石の上にも3日
ビリジオンを出た時には、もう空はすっかり夜の色を深めていた。
ディルクの言葉は、まだ耳の奥に残っている。
――まず一人。三日以内に、連れて来てください。
三日。
短い。
短すぎる。
帝都は広い。
人は多い。
強い者も、落ちた者も、燻っている者もいる。
けれど、その中から「最初の一人」と呼べる相手を見つけて、話を通して、連れて来る。
それを三日でやれと言われたのだ。
「えらい急かすねえ」
肩のあたりを漂いながら、アムラが楽しそうに言う。
「急かされんと、君ってずっと考え込んで動かなそうだもん」
「そんなことないよ」
「あるよ」
即答だった。
「ぼく妖精だもん」
「それが何の説明になるの」
「なるよ?」
ならない。
けれど、今はそれを突っ込む気力もあまりなかった。
候補がいないわけではない。
むしろ、一人だけ妙に頭に残っている顔がある。
ただ、その相手があまりにも危険だっただけだ。
「行くの?」
アムラが顔を覗き込んでくる。
「今日は帰る」
「へえ。慎重」
「焦ってる相手に夜の勢いで話しかけても、ろくなことにならない」
「刺される?」
「たぶん普通に」
「面白いのに」
「僕は面白くない」
宿へ戻る道すがら、帝都の夜は相変わらず騒がしかった。
勝った者が騒ぎ、負けた者は見えないところで潰れている。
そんな街の中を、エルツーはいつもより少し遅い足取りで歩いた。
宿の前に着くと、見慣れた明かりが漏れている。
女将のいる食堂の声。
皿の触れ合う音。
日常の匂い。
そこに少しだけ救われた気もしたし、逆に余計に胸が重くなった気もした。
扉を開ける。
「遅っそ!」
真っ先に飛んできたのは、案の定ナナの声だった。
受付台の奥から、ナナが身を乗り出してくる。
青みがかった長い髪を後ろへ流し、少し童顔の顔を思いきりしかめていた。
身長は高くない。160cmあるかないかくらいだろう。
けれど、勢いだけならこの宿の誰より強い。
「ちょっとツウ、何時だと思っとると!? また変な時間までふらふらして!」
いつものナナだ。
エルツーはそこで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「ごめん」
「ごめんじゃなか! 晩ごはんどうするん? 食べると食べんと?」
「食べる」
「最初からそう言えばよかろうもん」
ガミガミ言いながらも、ナナは女将の方へ顔を向ける。
「母さん、ツウのご飯まだある?」
「あるよ。あんたが残しとけってうるさかったけんね」
「うるさくなか!」
いつものやり取り。
いつもの空気。
クビになったことは、まだ知られていない。
だからこの場所だけは、まだ昨日までと同じ顔をしている。
それがありがたくて、少しだけつらかった。
アムラはテーブルの上をふわふわ飛びながら、興味深そうに辺りを見回していた。
「へえ、ここなんだ」
「静かにして」
「ぼく妖精だもん」
「それ免罪符になってないからね」
「なるよ?」
その夜、エルツーは部屋に戻るとすぐに横になった。
眠りたいわけではない。
ただ、明日には動かなければならないと、頭のどこかがずっと急かしていた。
ディルクの三日。
候補の顔。
自分の今後。
考えることは多いはずなのに、不思議と向かう先だけはもう決まっていた。
翌日。
朝のギルドは、夜よりずっと人が多い。
受付も、掲示板も、酒場スペースも、朝からざわついている。
エルツーは正面からS級案件の掲示板へ向かった。
いた。
S級案件の掲示板の前。
人が自然と距離を空ける、その中心に女は立っていた。
桃色の長い髪。
切れ長の目。
黄色い瞳。
黙っていれば、誰もが振り返るような美人だ。
だが今は、その整った顔立ちがむしろ近寄りがたさを増していた。
眉間には深く皺が寄り、鋭い視線が依頼書を射抜いている。
掲示板を見ているだけのはずなのに、周囲の冒険者たちは明らかに距離を取っていた。
本人はたぶん、そのことに気づいていない。
「うわ、すごい顔」
アムラが素直に言う。
「静かに」
「でも本当だよ」
「本当でも静かにして」
エルツーは少し離れた位置で足を止め、その姿を見た。
速い相手だと、すぐにわかった。
体重の乗せ方が軽い。
重心に無駄がない。
いつでも踏み込める立ち方をしている。
腰のショートソードは刺突に寄せた型。
しかも、あの女はただ剣が速いだけじゃない。
剣筋に魔法を重ねる。
器用に、そして容赦なく。
まともに向き合って見える相手ではない。
S級冒険者、ライトニング。
二つ名は――雷鳴。
実力だけなら、本物だ。
だが同時に、今の彼女は崖っぷちにいた。
視線の動きが、依頼を選んでいるというより、切り捨てている。
呼吸が浅い。
焦りを押し殺している人間特有の、余白のない立ち方をしている。
