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8/20

崇高なる賢者

すみません、ここの話だいぶ長くなりました、、、、、

 フェルクは酒瓶を揺らしながら、だるそうに片目を細めた。


「おおかた、俺をスカウトに来たんだろ?」


 口元ににやけた笑みが浮かぶ。


「やめとけやめとけ。もう冒険者は辞めたんだ。

 俺はもうここで、綺麗なねーちゃんのおっぱいに埋もれて死ぬのが本望さ」


 エルツーはその軽薄な物言いにも眉ひとつ動かさず、静かに返す。


「では、なぜ今でも冒険者の登録は残してるんだい?」


 フェルクは即答した。


「そっちの方がモテる」


 ライトニングの眉がぴくりと動く。

 エルツーは小さく頷いた。


「なるほどね」


 それから少しだけ目を細める。


「もっとモテたくない?」


 フェルクの口元がにやりと歪んだ。


「ってことは何か?

 そっちの綺麗なねーちゃんが俺を愉しませてくれるってか?」


「ある意味そうかも」


 ぱしん。


 次の瞬間、ライトニングの手がエルツーの後頭部を叩いた。


「痛っ」


「適当言うな」


 フェルクは喉の奥で笑う。


「はは、いいねえ。

 その姉ちゃん、見た目の割に気が強ぇ」


 ライトニングは冷たく睨んだだけだった。

 フェルクの方は、まるで気にした様子もない。


 エルツーは咳払いをひとつして、話を戻す。


「これから、S級のクエストを裏技を使って受けるんだけど」


 フェルクが酒瓶を口元へ運ぶ。


「ほう」


「是非、あなたの協力を仰ぎたいんです」


 フェルクは安酒をぐっと飲み干し、しばらく黙ってから鼻で笑った。


「そしたら、お前たちだけ死んじまうんじゃねーの?」


 言い方は自然だった。

 まるで、自分だけはその中に含まれていないのが当然みたいな口ぶりだった。


 ライトニングの指が、組んだ腕の中でトントンと鳴る。

 こめかみのあたりが、わずかに強張っている。


 エルツーは変わらず静かに答えた。


「ええ、今のところはその可能性が高いですね」


「じゃあ、意味ねーな。帰れ帰れ」


 フェルクは手をひらひらと振る。

 そのタイミングを見計らったように、酒場の奥から数人の亜人風俗嬢が現れた。


 狐耳の女。

 羊角の女。

 猫のように目元の鋭い女。

 皆、慣れた笑顔でフェルクの肩や腕にまとわりついていく。


「やだぁ、またそんなこと言ってる」

「フェルクさん、今日も飲みすぎ」

「ほら、こっち来なよ」


「お、いいぞいいぞ。

 そういうのを待ってた」


 フェルクはさっきまでの面倒臭そうな顔を一瞬で消し飛ばし、だらしなく口元を緩める。

 もうこちらの話をまともに聞く気はない顔だった。


 エルツーはその様子を見て、ふっと息を吐いた。


「ライトニング、一旦下がろうか」


 ライトニングは眉を寄せたまま、低く返す。


「もう諦めるのか?」


 視線はまだフェルクに向いている。


「まあ、こんなやついなくてもいいが」


「いや」


 エルツーは首を横に振る。


「彼はこのあと、また話しかけてくるよ」


 ライトニングが怪訝そうに目を細める。


「……何で分かる」


 エルツーは少しだけ笑った。


「たぶん、このあと崇高な賢者になるから」


 ライトニングがぴたりと止まる。


「何!?

 奴は神官職だったのか!?」


 アムラがその瞬間、腹を抱えて爆笑し始めた。

 空中でくるくる回りながら、声にならない笑いを撒き散らしている。


 エルツーは苦笑しながら首を振った。


「いや、彼は斥候だよ」


「では賢者とは何だ」


「まあ、男性は一定の条件下で賢者になることができるのさ」


 ライトニングは数秒、無言でエルツーを見ていた。

 意味を理解したのか、していないのか、判断のつかない沈黙だった。


 アムラはなおも笑い続けている。


(アムラ、女の子だよね? 笑いすぎ)


