魔王を倒すべき、神使の悪魔
「おや、なぜ私は睨まれてるんでしょうか」
羽場土海禰は、小石丸が人間になったことを知らない。
だから、突然向けられた鋭い視線に、困ったような笑みを顔に貼り付けていた。
この匂いは忘れられない。
(こいつが、陽くんとおれを、殺した!!)
小石丸は全身を総毛立たせる勢いで、海禰を睨みつけている。
以前の小石丸なら飛びかかっていただろう。
だが、一度殺されたことによって、警戒心が強く働いていた。
今までにない小石丸の剣呑な空気にハチは警戒を強め、ライカは離れて地面に逃げる。
唯一人間側であるカトルだけが、戸惑いながらも冷静に口を開く。
「なあ、あんたカシムの知り合いか?」
海禰は「ふむ」と呟いて、思案顔を作る。
「カシムさんですか。知らない方ですね。そもそも私、こちらの世界――国に知り合いなどいない筈なんですが」
コボルトのハチと威嚇を続ける小石丸、探るような視線を向けるカトルを見回した海禰は、心底感心したように呟く。
「ふむ、犬頭の人間――魔物ですか。本当にファンタジーの世界に来たようだ」
思案顔の海禰がゆっくり小石丸に向けて歩き出す。
『カシム様、こいつ感情が動いてる匂いがしない』
ハチの言葉に、小石丸はハッとする。
笑顔であっても、困ったような顔をしても、こちらが敵意を向けても――なにも感じられない。
匂いは、ある。
だが、どこまでも平板で、人間らしい感情の起伏が感じられない。
「情報が得られるなら良し、金や食料を持ってるならなお良しと思って話しかけましたが、最初に出会った方たちにこれほど警戒されるとは」
風上にいる海禰から、彼の匂いが明確に伝わってくる。
目の前にいて匂いもあって、肉体もあり声もするのに、人間らしい温かみが感じられない。
明らかに、陽やカトルとは違った人間がそこに立っている。
「お前、なぜ来た!!」
小石丸の鼻が最大限の警鐘を鳴らす。
「なぜって――言ってわかるんでしょうか。私はね、魔王を倒しに来たんですよ。この世界の神に頼まれて」
『神だって……? 何を言ってるんだ!?』
すでに警戒心を隠していないハチが叫ぶ。
カトルには「ワオオオオン!!」という威嚇の遠吠えにしか聞こえないその声に、海禰は笑みを深くした。
「おお、これはこれは。魔物とも会話できるなんて。さすが神の“言語能力”」
『お前もオレ達の言葉が解るのか?』
「ええ。しかし、お前“も”ときましたか」
海禰は口元だけに笑みを貼り付け、ハチに向き直る。
「この国に、いや、世界に何が起きてる……?」
困惑のカトルの言葉が合図だった。
「言葉に、恐怖が乗っているのすら分かる。良いですねえ、ファンタジー世界」
海禰の姿がゆらりと揺れ――煙のように消えた。
「魔物は死ぬとき、どんな言葉を吐いてくれるんでしょうか」
声は、ハチの耳元から聴こえた。
首元にひやりと何かが突き付けられる。
訓練している戦士のハチが、恐怖に身じろぐことさえ出来なかった。
「ああ、ナイフは向こうの世界に置いてきましたね。残念」
男の動きが見えなかった。
急に現れたようにしか思えなかった。
左手を首筋に突き付けられたハチの頬から冷や汗が流れる。
――小石丸の、我慢の限界が来た。
彼は海禰に向けて、人間離れした速度で突進する。
右拳が、海禰の腹を捉えた――ように見えた。
「もうそこには居ないですが」
次は音もなく、カトルの横に立っていた。
「う、うおっ、こんな近くに!?」
「つくづく、刃物がないのが惜しいですね」
飛びのくカトルを見もせずに、海禰は残念そうに嘆息する。
『カシム様――これはおかしい』
冷たい汗を流しながらハチが言う。
人間もコボルトもコカトリスも。小石丸の速さにはついていけなかった。
小石丸も動くものを捉える目は、あるつもりだった。
「見えないほどの速さで動いているのか……?」
『――それにしては予備動作がなさすぎる』
カトルとハチの言葉に、小石丸の鼻が微かに違和感を覚える。
カトルの後ろに現れた海禰は、確かに今もそこに見える。
なのに。
――匂いがもうそこに無い。
「鼻が言ってる。そこにはいない!」
突然、海禰の匂いが強くなる。
小石丸はとっさにその場から飛び退いた。
「ほう。接近を気取られるとは」
さきほどまで小石丸がいた場所に、海禰が現れる。
『みんな気を付けて! 目に頼ったら死ぬのよ!』
ライカの声が響き渡る。
『植物にも似た魔物がいるけど――そいつ幻覚使いなのよ!』
一瞬姿を現したライカを見て、海禰は笑みを深くする。
「まだ魔物がいたんですね、これは――楽しい」
今まで平坦すぎた海禰の声に、初めて感情の匂いが乗った。
「彼女程度なら、素手でも解体できますか」
海禰の口元に二日月の笑みが浮かぶ。
小石丸の全身に怖気が走った。
こんなに不快な感情の匂いを感じたことがなかった。
海禰の姿が皆の前から瞬時に消える。
笑い声が全方位から響き渡る。
「……勝てっこない」
カトルは、絶望の表情で膝を付く。
「魔王を倒したら、世界を好きにしていいんですよね。神様」
声だけが、異様な冷たさを持って響いた。
口元の笑みが深くなる。
『これほど強い悪意の匂いを放つ人間がいるなんて』
カトルだけでなく、ハチもライカも、海禰への拒絶反応と恐怖に全身が硬直して動かなかった。
だが、たった一人だけ。
小石丸だけは違った。
彼だけ、この悪意に一度さらされている。ほんの僅か、耐性があった。
だから――
小石丸はすべてに惑わされないように、目を閉じた。
「目に頼れないなら、心眼に頼ろうとても言うつもりですか。いいですねファンタジー」
海禰の言葉に、小石丸は首を横に振る。
「違う。匂い、だ!!」
彼は叫ぶと同時に、誰もいない場所に向けて走り、何もない空間に右手を突きだした。
「まぼろし、匂い、消せてない!」
何もいなかったはずの空間に海禰が現れ、小石丸の突きは頬にしっかりと刺さっていた。
彼は口から血を流して数メートルは後ろに吹き飛ぶ。
「ぐ……この速度と威力。それにそこの犬の魔物より鋭敏な嗅覚に私への敵意……何者ですか貴方……」
「――おれは、元柴犬。小石丸、だ!!」
海禰の表情に驚きが浮かぶ。
「小石丸――覚えてますよ。度し難い餓鬼の連れていた赤柴」
彼は口から血を流したまま笑って。
「そうか。貴方も転生したんですね」
海禰は至近距離で睨む小石丸に向けて、囁くように言った。
「――私、動物を殺す趣味はないんですよ」
と同時に、小石丸の鼻に向け口から血を吐く。
鼻いっぱいに広がる鉄錆の匂いに戸惑う小石丸、
その一瞬の隙を突いて、海禰の姿がこつ然と消えた。
小石丸は必死に匂いで追おうと試みる。
だが、鼻先に満ちる血の匂いのせいでうまく追えなかった。
海禰の匂いは、鮮血の彼方に消えてしまった。




