騎士様のお散歩
演習場を離れ、再びディルクの部屋へ戻る頃には、さっきまでの熱気が嘘のように遠のいていた。
扉が閉まる。
磨かれた机、整然と並ぶ帳簿、窓から差し込む薄い光。
理屈と計算のために作られたようなその部屋に、つい先ほどまで闘技台で剣を振るっていたライトニングが立っているのは、やはり少しだけ場違いに見えた。
ディルクは椅子に腰を下ろし、指を組んだ。
「色々興味深い事はありますが、とりあえずご苦労様でした。」
ライトニングは腕を組んだまま、小さく鼻を鳴らした。
まだエルツーへの疑いが消えたわけではない。だが今は、それを蒸し返す場でもないと判断したのだろう。
エルツーは軽く会釈してから、そのまま本題へ入った。
「それより、本題に戻りましょう。これで第一段階は達成、でよろしいでしょうか? 早速クエストを受けさせていただきたいのですが……」
ディルクは椅子にもたれたまま、ゆっくり頷いた。
「こちらとしては問題ありませんが……」
そこで言葉を切る。
ライトニングが即座に言った。
「却下だ……素性もわからぬ輩に、背中は預けられん」
部屋が静まる。
エルツーは少しだけ目を細め、それからあっさり頷いた。
「まあ、確かに」
ライトニングの眉がぴくりと動く。
食い下がるでもなく、怒るでもなく、素直に認められるとは思っていなかったのだろう。
ディルクはその反応を見て、わずかに口元を緩めた。
「こちらとしては問題はありませんが、投資側としては失敗のリスクは軽減してほしいところですね」
「わかっております」
エルツーは即答した。
ライトニングがそこで眉を寄せる。
「投資? どういうことだ……」
ディルクはその問いを待っていたように、静かに答えた。
「はい、これは投資です。札付きの冒険者にS級の資格を改めて与えるのは、ギルドとしてもリスクがあります。貴方達への投資はリスクが少ないですが、非常にリターンの多い投資だと思っています。」
ライトニングは数秒黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「ふん、そういうことか」
エルツーはそのやり取りを聞きながら、少しだけ目を細める。
「投資側、ということですが……少しは協力いただけるってことでいいですか?」
ディルクの指先が机を一度叩く。
「話は聞きましょうか」
エルツーはそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
言葉を探すというより、通りのいい形へ整えるような間だった。
「抹消されたパーティのリストを頂きたいです」
その場の空気が、わずかに止まる。
ライトニングの目が細くなる。
「……抹消?」
ディルクはすぐには答えなかった。
ただ、エルツーを見ている。
今の要求が思いつきではないことを測るような視線だった。
「理由を聞いても?」
「もちろんです」
エルツーは静かに続ける。
「現役の人材は、今の評価軸の中にいます。
でも抹消されたパーティには、その軸から外れた人材がいるはずだ」
ディルクは無言。
「失敗した。消えた。吸収された。
あるいは、ひっそり切り捨てられた。
そういう記録の中に、“今のガイロスでは使いづらいけど、組み方次第で生きる人材”が埋もれている可能性が高い」
ライトニングは腕を組んだまま、低く言った。
「死人漁りみたいな話ね」
「そう聞こえるかもね」
エルツーは否定しない。
「でも、今欲しいのは“まともな成功者”じゃない。
今の評価制度に乗れなかった人たちの残り香だよ」
ディルクがそこで、初めて小さく息を漏らした。
笑いとも、感心ともつかない音だった。
「……なるほど」
彼は背もたれに体を預ける。
「抹消されたパーティ。
つまり、名簿から消えた編成の履歴か」
「ええ」
「そこには解散理由も、事故歴も、内部不和も、処分記録も混ざる」
「承知の上です」
「見て気分の良いものではありませんよ」
「知っています」
ディルクは指先で机を二度叩く。
「なぜ、そこまで古い記録に価値があると思う?」
エルツーは少しだけ視線を落とし、それから答えた。