「……最低」


 ライトニングがぽつりと漏らした。


「え、僕?」


「全部」


 エルツーは肩をすくめた。


「とりあえず、表で待とう」



 二人は裏口から引き上げ、表の酒場へ戻る。

 店内は相変わらず薄暗く、酒と煙草と煮込みの匂いが混ざっていた。


 壁際の空いた卓に腰を下ろす。

 すぐに店員が来て、エルツーは適当に飲み物を二つ頼んだ。

 ライトニングは腕を組んだまま、まだ不機嫌そうな顔をしている。


「……本当に来るの」


「来ると思うよ」


「根拠は」


「さっきの時点で、完全に話を切ってないから」


「切ってたようにしか見えなかったけど」


「本当に切るなら、もっと雑に追い出すよ。

 ああいう人は、少しでも引っかかった話には最後まで自分から答えを出したがる」


 ライトニングは納得していない顔で、卓を指先で一度叩いた。


「それと」


「うん」


「崇高な賢者の説明、あとでちゃんとしろ」


 エルツーは吹き出しかける。


「そこ気になるんだ」


「気になるわよ。

 意味が分からないまま流されるのは気持ちが悪い」


 アムラがまた笑いをこらえきれず肩を震わせた。


「いやあ、この子ほんと面白い」


 もちろん、ライトニングには見えていない。


 店員が飲み物を置いて去っていく。

 ライトニングはそれに手をつけず、じっと奥の方を見ていた。

 裏へ続く扉。

 フェルクが女たちに囲まれて消えていった先だ。


「……あなた」


「なに」


「本当にあんな男が必要なの」


 エルツーは少しだけ考えてから、静かに答えた。


「必要だと思ってる」


「どう見てもだらしないけど」


「うん」


「信用もできない」


「それもそう」


 ライトニングは眉を寄せる。


「じゃあ何で」


 エルツーは卓の上の水滴を指でなぞりながら言う。


「“自分は死なない”って、当たり前みたいに言えたから」


 ライトニングの目が細くなる。


「……そこ?」


「そこ」


「ただの自惚れかもしれない」


「かもね」


「それでも?」


「それでも。

 本当に何もなくなった人は、あんな言い方しないよ」


 ライトニングは黙り込む。


 エルツーは続けた。


「落ちた人間には二種類いる。

 自分まで信じられなくなった人と、世界の方が間違ってると思い続けてる人」


「彼は後者だって?」


「少なくとも、完全には折れてない」


 その言葉に、ライトニングは少しだけ視線を落とした。

 自分にも刺さる話だと気づいたのだろう。


 しばらくして、彼女はぼそりと呟く。


「……最低な判断基準」


「そうかも」


「でも」


「うん」


「分からなくはない」


 その返しに、エルツーは少しだけ笑った。


 酒場の喧騒は、ゆっくりと流れていく。

 表通りの甘い誘惑とは違う、沈んだ者たちの時間がここにはあった。


 そして、その空気が少しだけ変わったのは、しばらくしてからだった。


 奥の扉が開く。


 フェルクが出てきた。


 さっきまでより髪が少し乱れ、上着も片側だけずれている。

 だが顔つきは妙にすっきりしていた。

 さっきまでのだらけた笑みとは違う、どこか醒めた目をしている。


 アムラが肩を震わせる。


「来た来た。崇高な賢者」


 ライトニングがじとっとエルツーを見る。


「……あとで説明しろ」


 フェルクは二人の卓まで来ると、どかりと向かいの椅子へ座った。

 さっきのような軽薄さはまだ残っているが、少しだけ薄まっている。


「で?」


 肘を卓につき、面倒そうに言う。


「S級の裏技ってのは、何だ?」


 エルツーはその顔を見て、小さく目を細めた。


「ほらね」


 ライトニングは何も言わなかった。

 ただ、フェルクを見る目は少しだけ変わっていた。


 この男は、さっきまでのただの酔っ払いではない。

 少なくとも今は、話を聞く頭に戻っている。


