小話:藤岡さん
あれはたいへんに恐ろしい夜でした。
あのような体験をしたのは、60数年生きていて生まれて初めてのことでした。
あの日、私は冬千夏様の誕生日会が終わった後、他の使用人と共に食器などの片づけをしておりました。冬千夏様に付いていったナハトくんがすぐ戻ってきたのが、目の端に映ったのをよく覚えています。彼は察しの良い青年です。私が冬千夏様に、不安そうな顔をしていたのに気づいていたのでしょうね。
「旦那様のお部屋の前に、こっそり控えていてくださいませんか。何かあった時対処できるよう、私もすぐに向かいますから」
そう耳打ちしてくれました。
恥ずかしながら居ても立っても居られない私は、頷くと即その場を後にしました。旦那様のお部屋の扉に立った時、何か――耳鳴りのような金属音が聞こえたのです。冬千夏様の悲鳴が聞こえたのは、その後すぐでした。
耳鳴りのことなどすっかり忘れて、無我夢中で飛び出し、旦那様を冬千夏様から引きはがしました。もう必死だったのです。その後のことなど、何も考えておりませんでした。背中に走った痛みさえ忘れてしまうほどに。
旦那様が化け物へと変貌し、恐怖に耐え切れなかった私は気を失ってしまいました。
――目を覚ましたのは、自室のベッドの上。誰かに手を握られていて、その手が暖かくて、自分が生きていることにひどく安心しました。冬千夏様がずっと握ってくださっていたのです。
視界がハッキリしてきたころ、涙ぐんでいる冬千夏様がそばにいてくださってまた安心しました。情けない私にありがとうと言ってくださいました。
事の顛末を聞いたのはその後。冬千夏様と私はずっと、10年間の歳月を化け物の巣で過ごしていたことを知ります。そして冬千夏様の中に住まう女性のこと、ナハトくんのことも。
いまだ整理のつかない頭ですが、これからも冬千夏様のもとに仕えねばと、その時改めて誓ったので御座います。ええ、私もまだ現役なのですから。それに屋敷に3人だけになった、今こそ頑張らなくてはね。
何日か経った今はすっかり歩けるようになり、簡単な仕事もできるようになりました。まだ少しだけ、傷は痛むのですけれど、猫背にならなければなんとか大丈夫です。まずは簡単な庭の水やりから、徐々に仕事を再開しようと思っておりました。
しかしあまり出歩いていると――
「ちょっと藤岡さん、あまり動かないでください。また傷が開いたら包帯を巻きなおすのは私なんですよ? 庭の世話なら私がやりますから」
――このように、ナハトくんにお小言を言われてしまいます。
「おや、おはようございますナハトくん。大丈夫です、今日は調子が良いんですよ」
「調子が良いかどうかは手当てした私が決めます。いいから部屋に戻って寝ていてください」
彼は随分この屋敷に慣れたようで、だんだん私に心を開いてくれるようになりました。冬千夏様とも、少しずつですが仲良くなれているようですし良い傾向です。
最近の彼は私に対して、いつもぷりぷりと怒っているように見えます。冬千夏様の前では穏やかでいつも笑顔なのですがね。きっとどちらも素なのでしょう。
――おや、噂をすれば。
冬千夏様が窓辺に立って、庭を眺めていらっしゃるのが見えました。彼女も私たちに気付いているようです。
「ちょっと聞いてるんですか」
「ナハトくん」
「はい?」
私が冬千夏様に会釈すると、彼女は窓辺から小さく手を振り返してくれました。それに気づいたナハトくんがおもしろいぐらいに素早く振り向いて、いや身体ごと向き直って冬千夏様に会釈すると、彼女はまた小さく手を振り返します。後ろから少しだけ覗き見たナハトくんの横顔は、先程までの怒り顔が嘘のよう。冬千夏様に挨拶してもらえて嬉しいと、顔に書いてあるようなものでした。
「ふふふ」
「何がおかしいんです?」
私に振り返った彼の顔はまたツンとした怒り顔に。
自分に怒りを向けている相手に対して失礼かと思いますが、私はなぜかその顔を見て嬉しくなってしまいます。彼が冬千夏様に対して一生懸命なのが微笑ましいというか。
「いいえ。ナハトくんはお嬢様のことが大好きなんですね」
「当然です」
ぷい、とそっぽを向かれてしまいました。
彼はここに来る以前から冬千夏様のことを知っていたようですが――冬千夏様自身にお仕えした年月は、私のほうが先輩ですものね。ナハトくんが私に向けている感情は、嫉妬にも似たものなのだとなんとなく気づいておりました。
「とにかくここは私がやりますから、藤岡さんは休んでいてください!」
ぼんやり彼を観察していたら、じょうろを取り上げられてしまいました。
「はいはい。では冬千夏様が退屈そうなので、私は屋敷で紅茶でも淹れて差し上げようかと」
「なっ……!?」
また面白いくらい素早く彼が振り返ります。ちょっと悪戯心が芽生えた私は、わざとらしく言葉を続けました。
「お嬢様はナハトくんが淹れる紅茶がお気に入りのようですが……君が庭の手入れで忙しいなら仕方がないですからね。なので私が代わりに……お菓子は冷蔵庫に入っているんでしたっけ?」
「ぐぬぬ」
ああ、そんなに唇を噛みしめなくても。それに手に力が入りすぎです。ステンレス製のじょうろの持ち手が、ありえない方向にぐにゃぐにゃと曲がってしまいました。彼はとても力が強いのですね。
私が観察しているその間も「ですが」「いやしかし」と言いながらナハトくんは葛藤しています。さすがにちょっとやりすぎでしたかねえ。
「……ナハトくん、私は本当に大丈夫ですからお茶を楽しんできてください。あなたの紅茶の腕のことももちろんですが、一緒に楽しむ人がいると冬千夏様はもっとお喜びになられます」
「ふ、冬千夏様がお喜びになるのなら……! クッ、この仮は必ず……!」
武士のような捨て台詞を言いながら、ナハトくんは私にじょうろを押し付けて行ってしまいました。悔しそうですが、彼の足取りは少しばかり軽やかです。
「素直じゃないんですから、ねえ」
私は空に向かって独り言を呟きました。
ナハトくんが来てから環境がぐるりと変わって、広い広い屋敷に3人だけになって、大変な日々です。
しかし前よりも今の方が、私にとって幸せだと思えるのでした。




