第1章 下関への旅
朝の陽射しが格子窓から降り注いでいる。
テーブルの上には朝食が並んでいた。
ピッチャー入れられたオレンジジュースとミルク。
藤の籠に盛られたパン。
家人の前にはそれぞれの好みに合わせた卵料理にサラダ。
澤村 悠希はカフェオレを口にする。
「悠希は、今日から旅行かしら?」
母親の綾香が尋ねた。
「うん。ゼミの仲間と一週間、研修旅行。母さんは、ニューヨーク?」
「そう、あちらのオーケストラと公演」
「何弾くんだっけ?」
「ラフマニノフの二番よ」
綾香のパンを取る長くしなやかな指。
悠希は自分の指との違いを見る。
「姉さんと父さんも演奏旅行?」
「彩夏はヴァイオリンの師匠のところよ。誠二さんは、明後日帰ってくるはずよ。みんなすれ違いね」
「そうだね」
父は指揮者、母はピアニスト、姉はヴァイオリニストという音楽一家の中で、悠希だけが違った。
プロとしてのやっていけるだけの何かが欠けていた。
自分だけが異分子という劣等感みたいなものが常に心のどこかにあった。
家族に冷遇されているとか、のけ者扱いされている感はない。
責められもしない。それどころか、甘やかされている。
それが苦しかった。
東京から新幹線で五時間半。
山口県下関市へと悠希たち『小泉八雲研究ゼミ』の四人は来ていた。
新下関駅から在来線に乗り換えて下関駅へと移動した。
ホームからは漁港が見えた。
海が近いせいか、独特の潮の香りがした。
予約してあるホテルへと向かいながら、森野 悟がスケジュールを確認する。
「ええっと、ホテルにチェックインした後は、平家物語の舞台となった壇ノ浦と赤間神宮に行くと」
「少し休もうぜ。五時間以上、座りっぱなしで尻が痛ぇ」
長井 晋一が異議を唱えた。
「だよな。けど、飛行機でも新幹線でも移動時間が変わらないって、どういうことだよ」
佐藤 雄二がぼやく。
「それな、マジで意味わかんねえ。陸の孤島かよ、ここは」
雄二と晋一の会話に悠希は笑った。
十階建てのホテルに荷物を預け、四人はロビーで一息ついた。
フロント横にある観光案内で、森野がイベント情報紙を取ってきていた。
「今日、赤間神宮で琵琶語りイベントがあるらしいよ。行こうよ」
「ああん?琵琶?琵琶って食べ物のあれか?」
「雄二、楽器だよ。胴は洋梨を縦に半分に割ったような形で、胴からは棹と呼ばれるネック部分が伸びて、撥で弾くんだよ」
「おお、さすがは音楽一家の悠希だな」
悠希は笑みを浮かべた。
その笑みはどこか歪だった。
「お前さ、平家物語を研究題材にしてるんだから、琵琶くらい知っとけよ。情けない」
「うっせよ、晋一」
「ほらほら、時間がないから行くよ、二人とも」
森野の掛け声で四人は赤間神宮へとバスで向かった。
バス停の目の前に赤間神宮はあった。
白い石段の上には朱色の水天門。
悠希は、まるで浦島太郎に出てくる竜宮城の門のようだなと思った。
境内に入ると朱塗りの神殿が目に入ってきた。
横に小さなお堂があった。
雄二が案内板を読む。
「へぇー、耳なし芳一の像だってよ。あとで来ようぜ」
「興味ある。来ようね」
悟が賛成した。
芳一堂の近くに設けられた特設会場。
幕で囲われた室内にはパイプ椅子が並べられていた。
正面には簡易的な舞台があった。
そこそこ人が集まっている。
四人は中央近くに座った。
ざわざわしていた会場が、演者が席につくと、しーんと静かになった。
演者の手には平家琵琶。
撥で平家琵琶の弦を弾いた。
ビィィィン――
会場の空気が震えた。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし……」
物語が貴族的で哀切を帯びた美しい琵琶の音色と共に始まった。
孤独で儚い音が胸を締め付ける。
会場の人々は物音ひとつさせず、聞き入った。
悠希たちも例外ではなかった。
殊に悠希は哀愁を帯びていく音色に耳を奪われた。
壇ノ浦の戦い部分に入り、演者は撥で弦を強く掻き鳴らし、琵琶の胴を叩く。
そのとき、
それはほんの少しの違和感から始まった。
悠希の耳に音がぼやけ、滲んで聞こえた。
聞こえるはずのない波の音が混じり、海の底から低く唸るような音になった。
それは滅ぼされた平家の亡霊の怨嗟のようだった。
滅びに向かう哀しい定めと絶望。
悠希は恐ろしさと哀愁を帯びた音色を聞き逃すまいと追いかけた。
「おい、悠希。終わったぞ」
悠希は晋一に肩を叩かれて、我に返った。
イベントはいつの間にか終わっていた。
「ごめん。聞き入ってた」
人少なになった会場を後にする。
予定していた芳一堂に寄った。
雄二と晋一、悟が中を覗いて盛り上がっていたが、悠希は耳に残っている琵琶の音色に意識を奪われていた。
ほうっと熱に浮かされたようにため息をついたとき、ふとそれが目に入った。
芳一堂の横に置かれた琵琶。
悠希は琵琶を手にした。
先ほどの舞台で見た琵琶によく似ていた。
(忘れ物かな……)
青白く生気のない男が悠希とすれ違う瞬間、
男は悠希が手にした琵琶を見て、目が恐怖の色に染まった。
両手で口元を覆い、悲鳴を上げるのを抑えているかのようだった。
震えている身体がじりじりと後ずさっていく。
「あの……」
悠希が声を掛けると、男は近づくなというように首を左右に振る。
「この琵琶…」
ひぃっという叫び声をあげて、男は走り出していった。
立ち尽くし、逃げていく男の後ろ姿を見ていた悠希は、琵琶の糸巻きがひとりでに回ったことに気が付かなかった。