 フェルクは店員が置いていった水を勝手に取り、ぐっと飲み干した。


「先に言っとくが、俺は安くねえぞ」


「知ってる」


「あと、情でも動かねえ」


「それも知ってる」


「じゃあ、何で俺だ」


 エルツーは少しだけ前に身を乗り出した。


「更新で落ちたのに、まだ名前を残してるから」


 フェルクの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「……」


「それと、“まだ死なない”って顔をしてる」


 今度は、フェルクが黙った。


 さっきまでの軽口を挟まない沈黙だった。

 その横で、ライトニングもまた何も言わない。

 さっきの言葉を、自分も聞いていたからだ。


 やがてフェルクは、口の端だけを上げた。


「面倒なガキだな、お前」


「よく言われるよ」


「そっちの姉ちゃんも、よくこんなのについて来たな」


 ライトニングは冷たく返す。


「まだついて行くと決めたわけじゃない」


「へえ」


 フェルクはその返しを面白そうに聞いたあと、肘を卓についたまま続ける。


「一方的に情報を持ってるのもフェアじゃねえな」


 エルツーは少しだけ目を細めた。


「そうだね」


「お前から名乗れよ」


 エルツーは姿勢を少し正す。


「僕はエルツー。元《天龍の羽》メンバーです」


「!?」


 フェルクの目がはっきりと動いた。


「そして、こちらの剣士は『雷鳴』のライトニングです」


 フェルクはそこで初めて、改めてライトニングを見た。

 さっきまでの女を見る目ではない。

 名前と経歴を頭の中で結び直す、冒険者の目だった。


「なるほどな……」


 低く息を吐く。


「少し興味が出てきた」


 ライトニングは腕を組んだまま、視線だけをフェルクに返す。

 先ほどまでより警戒は強い。

 だが、切り捨てるような目ではなかった。


 フェルクは次にエルツーを見た。


「ところで、なんでお前は“元”メンバーなんだ?」


 エルツーはあっさり答えた。


「あ、クビになりました」


 数秒の沈黙。


 それから次の瞬間、フェルクは腹の底から吹き出した。


「ブハハハハハハ!」


 酒場の空気が揺れるくらいの笑い声だった。

 裏手の客まで、何事かとこちらを見る。


 フェルクは笑いながら机をばんばん叩く。


「マスター! こいつに一杯奢ってやってくれ!!」


 奥の店主がちらりと見たが、特に驚いた様子もなく鼻を鳴らす。


「つけとく」


 フェルクはまだ笑っている。


「いやぁ、いいな! かの《天龍の羽》のメンバー様がクビか!」


 ライトニングの眉が寄る。

 だがエルツー本人は、苦笑しているだけだった。


 フェルクは笑いの余韻を引きずったまま、涙を拭うように目元をこすった。


「でも、エルツーなんてやつ、メンバーで聞いたことねーな!」


「表に出る役じゃなかったからね」


「なるほど、裏方か」


 フェルクの目が少しだけ細くなる。

 その言葉をただの説明としてではなく、情報として受け取った顔だった。


 エルツーはそこで、今度は少しだけ真面目な声音になる。


「僕の目的は、最短でS級のパーティを設立することです」


 フェルクの笑いが薄れる。


「ほう」


「こう見えて元《天龍の羽》の権威はかなりあるので、そこらの冒険者よりかなりの自信がありますね」


 フェルクはしばらく何も言わなかった。

 酒場のざわめきが、三人の卓の周りだけ遠くなる。


 やがて彼は、指先で机を軽く叩いた。


「……で」


「うん」


「俺に何を求める」


「生存能力と、場数と、引き際の判断」


 ライトニングの目がわずかに動く。

 そこを真っ先に挙げるのか、と。


 フェルクは口元だけで笑った。


「褒めても安くはならんぞ」


「最初から安く買う気はないよ」


 フェルクはそこで少し思案した。

 さっきまでの軽薄さはもうほとんど消えている。

