あなたと始まる
恐怖も不快感も涙となって溢れ出たおかげか、冬千夏の精神はほんの少し落ち着いた。両手で頬を包むナハトが心配そうに見つめる。彼はずっと涙が服を濡らさないよう拭い続け、時に背中をさすって冬千夏を慰め続けてくれていた。
「すみません、取り乱して……もう大丈夫ですから」
整った顔が近くて両頬が熱くて、今度は恥ずかしさで涙が出そうだった。
彼が痛々しいくらい、今度は彼が泣きだすのではと思うくらい、心配そうな顔をしていたから。
一度目を伏せたナハトが1歩引く。両頬にあった温もりが離れた。
「何を仰います。……奴の元に私がもっと早く到着していれば、お嬢様にこんな思いをさせずに済んだでしょう。私の失態に御座います……」
そう言って頭を垂れた。
「そ、そんな、頭を上げてください……」
焦った冬千夏は両手をわたわたさせながら言う。
彼が謝る必要はないとは、本気で思っていた。現にナハトがあの場に現れてくれなかったら藤岡も冬千夏も怪物の餌食になっていただろう。詫びるどころか感謝すべきところだが――
「でもあの時、始末がなんとか……って言ってましたよね」
素朴な疑問を投げかけると、ナハトの肩が一瞬強ばる。
「一体何を……?」
「そのお話は順を追って後に致しましょう。次はお嬢様ご自身のことについてご説明致します」
パッと立ち上がったナハトは早口で話を切り出した。何か慌てているような隠しているような、これ以上は聞いて欲しくなさそうな態度に見受けられる。もう少し追求したい気持ちもあったが、自身のことも気になるので大人しく空気を読むことにした。
「……と申し上げましても、私の話を信じてくださるかはわかりませんが」
怪物が出てきたというのに、今更何を信じないと言うのだろうか。冬千夏の疑問を余所に、ナハトは困ったように微笑み話し始めた。
「お嬢様は、……とあるお方の生まれ変わりなのです」
「え……?」
とあるお方の、生まれ変わり。
急にスピリチュアルな言語が出てきて面食らってしまった。とあるお方、というのは少し心当たりがある。夢に出てきた不思議な女性――もしかしてこの騒動には彼女も関係しているのではないかと、冬千夏はしばし思考を巡らせた。
「それについては私から話そう」
突然部屋の中に声が響き、冬千夏とナハトは驚き振り返る。声のする先、クローゼットの隣にある姿見に、見覚えがある亜麻色の髪の女性が佇んでいた。
鏡の中に立つナハトの隣にいるのは冬千夏ではなく、先程まで彼女の脳内を巡っていた女性――イルであった。
「イルさん!?」
冬千夏が駆け寄って鏡に触れる。イルもゆらゆらと近寄り、鏡越しに冬千夏の手のひらを愛おしそうに撫でた。
「ゆ、夢じゃないのに、どうして……?」
「冬千夏が成熟して、私がようやく覚醒したから……と言うとわかりやすいか。このような形ですまない。冬千夏と私のことを話すならこちらのほうがはやいと思うてな」
「私とイルさんのこと……?」
ナハトはその場に立ち尽くし、ただ呆然とイルを眺めている。
「久しぶりだな、ナハト」
「……!」
声をかけられたナハトは正気に戻ったかと思うと、跪き頭を下げた。
「……我が、主……」
彼の声はひどく震えていた。表情が前髪に隠れて見えず、どういった感情によるものかはわからない。イルはそんなナハトを見て、懐かしそうに瞳を細めた。
「……さて手短に話そう。改めて、私の名はイル。冬千夏の身体を通じて外の世界を見てきた、いわば自分の身体を持たぬ魂のようなものだ」
イルは冬千夏を見つめて話す。その内容はにわかには信じ難いものだった。
「私は元は……宇宙から飛来した、人間ではない生き物だった。しかし転生して、前世の私の魂と転生後の魂を持った人間になった。それが冬千夏、お前だ」
