第26話 深層主の咆哮
女王との交渉は予想以上に順調だった。
もちろん、それは互いを信用した結果ではない。むしろ逆だ。目の前の女王は間違いなく危険な存在であり、向こうも俺を警戒している。だが人間という共通の敵が存在する以上、今ここで争う理由はなかった。
利用できるなら利用する。
それが俺の結論だった。
人面蜘蛛の集落は想像以上の規模を誇っている。戦士だけでも百体近く存在し、第三階層の地理も把握している。もし味方につけられるなら、今後の防衛戦は大きく変わるだろう。
一方で女王にとっても事情は同じらしい。
最近になって第三階層へ侵入する冒険者の数は明らかに増えていた。単独行動の新人だけではない。複数人のパーティや偵察目的と思われる集団まで確認されているという。
ダンジョンの存在が少しずつ外へ知られ始めているのだ。いずれ大規模な討伐隊が来る。それは俺も予想していた未来だった。
「互いの縄張りは侵さない」
女王が静かに言う。
「人間に関する情報は共有する」
俺も頷いた。
「深層主が動いた場合は協力する」
その条件に対し、女王はしばらく考え込んだ後で小さく笑う。
「悪くない」
黄金色の瞳が細められる。
彼女もまた損得で動く支配者だ。感情より利益を優先する。その点では俺と似ているのかもしれない。
「こちらからも一つだけ条件がある」
「何だ」
「私の配下を勝手に奪わないことだ」
その言葉を聞いて少しだけ納得した。
女王にとって群れは力そのものだ。戦士も労働個体も、全てが支配を維持するための資産である。
俺が魂炉を持つことなど知るはずもないが、本能的に警戒しているのだろう。
「問題ない」
俺が答えると、女王は満足そうに頷いた。
これで同盟はほぼ成立だ。
少なくとも現時点では。
俺の視界にはシステムウィンドウが表示されていた。
⸻
【特殊イベント発生】
【第三階層勢力との交渉を開始しました】
【条件を満たした場合、勢力同盟が可能です】
⸻
どうやらシステムもこの交渉を重要なイベントとして認識しているらしい。
第三階層を支配する勢力との接触。それだけ特別ということだろう。俺がウィンドウを閉じた、その直後だった。
空気が変わった。最初は錯覚かと思った。
だが違う。
女王の表情が変化したことで確信する。先ほどまで余裕を崩さなかった彼女が、初めて警戒を露わにしていた。周囲の人面蜘蛛たちも落ち着きを失い始めている。
何かが起きている。
その異常だけは誰にでも分かった。
そして次の瞬間だった。
轟音。
地下世界全体を揺るがす咆哮が響き渡る。
空気が震え、岩盤が軋み、巨大な空洞そのものが悲鳴を上げた。天井から無数の砂粒が降り注ぎ、人面蜘蛛たちの間に動揺が広がる。
深層主だ。
地下湖で遭遇した怪物。
第三階層の絶対強者。
だが前回とは決定的に違う。
怒っている。
そうとしか思えなかった。
圧倒的な殺意が階層全体へ広がり、生物としての本能が危険を告げてくる。スイですら無意識に俺の近くへ寄ってきており、アラクネも警戒するように周囲へ視線を走らせていた。
そして何より異常だったのは女王の反応だ。
彼女は地下湖の方角を見つめたまま動かない。その横顔には焦りが浮かんでいた。第三階層の支配者である彼女が。百を超える人面蜘蛛を率いる女王が明確な恐怖を見せている。その事実だけで事態の深刻さが伝わってくる。
「何が起きた」
俺の問いに、女王はすぐには答えなかった。数秒の沈黙の後、ようやく重い口を開く。
「分からない」
その返答に俺は眉をひそめる。
女王ですら把握できていない。
それが何より不気味だった。
「だが一つだけ確かなことがある」
黄金色の瞳がこちらを向く。
そこには先ほどまでの余裕は残っていない。
「深層主が縄張りの外へ出ようとしている」
その瞬間、背筋を冷たいものが走った。
エレナの記憶が脳裏に浮かぶ。
冒険者ギルド。
街。
人間たち。
もしあの怪物が地上へ到達すればどうなるかは想像するまでもない。それは討伐対象ではなく災害だ。国家単位で対処するべき災厄だった。
そして追い打ちをかけるように、俺の視界へシステムウィンドウが表示される。
⸻
【緊急クエスト発生】
【深層主が活動を開始しました】
【推定原因:不明】
【生存してください】
⸻
表示を見た瞬間、俺は理解した。
調査ではない。
討伐でもない。
生存。
システムが求めているのはそれだけだった。
つまり今の俺たちでは戦うことすら許されていない。その事実を噛み締める間もなく、第三階層の奥から凄まじい破壊音が響いた。
岩盤が砕ける音。
大量の水が押し流される音。
そして巨大な何かが移動する地響き。女王も、スイも、アラクネも言葉を失う。
交渉どころではなかった。深層主が動き始めた。
それも、この同盟が成立しようとしているまさにその瞬間に。




