第27話 侵食の兆し
深層主の咆哮が響いてから半日が過ぎていた。
人面蜘蛛の集落は未だ緊張状態のまま推移しており、戦士たちは外縁部の警戒を強化し、偵察部隊は地下湖周辺の監視を続けている。幸いにも深層主そのものがこちらへ向かってくる気配はないものの、だからといって安心できる状況ではなかった。
むしろ不気味だった。
理由が分からないからだ。
第三階層に君臨してきた女王ですら、深層主が縄張りの外へ出ようとする姿を見たことがないという。それほど長い年月を生きた存在が断言するほどの異常事態である以上、偶然や気まぐれで済ませられる話ではなかった。
何かが起きている。
そして、その原因がどこかにある。
俺は女王から提供された休息用の空洞でシステム画面を開きながら、ここ最近の出来事を整理していた。
人面蜘蛛との接触。
施設化の獲得。
同盟交渉。
ランクアップ。
どれも大きな出来事ではあるが、深層主ほどの存在を動かす理由には思えない。
そんなことを考えていた時だった。
画面の端に見慣れない表示が現れる。
最初は気のせいかと思った。
しかし何度見直しても消えない。
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【領域拡張中】
⸻
思わず眉をひそめる。
こんな表示は初めてだった。
今までの拡張なら理解している。DPを消費し、部屋を作り、通路を伸ばし、罠や施設を設置する。それらは全てコア周辺で行われるダンジョン整備だ。
だが今回の表示は違う。
拡張中。
まるで現在進行形で何かが起きているような文面だった。
詳細を開こうとした瞬間、広間の入口から慌ただしい足音が響く。
飛び込んできたのは人面蜘蛛の偵察兵だった。
「女王様!」
集まっていた戦士たちの視線が一斉に向く。
「地下湖方面で大規模な地殻変動を確認しました!」
その報告に女王の表情が変わった。ただならぬ空気を感じた俺も席を立つ。
「案内しろ」
女王が短く命じると、偵察兵は即座に頭を下げた。
数十分後。
俺たちは地下湖近くの高台へ到着していた。同行しているのはスイとアラクネ、それに女王直属の精鋭たちだ。周囲には異様な静寂が広がっていた。
本来なら魔物の気配が漂う区域だが、今は生き物の存在をほとんど感じない。まるで何かを恐れるように全てが逃げ出してしまったかのようだった。
やがて地下湖が見えてくる。そして俺は思わず息を呑んだ。
景色が変わっていた。
以前訪れた時とは明らかに違う。
湖畔の岩盤は大きく裂け、地面には巨大な亀裂が幾筋も走っている。崩落した岩壁の規模は凄まじく、自然災害と呼ぶにはあまりにも不自然だった。
だが本当に異常だったのは別の場所だった。
地下湖の向こう側。
そこに、存在するはずのない空間が見えていた。
「……何だ、あれは」
俺の呟きに誰も答えない。女王でさえ黙っている。視線の先には巨大な裂け目があった。岩盤が割れたことで露出したのだろう。その奥には広大な空洞が広がっていた。
第三階層とは明らかに違う世界。
黒く沈んだ闇。
どこまでも続く巨大な地下空間。
そして、その奥から流れ込んでくる濃密な魔力。
俺は理解する。
あれは崩落ではない。
境界が破れたのだ。
今まで見えていなかった地下領域が姿を現したのである。
「まさか……」
女王が低く呟く。その声には驚愕が混じっていた。
「さらに下層が存在したのか」
その言葉に周囲の人面蜘蛛たちもざわめく。
女王ですら知らなかった。
つまりこの地下世界は、俺たちが思っていたより遥かに広い。
その時だった。
視界の中でシステムウィンドウが自動的に展開する。
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【新領域を確認】
【未支配領域】
【接続完了】
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さらに文字が続く。
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【コア領域】
【支配領域】
【未支配領域】
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俺は目を見開く。
初めて見る分類だった。
コア領域は理解できる。
今まで部屋や施設を増築してきた場所だ。
支配領域も何となく分かる。
罠や配下を配置し、実質的に管理している範囲なのだろう。
だが未支配領域とは何だ。
まるで最初から存在していた土地を指しているように見える。
その瞬間、一つの可能性が脳裏をよぎった。
俺は今までダンジョンを作っていると思っていたが、違うのかもしれない。
俺が作っていたのはコア周辺だけ。そしてその外側には、元々広大な地下世界が存在していた。
もしそうだとしたら。ダンジョンの成長とは。領域拡大とは。
一体何を意味するのか。
その答えを考えようとした瞬間だった。
地面が震えた。
次いで地下湖の水面が大きく揺れ、誰もが反射的に視線を向ける。
そして現れた。
巨大な影が。
湖畔を見下ろすほどの巨体。岩山にも見える黒い外殻。見るだけで本能が警鐘を鳴らす圧倒的存在。
深層主。
第三階層の支配者。
その怪物が裂け目の前で立ち止まり、ゆっくりとこちらへ首を向ける。
黄金色の瞳。
まるで知性を宿しているかのような眼差しだった。そして、その瞬間、俺の視界に警告が表示される。
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【警告】
【領域守護個体が異常を検知しました】
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続いて現れた文字を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
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【侵食反応を確認】
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侵食。
その単語だけが静かに表示されていた。
だが、その意味を理解するには十分だった。深層主は怒っているのではない。
何かを探している。
自らの縄張りへ入り込んだ異物を。
この地下世界に起きた変化の原因を。
そして、俺は嫌な予感を覚える。
その原因が――自分自身なのではないかと。




