります。装備の修理費は、今回の依頼でギルドが負担してくれます」
以前、一金貨を返済した直後に手持ちがほとんどなくなった。
あの失敗を繰り返すつもりはない。
生きるための金を残す。
戦うための装備を整える。
それでも余った金で、借金を返す。
「分かりました。では、八金貨の返済を受け付けます」
職員が契約用の水晶へ触れた。
アルトの前に、借金の残額が表示される。
《債務残高――二百九十三金貨》
《八金貨を返済しますか?》
「返済します」
八枚の金貨が、一枚ずつ光へ包まれた。
一枚目が消える。
アルトの頭へ、鋭い感覚が流れ込んだ。
足音。
衣擦れ。
呼吸。
壁の向こうを歩く職員の位置まで、以前よりはっきり分かる。
《担保技能の一部を移転》
《索敵Ⅰから索敵Ⅱへ成長しました》
二枚目。
胸の奥が熱くなる。
指先に、小さな炎が灯った。
これまでの火とは違う。
赤い炎の中心に、白い光が混じっている。
《火魔法Ⅰから火魔法Ⅱへ成長しました》
三枚目。
全身の筋肉が、一瞬だけ強く引き締まった。
アルトの身体が、椅子からわずかに浮く。
慌てて机へ手をつき、姿勢を戻した。
《身体強化Ⅰから身体強化Ⅱへ成長しました》
「大丈夫ですか?」
「まだ続けてください」
四枚目。
身体の中を流れる魔力が、今までより細かく感じ取れる。
指先に灯った炎を、小さくする。
消える寸前まで小さくしても、火は安定していた。
《魔力制御Ⅰから魔力制御Ⅱへ成長しました》
五枚目。
窓口の机。
椅子。
扉の蝶番。
壁の中を通る魔力線。
周囲にある物の構造が、断片的な知識となって頭へ流れ込む。
《罠解除Ⅰから罠解除Ⅱへ成長しました》
六枚目。
呼吸を抑える方法。
足音を消す重心移動。
相手の視線から外れるための立ち位置。
新しい知識が加わった。
《隠密Ⅰを獲得しました》
「新しい技能……」
七枚目が光へ変わる。
剣を握ったときの感覚が、さらに深くなる。
斬る。
突く。
受け流す。
それだけではない。
相手の武器へ、どの角度で剣を当てれば力を逃がせるのか。
一歩目を見せずに間合いを詰めるには、どこへ重心を置けばいいのか。
膨大な知識が、一度に流れ込んでくる。
《剣術Ⅲへ技能片を統合》
《成長には、さらに一つの技能片が必要です》
八枚目。
最後の金貨が消えた。
足りなかったものが埋まる。
《剣術Ⅲへ技能片を統合》
《剣術Ⅲから剣術Ⅳへ成長しました》
アルトの視界が大きく揺れた。
「アルトさん!」
職員の声が遠く聞こえる。
机へ両手をつき、倒れそうになる身体を支える。
一度に移転された技能が多すぎる。
頭の中には、自分が実際に経験していない戦いの知識が次々と浮かんでいた。
八金貨を一度に返せば、八つの技能片が移る。
分かっていたはずだ。
だが、一度にこれほどの技能が流れ込む負担までは考えていなかった。
「少し……休めば大丈夫です」
「治療師を呼びます」
「お願いします」
アルトは抵抗しなかった。
無理に立ち上がって倒れるより、診てもらったほうがいい。
椅子へ深く腰を下ろす。
目の前に、新しい残額が表示された。
《返済完了》
《債務残高――二百八十五金貨》
まだ遠い。
それでも、一度に八金貨を減らした。
以前のアルトには、絶対にできなかった返済だ。
同じころ。
安宿の裏にある狭い空き地で、ヴァリスは剣を振っていた。
以前と同じように、横薙ぎから踏み込む。
だが、剣先が大きく下がった。
「くそっ!」
力任せに剣を持ち上げる。
契約印が熱を持った。
一度。
二度。
三度。
「まさか……」
剣を振り上げた瞬間、頭の中から何かが抜け落ちる。
これまで自然にできていた踏み込みが、分からなくなった。
右足を出すのか。
左足で地面を蹴るのか。
剣をどの角度で構えるのか。
知っていたはずの動きが、急に曖昧になる。
ヴァリスの手から剣が落ちた。
「また返済したのか!」
少し離れた場所では、セナが魔法の練習をしていた。