 代わりに、条件をどう切るか考える男の顔になっていた。


 そして、あっさりと言った。


「まず、俺の借金を肩代わりしてくれ」


 ライトニングがぴくりと反応する。

 エルツーは顔色ひとつ変えずに尋ねた。


「いくらですか?」


「金貨六十枚」


「いいですよ」


「おい!? 即答なのか!?」


 ライトニングの声が鋭く飛ぶ。


 エルツーは平然としていた。


「安いもんです」


 フェルクが喉の奥で笑う。


「さすが元《天龍の羽》様だな」


「そういう使い方をするための金なら、惜しくないよ」


 ライトニングはまだ納得していない顔だった。


「惜しくないって、金貨六十枚よ?」


「命を買う値段だと思えば、かなり安い」


「その理屈で即決するの、本当に嫌なんだけど」


 アムラは横で腹を抱えて笑っている。


「いやあ、景気いいねえ!」


 フェルクはさらに指を二本立てた。


「次」


「うん」


「パーティに入るかどうかは、S級ミッションを受けた後に判断する」


 エルツーが目を瞬かせる。


「後に?」


「そうだ。申し訳ないが、お前は少し怪しすぎる」


 ライトニングが即座に頷いた。


「初めてお前と意見が合ったな」


 フェルクは肩を揺らして笑う。


「だろ?」


 エルツーは少しだけ大袈裟に肩を落とす。


「えーーー??

 こんなそこらへんにいるような男をですか??」


 フェルクの眉が上がる。


「おい」


 ライトニングは冷たい顔のまま言う。


「そこらへんにいるように見えるから余計怪しいのよ」


「ひどくない?」


「事実」


「傷つくなあ」


「クビになった男が今さら」


「うっ」


 フェルクがまた吹き出す。


「ははっ、いいなあ。

 お前ら、思ったより噛み合ってんじゃねえか」


「噛み合ってない」


「噛み合ってないね」


 ライトニングとエルツーの声が、妙に綺麗に重なった。


 一拍遅れて、フェルクは面白そうに目を細める。


「……でも、悪くねえ」


 その声は低かった。

 軽口の調子を残しながらも、どこか本心に近い響きがあった。


 エルツーは真顔に戻る。


「じゃあ、借金は僕が持つ。

 その代わり、一緒にS級ミッションを受けてもらう。

 参加した上で、残るかどうかはあなたが決める。それで?」


 フェルクは少し考えるように酒杯を指で回した。


「そうだな……」


 それから、ゆっくり頷く。


「その条件ならいい」


 ライトニングが腕を組み直す。


「ずいぶん簡単に乗るのね」


「簡単じゃねえよ」


 フェルクは彼女を見る。


「金貨六十枚を即答した時点で、少なくとも話を聞く価値は出た」


「借金目当てでしょ」


「借金も立派な価値判断だ」


 エルツーはそのやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。


「じゃあ決まりだ」


 フェルクはすぐに首を振る。


「いや、決まってねえ。

 俺は“受ける”だけだ。

 入るかどうかは、そこで見る」


「わかってる」


「あと」


 フェルクの視線がエルツーに刺さる。


「S級の裏技とやら、そこはまだ聞いてねえ」


 エルツーは少しだけ目を細めた。


「そこはこれから」


「焦らすな」


「焦らしてるわけじゃないよ。

 順番に話した方がいいだけ」


 フェルクは舌打ちこそしなかったが、不満そうに椅子へもたれた。


 ライトニングはそんな二人を見ながら、胸の中で小さく息を吐く。


(本当に、何なんだこいつら……)


 だが否定できない。

 さっきまでくだらない男にしか見えなかったフェルクは、今や完全に別人だった。

 崩れているようでいて、実際は会話の全体を測っている。

 エルツーもまた、それを最初から分かっていたように話を運んでいる。


 アムラはまだ笑いの余韻を引きずっていた。


「だめだ、面白すぎる」


(アムラ、笑いすぎ)