「組み合わせの失敗は、能力の否定と同じじゃないからです」
ライトニングがそちらを見る。
「……」
「強い人間同士でも壊れる。
逆に、いびつな人間同士でも噛み合う。
抹消されたパーティの記録には、“何が駄目だったか”だけじゃなく、“何が惜しかったか”も残ってることがある」
ディルクの目が細くなる。
「惜しかった、か」
「ええ。
今の僕に必要なのは、完成品じゃない。
未完成のまま切られたものの痕跡です」
ライトニングはまだ納得しきっていない顔だったが、口は挟まなかった。
代わりに、じっとエルツーを見ている。
まるで、こいつは本気でそこまで掘るつもりなのか、と測っているみたいに。
ディルクはやがて小さく笑う。
「面白い要求です」
「通りますか?」
「即答はできませんね」
彼はそう言いながらも、引き出しの鍵に手をかけた。
「抹消済みのパーティ記録は、表には出さない。
現役への影響もあるし、処理の仕方を誤れば古傷を掘り返すことにもなる」
「ええ」
「だが」
鍵が回る。
「投資側として、あなたの“引き出し”には興味がある」
引き出しから取り出されたのは、薄い革綴じの帳簿だった。
表紙に記号だけが刻まれている。
一般の閲覧用ではないことが、一目で分かる。
ディルクはそれを机の上に置き、指先で軽く押さえたまま言う。
「全部は渡しません」
エルツーは黙って聞いている。
「まず、過去五年で抹消されたパーティのうち、
人的損耗ではなく“評価切り”で処理されたものに限る。
それと、主要メンバーの現状が追える範囲の記録だけです」
「十分です」
ディルクは帳簿を中央へ滑らせた。
「では、見てみるといい」
ページをめくる音だけが、部屋の静けさに響く。
エルツーの目は速い。
名前。
役割。
抹消理由。
残存メンバー。
評価欄の癖。
必要なところだけを、静かに拾っていく。
そして、三枚目の途中で――その指が止まった。
ライトニングが気づく。
「……何かいたの?」
エルツーは答えない。
ただ、その記録をじっと見ていた。
ディルクも表情を変えないまま問う。
「気になる名前が?」
エルツーは、ほんのわずかに目を細める。
「ええ」
その声は静かだった。
けれど、今まででいちばん確信を含んでいた。
「……いましたね」
帳簿に記されていたのは、一人の男の名だった。
**フェルク**
通称――**プラナリア**
元S級パーティ《エメラルドの風》メンバー。
資金難により更新未達、S級剥奪。
現在、冒険者免許停止中。復帰には再講習・実力試験が必要。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
ライトニングが低く呟く。
「……プラナリア」
「知ってる?」
エルツーが視線を落としたまま問う。
ライトニングは腕を組み直した。
「名前だけは。
しぶとい男だって聞いたことがある」
ディルクがそこで淡々と補足する。
「しぶとい、という評は間違っていませんね。
あらゆる意味で」
エルツーの指先が、その名の上で止まったままになる。
「剥奪後は?」
「生きていますよ」
ディルクの返答は簡潔だった。
「ただし、目立つ表舞台には戻っていない。
登録だけは残っているが、高難度帯にもいない。
落ちぶれたにしては、妙なところで見栄を捨てていない男でした」
エルツーはそこで、ようやく帳簿から顔を上げた。
「会えますか」
「会おうと思えば」
「居場所は?」
ディルクは少しだけ間を置いたあと、紙片を一枚取り出した。
机の上へ置く。
「最後の記録なら残っています」
そこに書かれていたのは、南外縁区の一角。
灰鴉通り。
酒場《水底の舟》。
ライトニングが眉を寄せる。
「……嫌な場所」
「ええ。
健全な再起を考える人間が好む通りではありません」
エルツーは紙片を手に取った。
「でも、生き残った男が流れ着くにはちょうどいい」
ディルクはその言葉を否定しなかった。
「今日のところは、その一件だけです」
「一件だけ?」
「欲張らない方がいい。
フェルクを本当に拾えるなら、それだけで次の話に進める」