「火よ!」
杖の先に炎が現れる。
だが、狙った場所へ飛ばない。
炎は途中で形を崩し、地面へ落ちて消えた。
「どうして……」
セナの契約印も、繰り返し熱を持っている。
火魔法。
魔力制御。
二つの技能から、大きなものが抜け落ちた。
カスパーは空き地の端に立ったまま、周囲を見回していた。
「足音が……分からない」
宿の裏を歩く人間の気配。
屋根の上に止まった鳥。
少し前なら、目を閉じていても位置を把握できた。
今は、聞こえている音が何を意味するのか判断できない。
罠の構造を思い浮かべようとしても、細部がぼやけている。
無意識に足音を消していた歩き方まで崩れていた。
「一回じゃない」
カスパーが、自分の契約印を見る。
「八回だ」
「八金貨も返したというのか?」
ヴァリスが声を荒らげる。
「あいつが、そんな金を持っているはずがない!」
「遺跡の調査で、高額報酬が出たという噂を聞いた」
セナの顔から血の気が引いた。
「でも、これまでは一金貨ずつだったじゃない」
「問題は八金貨じゃない」
カスパーが低い声で言った。
「八金貨を手に入れたことでもない」
「では、何だ?」
「あいつは生活費と装備代を残したうえで、八金貨を返せるようになった」
誰も言葉を返さなかった。
アルトが弱かったころは、一金貨を返すだけでも時間がかかった。
しかし、アルトが強くなれば、受けられる依頼も変わる。
依頼の難度が上がれば、報酬も増える。
報酬が増えれば、返済額も増える。
「このままあいつが強くなれば、次は八金貨では済まない」
カスパーの言葉に、ヴァリスの表情が歪んだ。
「なら、強くなる前に止めればいい」
「どうやって?」
「遺跡だ。あいつが大金を手に入れた場所には、まだ宝が残っている」
「坑道は封鎖されているわ」
「アルトは入れたんだろう?」
ヴァリスは地面に落とした剣を拾う。
「なら、俺たちにも入る方法があるはずだ」
カスパは答えなかった。
以前なら、遺跡へ入るための罠解除も索敵も、自分が担当できた。
今は、その力の多くがアルトへ移っている。
それでもヴァリスは、失った技能を取り戻すことしか考えていなかった。
返済所で治療を受けたあと、アルトはギルドの訓練場へ向かった。
すぐに依頼へ出るつもりはない。
まず、移転された技能を確かめる。
木剣を握る。
剣術Ⅳの知識に従えば、これまでより速く、鋭く振れる。
だが、身体が知識へ追いついていない。
最初の一振りで、右肩に痛みが走った。
アルトはすぐに木剣を下ろした。
「やっぱり、使えることと耐えられることは違う」
身体強化Ⅱも同じだった。
以前より強い力を出せる。
しかし、限界まで使えば筋肉や腱を傷める。
火魔法Ⅱでは、大きな火球を作れるようになった。
魔力制御Ⅱで形を保つこともできる。
だが、一度使っただけで、以前の小さな火球数回分の魔力を消費した。
索敵Ⅱは、遠くの気配まで拾える。
その代わり、意識を広げすぎると大量の音と動きが頭へ流れ込む。
強くなった。
だが、自由に使いこなせるわけではない。
アルトは一つずつ確かめ、手帳へ記録した。
現在の持続時間。
安全に出せる力。
一日に使える回数。
訓練を終えようとしたところで、契約管理の職員が走ってきた。
「アルトさん。返済した直後、遺跡から持ち帰った金色の板に変化がありました」
「どんな変化です?」
「文字が表示されています」
アルトは職員とともに、金色の板が保管されている部屋へ向かった。
厳重な箱の中で、板が青白く光っている。
《総返済額――十五金貨》
《返済率――五パーセント》
《契約継承者候補、第二判定を開始》
《次回判定条件――返済率十パーセント》
借金は、残り二百八十五金貨。
あと十五金貨返せば、返済率は十パーセントになる。
アルトは表示を見つめた。
「十パーセントで、何が起きる?」
金色の板は、まだ答えを見せなかった。