 卓の上に、新しい杯が置かれる。

 店主が無言でよこしたものだった。

 フェルクが頼んだ、エルツーへの一杯だ。


 フェルクは顎でそれを示す。


「飲めよ、クビ男」


 エルツーは杯を手に取る。


「ありがとう、借金男。あ、ぼったくりな金利とってもいいんだからね?」


 ライトニングが小さく目を見開く。

 フェルクは一瞬黙ってから、次の瞬間には喉の奥で笑っていた。


「はっ。

 その言い返しは嫌いじゃねえ」



 夜の帝都はまだ騒がしかった。

 けれどその喧騒の中で、三人目の輪郭は確かに見え始めていた。


 灰鴉通りを抜け、南外縁区の少し静かな道へ入る。

 さっきまでの濃い匂いも、ざわつく声も少し遠のいた。


 ライトニングはようやく一度、深く息を吐いた。


「……ビリジオンに戻るのか?」


「今日はもう戻らないかな」


「では?」


「とりあえず、宿に帰るよ」


「私は――」


 そこで彼女は少しだけ言葉を止める。

 どこへ帰る、と続けるには、ほんの少しだけ間があった。


 エルツーはその間を埋めるように軽く言った。


「明日、フェルクが来るかどうか見るためにも、朝からビリジオンだね」


 ライトニングは小さく頷く。


「……分かった」


 その返事は短かったが、昨日までより自然だった。

 もう“関わるかどうか”ではなく、“どう動くか”の方に意識が移り始めている声だった。


「じゃあ、また明日」


「うむ。……それと」


「なに?」


「賢者の件、まだ説明されてないからな」


「まだ気にしてたの?」


「当然だ」


 少しだけ不機嫌そうに言い残し、ライトニングは背を向けた。


 その後ろ姿を見送りながら、エルツーは苦笑する。


「真面目だなあ」


 アムラが肩口でけらけら笑った。


「いやあ、あの子ほんと面白いね」


「お前が一番楽しんでるだろ」


「否定しないよ」


 エルツーは小さく息をついて、宿屋への道を曲がった。



 宿屋の扉を開けると、外の夜気とは違う、あたたかな熱と食事の匂いが迎えてきた。


「ただいま」


 声をかけると、まず最初に顔を出したのは女将だった。


「おかえり。遅かね」


 その後ろから、アンジュもぱたぱたと駆けてくる。


「エルツーさん、おかえりなさい!」


 言うなり、アンジュはいつものようにエルツーの肩や腕のあたりを見た。


「今日は大丈夫やったですか? 怪我しとらんですか?」


「してないよ」


「ほんとに?」


「ほんと」


 アンジュはじっと見上げてきたあと、ほっとしたように胸をなで下ろした。

 だが今日は、それだけでは終わらなかった。


 帳場の横に、もう一人いた。


 ナナだった。


 ギルドで着ていた受付のきっちりした服ではなく、宿での普段着らしい、少し柔らかい格好をしている。

 けれど腕を組んで立っているせいで、空気はどこか張っていた。


「……おかえりなさい、エルツーさん」


 最初の声は、まだギルドの受付みたいな標準語だった。


「ただいま。ナナもいたんだ」


「実家ですから」


 返しも一応は整っている。

 だが目が笑っていない。


 女将がそんな二人を見て、鍋をかき回しながら鼻を鳴らした。


「ほら来た。待っとったよ、この子」


「お、お母さん!」


 ナナが咎めるが、女将は知らん顔だ。


 エルツーは首を傾げる。


「なにかあった?」


「……ありました」


 ナナは一歩近づいた。


「今日は、遅かったですね」


「まあ、ちょっとね」


「ちょっと、じゃなかろうもん」


 そこで、言葉が崩れた。


 ナナは自分でも気づいたのか、ほんの少しだけ眉をひそめる。

 だがもう戻らない。


「あん人と一緒に、南ん方行っとったやろ?」


 エルツーが少し目を瞬く。


「見てたの?」


「見とらんわけなかろうもん。

 ビリジオンから出ていくとこ、ちゃんと見えとったし、戻ってきた方向まで分かるったい」


 アンジュがきょとんとする。


「南って……」


 ナナはそこでアンジュの方を見て、一瞬だけ言葉を選んだが、結局そのまま言った。


「灰鴉通りたい」


 アンジュの目が丸くなる。


「えっ」


 エルツーは咳払いをした。


「仕事だよ」


「仕事でもたい!」


 ナナがぴしゃりと言う。


「よりによって、ライトニングさんばあげんとこ連れて行くとか、何考えとうと?」


