一夜の騒動
――耳の奥でキー……と高い金属音がわずかに響いたような、そんな気がする。単なる耳鳴りなのか、あの黒い化け物の悲鳴なのか。どちらかはわからなかった。
どれくらい耳と目を塞いでいたかわからない。ただじっと動かず、真っ暗闇の中を眺めていた。
『どうか、怖がらないで。信じておくれ』
夢の中で出会った女性――イルが目蓋の裏側にぼんやりと映り込む。そして、すぐに消えた。
耳を塞いでいた両手を包み込む感触がして、ゆっくりと目を開ける。そこには普段通りの顔をしたナハトがかしずいていた。
「さあ……もう怖いことはありませんよ」
幼い子どもをあやすような甘い声でなだめる。ナハトは冬千夏の頬に付着した血をスカーフで拭い、両手でゆっくりと手を引き立ち上がらせた。ぼんやりと目線を泳がせると、化け物がいた床に黒いゼリー状の塊のようなものが見える。それはピクリとも動かなかった。
ナハトは気絶した藤岡を軽々と肩に担いだ後、冬千夏に手を差し出す。目の前にあるその手をとるか、冬千夏の中で一瞬迷いが生まれた。
「ナハトさん……」
乾いた喉から出た声はか細く弱弱しい。だが瞳はしっかりとナハトを見据えていた。
「あなたのことは、信頼しても良いんでしょうか」
冬千夏の表情にもう怯えは見られない。
今あるただひとつの疑問は、目の前の人間が自分の身を預けられる器かどうか。ただそれだけだった。
少女から発せられているとは思えないほんのわずかな気が、ナハトの身体を震わせる。
「もちろんで御座います、お嬢様」
はっきりとそう告げた。冬千夏は少し間を置いた後、差し出された手を恐る恐る握る。ナハトは安心したような顔をして、冬千夏と藤岡を書斎の外へと導いた。
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医者はまずいとナハトが言うので救急車は呼ばず、執事が生活する別館にて藤岡の治療が行われた。麻酔を打ち、傷口を丁寧に縫い止めていく。医療の心得があると言う彼の手はとても手際よく、冬千夏はただただ驚くばかりだった。
深夜の屋敷内は、隣に立つ者の呼吸音が聞こえるほどの静寂で満ちている。あれほどの騒ぎがあったというのに使用人が誰も表へ出てこないことに、ふと冬千夏は疑問を持った。
「使用人は藤岡さん以外奴の息がかかっていましたので、全員本日限りで辞めていただきました」
冬千夏の心を見透かすように、ナハトは満面の笑みで言った。
「そ、そうですか」
笑顔に気圧されて冬千夏が一歩引いた。奴とはあの怪物のことなのだろう。
治療が済んだナハトは救急箱を丁寧に仕舞い、サイドテーブルに置く。藤岡は気絶したままだったが朝には目覚めるそうだ。
治療といい、怪物のことといい、ナハトは冬千夏の知らぬ多くを知っていて、何故かはわからないが冬千夏を守ることに重きを置いて行動している。彼の目的、彼自身についても聞いておかなければならないと、冬千夏は強く感じた。
「……ナハトさん」
「はい、……承知しております。お嬢様の抱えている疑問について、私が知る限りのことをお教え致しましょう」
どうやら彼も同じ気持ちだったらしい。冬千夏はスカートを握る手に力を込めて、ナハトと共に自室へ向かった。
怪物、両親、自分自身、ナハトのこと……聞きたいことは山ほどある。
自室についたナハトにデスクチェアを勧めて、冬千夏はベッドの上に座り向かい合った。
「単刀直入に申し上げますと……」
何から聞けばいいのか冬千夏がまごついていると、ナハトが切り出した。
「あの怪物は叔父君に成りすまし、お嬢様の中に眠るとあるお方のお力が目覚める時を待ち構えていました。私はそのお方の命を受け、お力が怪物の手に渡ることを阻止すべく行動した……というのが現状の説明に御座います」
ナハトは淡々と語る。おそらく冬千夏にもわかるように、要所要所を噛み砕いて話してくれたのだろう。だがそれを聞いた冬千夏の頭は余計に混乱していた。
「ちょっと待って、叔父さまは、じゃあ本物の叔父さまはどこに?」
冬千夏は焦った。彼の話が本当なら、真の鴎外は一体どこで何をしているというのだろう。もしかしたらどこかに閉じ込められていて、まだ生きているかもしれない――そんな可能性を考えた。
ナハトは一瞬躊躇うも、言葉を結ぶ。
「……霜鈴木鴎外という男は、10年前にすでに亡くなっておいでです」
「……え?」
サッと身体が冷える感覚がした。
亡くなっている。
その事実は冬千夏にとって、今まで耐えてきた恐怖を目覚めさせてしまう鍵になった。
「詳細は私にもわからないのですが、恐らくはあの怪物に」
10年前。
両親が亡くなった時と同じ。
この屋敷に移り住んだ時と同じ。
――では私は10年もの間、あのバケモノと共に過ごしていたと言うの?
「……!」
一拍置いてまた吐き気がこみ上げてくる。
今日の夜、肩に手を置かれた感触。衣服を破かれて腹や胸を撫でられた感触が鮮明に思い出され、冬千夏は青ざめた。藤岡の傷とナハトの正体のことで頭がいっぱいで、今まで忘れられていたのに。感触が記憶となって、自分の身体にびっしりと刻み込まれているのが嫌でもわかった。
気持ち悪い。
嫌だ。
暖かいものが頬を伝う。フラッシュバックが起こり、過去のことが荒波のように脳を回る。
持ちこたえていたもののたかが外れたのか、自身の目から涙がほろほろと零れていることに気が付いた。
「お嬢様……!」
「っ……う」
ナハトが立ちあがって駆け寄り、冬千夏の涙を指ですくう。けれど雫は止まらず流れ出るばかりで、彼の白手袋を濡らすばかりだった。嗚咽を漏らし始めた冬千夏にナハトは顔はみるみる困惑の表情へと変わっていく。これ以上の迷惑をかけまいと何とか止めようとしたのだが逆効果で、どんどん涙が溢れてくる。
「……怖い思いをなされたと思います。今は存分に泣かれるのがよろしいかと」
その言葉が胸にじわりと広がりまた目頭を熱くさせていく。ナハトはその場にかしずいて、冬千夏の頬をしばらく拭い続けた。