「……」
「魂は別個体なので前世の記憶が冬千夏には無いが……身体の中で私と共存しているため、私と冬千夏は運命共同体だ。私は転生時に、私自身の身体を失った。しかし私の力は魂に宿っていたらしく残っている。ということは必然的に冬千夏が力を持っていることになる……。ふむ、かなり噛み砕いて話したつもりだが説明というのは難しいな。ちなみに、魂と身体というのは例えであって、厳密には異なる……概念、思念……ふむ。……今のでわかったか?」
「えっとなんとなくは……」
なかば混乱しつつも話をよく聞いて、無理やり理解する。とりあえずイルが人間ではない未知の存在ということと、自分自身の身体の状態はわかった。常識では考えられないことだらけだが今は信じる他ない。
「ナハトについてだが、彼は私が転生する前に契約を交わした……眷族……従者……?のようなものだ。冬千夏と私は別人と言えるが同一人物とも言える。なので、冬千夏の従者でもある」
やっと顔をわずかに上げたナハトは冬千夏を見てにこりと笑った。遠慮がちというかどこかぎこちなさを感じる、そんな表情だ。
「冬千夏には苦労をかけてしまった。すべては私が招いてしまったことだ、深く……深く詫びる」
そう言ったイルは鏡の中で目を伏せた。
「……状況はなんとか……混乱してますけど、理解しました。……お父さんとお母さんのことも、叔父様も……あの怪物がやったことです。イルさんのせいじゃないです……」
複雑な気持ちを持ちながらも、彼らを悪く思いたくはない。感情をも共有しているイルはふ、と笑って冬千夏に感謝を述べた。
「……もう夜も遅い、今宵は休むといい。私は冬千夏の夢や鏡の中でならいつでも現れる。用がある時は呼ぶといい」
そう残しイルは鏡の中から姿を消した。目の前にあるのは冬千夏の呆けた顔が映るただの鏡だけだ。ナハトは俯いたままで、その場から微動だにしない。
「大丈夫ですか……?」
おそるおそる尋ねると、彼は息を吐きながらゆっくりと顔を上げた。
「申し訳ございません。久々に主の顔を拝見できたので、……少々驚いてしまっただけで」
イルが冬千夏と一心同体ならばナハトは少なくとも、冬千夏が生きた同じ歳月――16年は彼女と会っていなかったことになる。驚くのも無理はないだろうと思ったのも束の間、また新たな疑問も浮かんだ。
16年間。待ち続けたにしては彼の容姿は若すぎるのではないか、と。
彼の外見は多く見積もっても20代後半で、イルと出会ったのはおそらく10代そこそこ。そんなに若いうちに、彼の一生を左右するような選択をできるものだろうか。
――おかしいな。疑問を消すために聞いたのに、増えていくばかりだ。
ナハトは今一度冬千夏に向き直り、まっすぐな瞳を輝かせて言った。
「イル様が仰ったように、私はお嬢様が、……冬千夏様が生まれる前からこの身でお守りするべく誓いを立てております。どうか……私をおそばに」
真摯な言葉に、これ以上の質問を彼にぶつけてしまうは無粋なのではと思ってしまう。
ナハトは初めて会った時から今までずっと態度を変えず、優しく接してくれていた。まだ短い期間だが彼の笑顔と言葉に励まされたこともあったのだ。
――それがたとえ冬千夏自身にではなくイルの存在あっての態度だと思ってしまっても、感謝していた。なにより、頼りになるのは彼しかいない。偽りとはいえ保護者的な存在だった化物は失せ、近くで守ってくれる身内は本当にもうどこにもいない。自分一人きりで立つには、冬千夏は精神も年齢も幼かった。
「……こちらこそ、これからよろしくお願いします。ナハトさん」
「はい、冬千夏様」
こうして気弱な主と謎多き執事との、奇妙な主従関係が始まった。