ライトニングが口を開く。
「私も行く」
エルツーがそちらを見る。
「いいの?」
「素性も分からない輩に、背中は預けられないって言ったでしょ」
淡々とした口調だった。
だが、最初にそれを言った時とは少し違う。
「だから、預けるに足るか、自分の目で見る」
エルツーは一拍置いてから、小さく頷いた。
「了解」
アムラが嬉しそうに羽を震わせる。
「へえ。二人旅の始まりだ」
ディルクは椅子にもたれたまま、その様子を見ていた。
「では、行ってきなさい。
南外縁区は日が落ちると余計に面倒です。
会うなら明るいうちがいい」
エルツーは紙片を懐にしまう。
「ありがとうございます」
「礼は、連れてきてからで結構」
その言葉に、エルツーはただ目を細めるだけだった。
ライトニングも黙って踵を返す。
剣士らしいまっすぐな歩き方だったが、その背にはさっきまでとは違う目的があった。
扉が開く。
部屋の外の廊下は静かで、下の喧騒が遠くに聞こえる。
二人が出ていく直前、ディルクが最後に声をかけた。
「エルツー君」
「はい」
「フェルクは、拾うなら丁寧に拾いなさい。
ああいう男は、雑に扱うとこちらの手まで噛みます」
エルツーは振り返らずに答えた。
「わかってます」
ライトニングがその横顔をちらりと見る。
「本当に?」
「たぶん」
「……その言い方、やっぱり腹立つ」
二人はそのまま廊下を歩き出す。
紙片に書かれた名だけが、次の行き先として確かに重みを持っていた。
**フェルク。
通称、プラナリア。**
元S級パーティ《エメラルドの風》メンバー。
更新に届かず、剥奪された男。
エルツーはその名前を心の中でもう一度なぞる。
「……また骨が折れそうだな。」
その声に、ライトニングは何も返さなかった。
ただ歩幅だけは、彼と並ぶ速さに揃っていた。
◇
南区の外縁部は、帝都ガイロスの中でも比較的低所得層の住民が集う場所だった。
石畳は中央区ほど丁寧に整えられておらず、建物の外壁にも年季が出ている。
けれど、荒れているわけではない。
声は大きく、笑いも多い。
治安が悪いというより、皆がそれぞれの狭い生活圏の中で、今ある日々をそれなりに満喫しているような空気だった。
向上心に満ちた街ではない。
上を目指して爪を研ぐような熱は薄い。
だがその代わり、肩肘を張らずに生きている者が多い。
帝都の中心部のような張り詰めた選別の匂いが、ここにはあまりなかった。
そのさらに奥。
灰鴉通りは、風俗街だった。
夕方にもなれば灯りが色づき始め、窓辺には濃い化粧の女たちが凭れかかる。
甘い香の匂い。
笑い声。
酔客の緩んだ声。
呼び込みの男たちの、どこか芝居がかった口上。
通り全体が、湿った熱を持っていた。
ライトニングは眉間に皺を寄せたまま歩いていた。
当然だった。
こんな場所に、あまりにも彼女は浮いている。
切れ長の眼。
薄い桃色の髪。
手入れの行き届いた装備。
鎧を纏っていても、その立ち姿の気配までは隠せない。
まして、元々の眉目秀麗さがある。
周囲の視線が向かないはずがなかった。
「……見られてる」
低い声で、ライトニングが言う。
エルツーは前を見たまま答える。
「そうだね」
「そうだね、じゃない」
彼女はさらに眉を寄せる。
「明らかに好奇の目で見られてるんだけど」
「まあ、そりゃそうでしょ」
「他人事みたいに言わないで」
アムラが肩口でくすくす笑う。
「そりゃ、この辺にそんな綺麗な女剣士が歩いてたら目立つよねえ」
もちろん、ライトニングには聞こえない。
通りの端から、男たちの視線が流れてくる。
露骨なものもあれば、ちらりと盗み見るだけのものもある。
女たちもまた、面白そうに二人を見ていた。
「おや、場違いなのが来たね」
「騎士様のお散歩かい?」
「そっちの姉さん、店、間違えてるよ」
そんな軽口が飛ぶ。
ライトニングのこめかみがぴくりと動いた。
だが、何も言い返さない。
言い返したところで面倒が増えるだけだと分かっているのだろう。
その横で、エルツーは風俗店の甘美な誘惑にも目もくれず、ズカズカと通りを進んでいく。