 アムラが肩口で吹き出した。


「うわ、怒られてる」


 もちろんナナには見えていない。


 エルツーは少しだけ肩をすくめた。


「会う相手が、あそこにいるタイプだったからね」


「それは分かるっちゃ分かるけど……!」


 ナナはそこで言葉を詰まらせる。


 筋は通っている。

 だから余計に、責めきれない。


「もっと、こう……やりようがあったやろ」


「たとえば?」


「それは……」


 ナナは口ごもり、結局言えなくなる。

 代わりに、じとっと睨んだ。


「とにかく、あん人ば変な目に遭わせたら承知せんけんね」


 エルツーは少しだけ笑った。


「心配してるんだ」


「し、心配くらいするったい!」


 言い切ったところで、自分がかなり素に戻っていると気づいたのか、ナナは耳を少し赤くした。


「ギルドの人間やし……それに」


「それに?」


「……エルツーさん、あんまり危なかことば平気な顔でやるけん」


 その声は、さっきより少しだけ小さかった。


 アンジュがその横顔をちらりと見て、それからエルツーの方を見る。

 何となく空気を読んだらしい。


「エルツーさん、ごはん温めますね」


 そう言いながら、アンジュは逃がすように厨房の方へ向かう。


 女将はその様子を見て、面白そうに鼻を鳴らした。


「まったく。男一人で、ようそげん騒がせるね」


「騒がせてるつもりはないよ」


「つもりがなかでも、騒ぎにはなると」


 女将はそう言って鍋を混ぜ、ナナの方へ顎をしゃくる。


「ほら、もう言いたいこと言うたなら座んな。

 あんたも腹減っとるやろ」


 ナナはまだ少しむっとした顔のままだったが、やがて肩の力を抜いた。


「……そうですね」


 それからエルツーを見て、ぼそりと付け足す。


「次からは、ちゃんと言うてから行って」


「善処するよ」


「その言い方、いっちょん信用ならん」


 博多弁のままそう言うと、ナナはようやく少しだけ笑った。



 食堂の隅の席に腰を下ろすと、アンジュがすぐにスープとパンを運んできた。


「はい。今日はちょっと多めです」


「多くない?」


「多くないです」


 きっぱり言い切ってから、アンジュは少しためらいがちに口を開く。


「……あの」


「うん?」


「今日、一緒やった人……すごく綺麗な人でした」


 エルツーは少しだけ目を細める。


「見たんだ」


「たまたまです」


 言い方が、ナナと少し似ていた。


「強い人なんですよね?」


「強いよ」


「……そうですよね」


 アンジュはそれだけ言ってから、器の位置を少しだけ直す。

 まだ何か言いたいようだったが、結局はそっちへ戻った。


「でも、怪我しとらんでよかったです」


 エルツーは小さく笑う。


「ありがとう」


 アンジュはほっとしたように頷いて、今度こそ下がっていった。


 向こうではナナが女将に何か言われて、小声で言い返している。

 宿屋の中は、表の帝都とはまるで別の時間で流れていた。


 アムラが肩口でにやにや笑う。


「いやあ、人気者だねえ」


「やめて」


「受付嬢も、宿屋の娘も、ずいぶん気にかけてくれてるじゃない」


「そういうんじゃないよ」


「ふうん?」


 エルツーは返さなかった。


 スープの湯気が上がる。

 その向こうで、ナナがちらちらとこちらを気にしているのが見える。

 アンジュも、厨房から何度か視線を寄越していた。


 外ではまだ帝都の夜が騒いでいる。

 けれどこの宿の中だけは、妙にあたたかかった。


 フェルクが本当に来るのか。

 ライトニングがどんな顔で現れるのか。

 そして、まだ見ぬ次の一人がどこにいるのか。


 そんなことを考えながら、エルツーは静かにスープへ口をつけた。



 翌日。

 ビリジオンはいつも通り賑わっていた。


 依頼掲示板の前には朝から人だかりができ、

 受付ではナナたちが忙しそうに書類を捌き、

 酒場の方ではもう気の早い冒険者たちが昼前から杯を傾けている。


 エルツーとライトニングは、なんとなく最初に二人が話したあのテーブルへ座っていた。

 窓から少し離れた、けれど掲示板の中央が見える位置。

 偶然選んだはずなのに、いつの間にかそこが二人にとっての定位置になりつつある。


 ライトニングは腕を組んだまま、ちらりと周囲を見る。


「……まだ来ない」


