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第二章 第十話「存在の境界」

そこには、何もなかった。


音もない。風もない。時間の流れすら、感じられない。


ただ——“義経だったもの”だけが、そこに漂っていた。


形は、もう曖昧だ。


腕も、足も、輪郭も。


歪みの核にすべてを投げ込んだ代償は、想像よりも遥かに深かった。


「……まだ、残っているか」


声は出た。


だが、それが“声”と呼べるのかどうかも分からない。


意識だけが、かろうじて繋がっている。


そこへ——


「まだ、終わっておりません」


静かな声が、響いた。


ルルだった。


だが、その姿はどこにもない。


あるのは、光でも影でもない“気配”だけ。


「ルル……か」


「はい」


即答だった。


変わらない。


あまりにも、変わらない声。


それが、逆に異常だった。


「ここは……どこだ」


義経は問いかける。


「境界です」


ルルは淡々と答える。


「存在と非存在の、狭間」


「お前は今、“歴史”でもなく、“現実”でもない場所におります」


義経は、理解しかけて、やめた。


理解した瞬間、自分が“消える”気がしたからだ。


「俺は……まだ、あるのか」


その問いに、ルルは一瞬だけ沈黙した。


そして——


「あります」


「ですが、それは“完全な義経”ではありません」


静かに、残酷な宣告。


義経は笑った。


笑ったつもりだった。


「そうか……ここまで来たか」


救った。


壊した。


背負った。


その結果がこれだ。


「後悔は、ありますか」


ルルの声は、変わらない。


ただ、ほんのわずかだけ——揺れていた。


義経は、ゆっくりと首を振る。


「ない」


即答だった。


「俺は選んだ」


「だから、これは当然だ」


沈黙。


歪みの残響が、遠くで脈打っている。


まだ終わっていない。


むしろ——これからだった。


ルルが、静かに言う。


「一つだけ方法があります」


義経の意識が、わずかに反応する。


「まだ……続くのか」


「はい」


ルルは続ける。


「歪みはすべて、あなたに収束しました」


「ですが、それは“完成”ではありません」


「まだ、“固定”されていない」


義経は、わずかに目を細める。


「どういう意味だ」


ルルは、はっきりと言った。


「あなたが、選び直すことができます」


「この歪みを“受け入れる存在”になるか」


「それとも——」


一拍。


「すべてを“無かったこと”に戻すか」


空間が、静かに揺れた。


戻す。


その言葉の意味は明白だった。


弁慶も。


救った命も。


積み重ねた選択も。


すべてが——なかったことになる。


義経は、ゆっくりと目を閉じた。


もう一度、問われている。


救うとは何か。


代償とは何か。


そして——自分は、何を選んできたのか。


静寂。


やがて、目を開く。


そこに迷いはなかった。


「戻さない」


短く、はっきりと。


ルルは、わずかに息を止めたように見えた。


「……承知いたしました」


その瞬間。


世界が、揺れた。


歪みの核が、再び動き出す。


収束していたすべてが、義経へと流れ込む。


終わりではない。


これは——確定だ。


義経は、ゆっくりと目を閉じた。


「なら、受ける」


その言葉と共に。


存在が、さらに沈んでいく。


だが、その奥で——


確かに、“何か”が形を変え始めていた。


(第二章 第十話・了)

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