第3章 魅入られる
「眠れそう?」
祐希は曖昧に頷いた。
「眠れないからって、散歩して、そのまま泥だらけで寝てるの見て見た時の僕の驚き、分かる?」
「ごめん」
「外に行くのはいいけど、ちゃんと着替えて寝なよ、祐希」
「うん···」
「じゃ、お休み」
悟により部屋の明かりが落とされた。
「お休み」
暫くして、寝返りを打った悟が布団をかけ直す気配がした。
悠希も目を閉じる。
ビィィィン――
琵琶の音。
ビィィィン――
儚さともの悲しさを含んだ音色。
ビィィィン――
悠希を妖しく誘うように響いている。
目を開ける。
宿泊しているホテルの部屋。
隣のベッドには悟が寝ている。
(……気のせいか……)
ビィィィン――
聞こえる。
あの音色……
もう一度だけ……
もう一度だけ、あの琵琶が聞きたい……
悠希は体を起こすと、ベッドを抜け出した。
悟は起きる気配がない。
悠希はふらりと部屋を出た。
白い月明かりの下を歩く。
自分の意思ではない気がした。
闇に浮かぶ朱色の水天門。
石段を登る。
境内は静寂に包まれていた。
ビィィィン――
微かな琵琶の音が聞こえた。
(ああ…あの音だ……)
誘われるまま歩くと、音が次第に鮮明になっていく。
琵琶の音とともに月明かりに浮かびだす姿。
月明かりの中でも、その顔だけは見えなかった。
擦り切れ、ぼろぼろな着物。
撥を握る白く歪な指。
年齢は分からない。
人かどうかさえも分からない。
誰が弾いていようと悠希には構わなかった。
夢見心地だった。
琵琶の音色さえ、聞こえていれば良かったはずだった。
琵琶を弾けないことが、耐え難く思えた。
指が弦を押さえる。
手は撥を持つ形になっていた。
だが、琵琶はない。
琵琶の音が止む。
すっと男から琵琶を差し出された。
ビィィィン――
陽の眩しさに祐希は目を細めた。
手で庇を作った。
目の前の三人は、ガイドブックや観光案内を見て、あっちに行こう、いや、こっちだと話し合っている。
下関に来て、祐希は毎晩こっそりと琵琶を弾きに行っていた。
昨夜のことを思い出す。
琵琶を弾く男。
闇に溶けこような黒衣。
袖口から除く白い生地。
琵琶を弾いていた男の手が祐希を招く。
祐希は琵琶を渡された。
男のひんやりとした手が撥を持っていた祐希の手に重なり、弦を押さえていた指に歪な指が重なった。
撥が弦を弾いた瞬間ー
ビィィィン
紡ぎ出された音色は···
思い出し、祐希はうっとりとした表情を浮かべた。
破滅へと向かっている哀切と貴族的な優美さを併せ持った音色の調べ。
全身がぞくりとした。
撥を持ったように手が動く。
「祐希もそう思うよな」
雄二の声に白昼夢から引き戻されるような感覚を祐希は覚えた。
「えっ?」
「聞いてなかったのかよ」
「ごめん」
顔の前に片手を上げて謝った。
「幽霊を描いた掛け軸があるんだってさ。壇ノ浦の合戦場より、そっちの方がいいんじゃないかって、俺は言ってんのに、晋一と悟は合戦場推しなんだよ」
「だから、毎年一日だけの開帳なんだよ、掛け軸は。今日、行ったって観れないよね」
「行って観れないんじゃ意味なくね?」
悟と晋一が口を揃えて言う。
「えっと···合戦場でいいんじゃないかな?」
「だよね」
悟が勝ち誇る。
「なんでだよ」
「八雲の"怪談"には関係ないかなって」
雄二がむすっとする。
「ほら、行くぞ」
晋一が雄二の頭を小突いて、歩き出した。
しぶしぶ歩く雄二の後を悟と祐希は連れ立って歩いた。
「祐希、寝不足なんじゃない?顔色、悪いよ」
「そうかな?」
「うん···眠れないの?」
「枕が変わったからかな···大丈夫だよ」
悟は心配気に眉を寄せた。
「さっき、晋一とも話してたんだけど、祐希だけ旅行切り上げてもいいよ。資料とかは僕たちが集めとくからさ」
「だめだ!」
祐希は強い口調で遮った。
悟が目を丸くする。
その声に前を行く二人も振り返った。
「祐希?」
祐希は、はっとし、
「ご、ごめん。悟、本当に大丈夫だから。今日は眠れそうだし、心配はいらないよ」
「う、うん。···祐希が大丈夫ならいいんだ。けど、何かあったら言ってよ。僕に言いづらかったら晋一でもいいからさ」
「雄二じゃないんだ」
祐希は少し戯けて言った。
「雄二は、ちょっと···」
悟が顔を顰める。
次の瞬間、
祐希と悟は顔を見合わて、小さく笑った。
悟と晋一が呼んだ。
「なに?」
晋一へと駆け寄る悟の後姿を見る祐希の目は、先ほどとは違い、暗く淀んでいた。
(僕は……帰らない……)
陽に照らされてできた木の影が、ざわざわと揺れていた。