「フェルク?」


「他に誰がいる」


 エルツーは軽く肩をすくめた。


「まあ、時間ぴったりに来るタイプじゃないよ」


「だろうな」


 ライトニングはため息混じりにそう返した。

 そのわりに、視線は何度も入口の方へ向いている。


 その時だった。


 ある人物が、二人のいる卓の方へ近づいてきた。


 エルツーもライトニングも、反射的にそちらを見る。


「……フェルクか?」


 と一瞬思ったが、全く違った。


 人の波の中に立っていたのは、亜人だった。

 いや、人外と呼んだ方がしっくりくる気配がある。


 黒と白の毛並みを持つ狼種の亜人。

 身長は二メートルあるかないか。

 身体つきも大きく、肩幅も広い。

 ひと目で力があると分かる体格だった。


 だが、その身に纏っているのは武骨な鎧でも旅装でもない。

 黒を基調に白いフリルをあしらった、ゴシック調のメイド服だった。


 しかも、ただの飾りではない。

 裾や袖口、胸元の細かな意匠に至るまで丁寧に仕立てられていて、一目で既製品ではないと分かる。

 相当に腕の良い人間が縫った、裁縫の一品だった。


 その上等な衣装と、狼種らしい大きな体格。

 あまりにも噛み合わない取り合わせが、かえって彼女の居心地の悪さを際立たせていた。


 周囲の視線に怯えながら、背を丸め、猫背になり、

 まるで自分がこの場にいるだけで迷惑なのだとでも思っているみたいに、おずおずとこちらへ歩いてくる。


 ライトニングはわずかに目を細めた。

 警戒が先に立つ。

 ギルド内でいきなり斬り合いになることはまずない。

 それでも、亜人がこうしてビリジオンの中心近くまで入り込んでくるのは珍しい。

 しかもこの狼種は、体格だけ見ればかなり目立つ。

 なのに誰よりも縮こまっている、その不自然さが気になった。


 亜人はエルツーたちの卓の前まで来ると、立ち止まった。


「あ……あの……」


 声が、予想外なくらいか細かった。

 可愛い、と表現してしまっていいくらいに細くてやわらかい声だった。


「……エルツーさん……ですか?」


 エルツーは少しだけ目を瞬かせたが、すぐに頷いた。


「あ、はい。僕です」


 亜人はその返答を聞くと、明らかに喉を鳴らして緊張を飲み込んだ。

 大きな手が、服の裾をぎゅっと握る。

 意を決した表情――と言っても、狼の相貌のせいでどこまでが表情なのかは分かりにくい。

 けれど、その黄色がかった瞳には確かに覚悟の色があった。


「あの……私、プリシラって言います……」


 ライトニングがわずかに眉を動かす。

 その名と、この体格と、この声の組み合わせが、うまく頭の中で噛み合わなかったのだろう。


 プリシラはさらに続けた。


「私も……パーティに入れてください……」


 その発言は、まるで恋人に告白するみたいだった。


 場の空気が一瞬、妙に止まる。


 近くの卓にいた冒険者が、思わずこっちを見た。

 受付のナナも、書類を持ったまま目を丸くしている。

 ライトニングは完全に固まった。


 エルツーだけが、少しだけ目を見開いたあと、静かに首を傾げた。


「……え?」


 プリシラはそれだけ言うのにも相当勇気を使ったのか、肩で小さく息をしている。

 耳がぺたりと寝ていて、尻尾があるなら今頃きっと丸まっているだろうと思わせるくらい縮こまっていた。


「その……昨日、聞いて……」


 声はまだ小さい。

 けれど、逃げないように必死に言葉を繋いでいる。


「エルツーさんが……パーティを作るって……

 それで……その……私も……」


 ライトニングがようやく口を開いた。


「ちょっと待って」


 プリシラの肩がびくっと跳ねる。


 ライトニングは慌てて少し声の調子を落とした。


「いや、別に怒ってるわけじゃない。

 ただ……その……」


 珍しく言葉に詰まっている。

 強い相手や無礼な相手には迷わない彼女が、この手の真正面から来る相手には弱いのかもしれない。


「……急すぎる」


 プリシラはますます縮こまった。


「ご、ごめんなさい……」


 エルツーがそこで、やわらかく口を挟む。


「いや、謝らなくていいよ」


 プリシラがそろそろと顔を上げる。


 エルツーは続けた。


「ただ、少し驚いただけ。

 僕のこと、知ってるの?」


「は、はい……少しだけ……」


「少しだけ?」


 ライトニングが小さく横を見る。


