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プロローグ 夜の赤間神宮

じっとりと肌に纏わりつく、重い夜気だった。

関門海峡に架かる関門橋の照明がぼんやりと浮かび上がっていた。

微かな潮の匂い。

闇の帳のなか、竜宮城を思わせる朱色の水天門だけが、まるで血を吸ったかのように鮮やかに浮かび上がっている。

深夜。真闇を切り裂くように昇った下弦の月。

青白い月光は、境内の石畳や木々を照らし出していた。

歪んだ光の底に、一体の木像が浮かび上がる。

かつて、平家の怨霊に両耳をもぎ取られた僧――

耳なし芳一の虚ろな姿だった。

その像の足元に、まるで体の一部が融け合ったかのように、もう一つの黒い影が重なっていた。

纏う墨染めの着物は擦り切れ、ぼろぼろだった。

そこから除く肌は青白い光を浴びて死人のように白い。

深く傾けた頭のせいで、その顔は一切窺い知れない。

手には平家琵琶と撥。


ビィィィン。


男が琵琶を弾くたびに、地の底から這い出てくるような重苦しさとぞくっとする狂気を孕んだ音色が広がった。


ベベン。


最後の一弦が震え、演奏が止んだ。

周りを圧倒的な静寂が支配した。

男の割り切れた唇から、掠れた声が零れ落ちる。


「……まだ足りぬ」


その瞬間だった。


「うわ、まじで誰か弾いてるじゃん」


緊張感のない足音とともに、若い観光客の男がおもしろ半分にスマートフォンを向けながら近づいていく。

男は音もなく立ち上がり、ゆっくりと振り返った。

月光がその顔を徐々に真正面から照らし出す。

そこには目がなかった。

眉の下にはただ、虚無の闇が広がり、滑らかな皮膚の窪みがあるだけだった。

青年はへなへなと地面に腰を付けた。

喉が引きつり、声が出ない。

青年は声に成らない悲鳴をあげて、震えながら後退る。

男は歪に曲がった指で撥を入れた。


ビィィィン。


次の瞬間、青年は真闇に囚われる。

下弦の月が、ぐにゃりと歪んだ



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