左右から漂う香油の匂いも、覗き込む女たちの甘い声音も、呼び込みの男の胡散臭い笑顔も、まるで視界に入っていないみたいだった。
ライトニングはそれが少し意外だったのか、ちらりと横目で見る。
「……あなた、こういう場所慣れてるの」
「慣れてるというか、目的があるからね」
「ふうん」
「寄り道してほしかった?」
「誰が」
即答だった。
エルツーは小さく笑う。
灰鴉通りをさらに奥へ進むにつれ、通りの色は少しずつくすんでいく。
表通りの派手な店構えから外れ、長く居ついた客と店の間だけで回っていそうな、小さく古びた店が増えていく。
その一角。
目立たない場所に、看板だけはやけに丁寧に磨かれた酒場があった。
**《水底の舟》**
木の看板にはそう記されている。
店先は狭く、扉も重そうだ。
華やかさはない。
だが、長く残っている場所特有のしぶとさがあった。
エルツーが足を止める。
「ここだね」
ライトニングは店を見上げ、嫌そうに眉をひそめたままだった。
「……本当に、こういう場所にいるの」
「いると思うよ」
「根拠は?」
「落ちたけど、完全には沈みきれない人間が選びそうな店だから」
ライトニングがじろりと睨む。
「言い方」
「ごめん」
謝りながらも、エルツーはもう扉に手をかけていた。
アムラが嬉しそうに囁く。
「さあて。“プラナリア”はどんな男かな」
扉が開く。
中は外より少し暗かった。
酒と煙草と煮込みの匂い。
古い木材の湿った香り。
客の声はあるが、表通りほど騒がしくはない。
派手に騒ぐ店ではなく、沈んだ者が沈んだまま飲める場所、という感じの空気だった。
何人かの客がちらりと入口を見る。
その視線のほとんどはライトニングに吸われ、それからエルツーへ流れ、最後に「面倒そうだ」と言いたげに逸れていく。
カウンターの向こうには、無精ひげの店主がいた。
年齢は五十前後か。
磨いたグラスを布で拭きながら、入ってきた二人をじっと見ている。
エルツーは迷わずカウンターへ歩いていった。
「フェルクに会いたいんだけど」
店主の手が止まる。
ほんの少しだけ。
それから何でもない顔に戻し、低く返した。
「知らねえな」
ライトニングが横で小さく息を吐く。
「いかにもな返しね」
エルツーは店主を見たまま、懐からディルクにもらった紙片を取り出し、カウンターの上へ置いた。
「ビリジオンのディルクから」
店主の目が、紙片へ落ちる。
一拍。
二拍。
やがて、面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「……裏だ」
ライトニングが眉を上げる。
「早」
店主は顎で奥をしゃくる。
「だが、機嫌は保証しねえ。
それと、壊すなよ」
「努力するよ」
「お前じゃなくて、そっちの剣士だ」
ライトニングの目が冷える。
「壊しません」
店主はそれ以上言わず、またグラスを拭き始めた。
エルツーは奥へ向かう。
ライトニングも黙って続く。
店の裏手へ回ると、表の空気とは少し違う、湿った静けさがあった。
樽、木箱、空瓶、古びた椅子。
その奥、壁に背を預けるようにして、一人の男が座っていた。
長身。
少しくたびれた上着。
無造作に伸びた髪。
顔立ちは悪くないのに、全体の印象がどうにも雑だ。
だが、ただ崩れているだけとも違う。
気を抜いているように見えて、抜ききってはいない男の気配があった。
片手には酒瓶。
もう片方の腕には、古い傷跡が薄く残っている。
男は二人の足音に気づくと、面倒そうにだけ目を上げた。
その目が、ライトニングを見て一瞬だけ止まる。
次にエルツーへ移り、細くなる。
「……なんだ。珍しい組み合わせだな」
低く、少し掠れた声だった。
エルツーはその前で立ち止まり、静かに言う。
「プラナリアのフェルク?」
男は酒瓶を傾け、喉を鳴らしてから答えた。
「そう呼ぶやつは、だいたい昔を知ってるやつだ」
口元が少しだけ歪む。
「で?
どっちだ。金か、面倒事か」
アムラが小さく笑う。
「どっちもじゃない?」
エルツーはその問いに、少しだけ目を細めた。
「もう一度、やり直せる話」
フェルク――通称プラナリアは、露骨に嫌な顔をした。