「もうそんな話広まってるの」


 プリシラはさらに縮こまりながら、小さな声で答えた。


「あの……お姉ちゃんに聞きまして……」


 エルツーはその答えを聞きながら、改めてプリシラを見る。


 大きい。

 体格だけ見れば前衛職そのもの。

 けれど近づき方も声も、あまりにおどおどしている。

 周囲の視線を怖がっているのが、見ていて分かるくらいだった。


 アムラが肩口で面白そうに囁く。


「へえ。釣る前に飛び込んできた」


 エルツーはそれには反応せず、プリシラへ尋ねる。


「どうして入りたいの?」


 プリシラは一瞬、言葉に詰まる。

 それから、大きな狼耳をさらに伏せながら、小さく言った。


「居場所が……ほしいから……」


 その一言は、妙にまっすぐだった。


 ビリジオンの喧騒の中なのに、その声だけははっきり聞こえた気がした。


 ライトニングの目が、ほんの少しだけ変わる。

 ほんの少しだけ、自分と似た響きをそこに感じたのかもしれない。


 プリシラは続ける。


「それに……

 エルツーさんのパーティなら……その……」


「うん」


「切り捨てられた人も……入れてくれるかなって……」


 エルツーはしばらく何も言わなかった。


 その沈黙に耐えきれなくなったのか、プリシラは慌てて言葉を足す。


「で、でも、私、ちゃんと戦えます!

 役に立ちます!

 あの、すごく強い、とかは言えないけど……でも、その……頑張るので……」


 「頑張るので」で終わってしまって、本人もそれが弱い言葉だと分かったのだろう。

 さらに耳が伏せられる。


 ライトニングはそんな彼女を見て、ぽつりと呟いた。


「……告白みたい」


「こ、告白!?」


 プリシラが真っ赤になる。

 狼種でも赤くなるのだな、と分かるくらいの慌てぶりだった。


 エルツーは思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪える。


「とりあえず、座る?」


「あ……は、はい……!」


 プリシラは大きな身体をできるだけ小さくしながら、空いている椅子へ腰を下ろそうとした。

 だが体格に対して椅子がやや小さく、ぎしっと音が鳴る。


 周囲の視線がまた集まる。

 そのたびにプリシラは肩をすくめる。


 ライトニングは無言でその様子を見ていたが、やがて少しだけ身を乗り出した。


「……気にしなくていい」


 プリシラがびくっとする。


「え……?」


「見てくるやつなんて、放っておけばいい」


 言い方はぶっきらぼうだ。

 慰め慣れていないのが丸分かりの言葉だった。

 けれど、それでもプリシラは目を丸くしていた。


「は、はい……」


 アムラが小さく笑う。


「おや。優しいじゃない」


 ライトニングはそれに気づかないまま、すぐにそっぽを向いた。


 エルツーは卓の上で手を組む。


「プリシラ。

 入りたいって言ってくれたのは嬉しい。

 でも、僕のパーティはまだできてないし、何より――」


 その時だった。


 酒場の入口の方で、やけにだるそうな声が響いた。


「……おいおい。

 朝から賑やかだな」


 三人がそちらを見る。


 入口に立っていたのは、フェルクだった。


 髪は少し跳ねたまま。

 上着も相変わらずくたびれている。

 けれど、目だけはちゃんと起きている。

 昨日ほどではないにせよ、あの“賢者”の気配はまだ残っていた。


 フェルクは卓を見渡し、プリシラの姿で一度だけ目を止める。


「……なんだ。

 俺より先に増えてんのかよ」


 ライトニングがすぐに返す。


「増えてはいない。

 まだ何も決まってない」


「へえ」


 フェルクは椅子を引き寄せながら、面白そうに笑った。


「じゃあ、俺もまだ滑り込みセーフってことだな」


 そう言って、当然のように四人目の席に腰を下ろした。


 プリシラは完全に固まっている。

 大きな身体がますます縮こまる。


 エルツーはその光景を見て、小さく息を吐いた。


 追放された男。

 更新に追われる女剣士。

 剥奪された元S級。

 そして、自分から居場所を求めてきた狼種の亜人。


 ビリジオンのいつもの喧騒の中で、卓の上だけが少しずつ、妙な形を成し始めていた。


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