更新まで、あと二週間。
エルツーは、その事実を前から薄く掴んではいた。
けれど、今こうして実際に見て、確信に変わる。
パーティを失ったS級。
強すぎるがゆえに連携に向かない女。
拾える者がおらず、本人も頭を下げるような性格ではない。
条件は悪くない。
――悪くないどころか、最初の一人としては最適だ。
だからこそ、危険でもある。
「そこまで見る必要ある?」
アムラが横顔を覗き込んでくる。
エルツーは視線を外さずに答えた。
「ある」
「へえ」
「最初の一人だから」
その時だった。
こつん、と後ろから軽く背中を小突かれた。
「っ」
振り向くと、ナナが呆れた顔で立っていた。
青みがかった長い髪を揺らし、少し童顔の顔にじっとりした視線を浮かべている。
昼間のギルド職員用の服のままらしく、宿で見る時より少しだけきっちりして見えた。
「何しよると、あんた」
声は低い。
だが、その響きには昨日までのぎこちなさとは別の、いつものナナっぽさが少し戻っていた。
「いや……別に」
「別に、じゃなかろうもん」
ナナはエルツーの視線の先をたどる。
S級掲示板。
その前に立つ、桃色の髪の女。
そして、またエルツーを見る。
「クビになった次は女漁りね?」
「違う」
「何が違うと」
「漁ってはない」
「そこじゃなか」
ナナは小さくため息をついた。
「ほんと、そういうとこよね……」
呆れているようで、どこか少し安心した顔でもあった。
どう接していいかわからずにいたくせに、こうして軽口を叩ける隙があったことに、本人の方がほっとしているのかもしれない。
「で、何。あの美人さんに話しかける勇気もなく、遠くから見よるだけ?」
「言い方」
「違うと?」
エルツーは少しだけ黙った。
「……見てるんだよ」
「何を?」
「色々」
その答えに、ナナはますます怪しそうな顔をした。
「余計だめやろ、それ」
「たぶんね」
「たぶんで済ますな」
ナナはもう一度ライトニングの方を見て、それからエルツーに向き直る。
「まあ、仕事中やけん深くは聞かんけど。変なことだけはせんでよ?」
「善処します」
「今の返事、一番信用ならん」
そう言いながら、ナナは少しだけ表情を緩めた。
完全に元通りではない。
けれど、昨日の夜のようなぎこちなさよりはずっとましだった。
その日は、ライトニングに話しかけなかった。
ただ見た。
ひたすら見た。
朝、昼、夕方。
ギルド内での動き。
掲示板から離れる時間。
何を受け、何を切り、誰と話し、誰を無視するのか。
ライトニングは何度かエルツーの方を見た気がした。
だが、視線が合ってもこちらからは動かない。
観察される側に回った者は落ち着かない。
それもまた、反応の一つだった。
夜、宿に戻る。
扉を開けると、いつもならすぐ飛んでくるナナの声が、その日は少しだけ遅れた。
「……おかえり」
エルツーは一瞬だけ足を止めた。
ナナの顔を見る。
視線が合う。
そして、向こうが先に少しだけ視線を逸らした。
ああ、昼のうちに知ったんだな、とエルツーは思った。
ナナは昼間、ビリジオンのギルドで働いている。
噂が回るより早く、職員として事実を耳にしたのだろう。
だから今、いつもの調子が出せない。
「ただいま」
エルツーがそう返すと、ナナは何か言おうとして、やめた。
それから妙にぎこちない手つきで帳簿を閉じる。
「……ご飯、食べる?」
「食べる」
「そ、そう」
短い沈黙。
それからナナが、小さく息を吐いた。
「別に、可哀想とか思っとらんけんね」
言い方が、いかにもナナだった。
でも、続きが少しだけ詰まる。
「ただ……なんて声かけたらよかかわからんだけ」
エルツーは、そこで少しだけ笑った。
「ありがとう」
「礼言われる筋合いはなか」
「うん」
「うん、じゃなか」
いつもの調子に戻ろうとして、戻りきれていない。
その不器用さが、逆に痛かった。
アムラはその様子を見て、面白そうでもあり、少しだけ静かでもあった。
「いい子だね」
「そうだね」
「素直じゃないけど」
「そこも含めて」
二日目。
エルツーは朝からライトニングに声をかけた。
もう十分見た。
立ち位置も、癖も、焦りも、たぶん見誤っていない。
S級掲示板の前で振り向いたライトニングは、昨日よりさらに機嫌が悪そうだった。
「……誰だ」
「エルツーです」
「知らん」
「昨日ずっと見てたんですが」
「余計に気持ち悪いな」
それはそうかもしれない。
「話があります」
「ない」
「あります」
「私にはない」
ぴしゃりと言い切る。
ライトニングは掲示板から目を離さないまま、吐き捨てるように続けた。
「今、虫の居所が悪い。失せろ」
「更新、あと二週間ですよね」
ぴたりと空気が止まる。
黄色い瞳が、ゆっくりこちらを向いた。
その目は綺麗だった。
綺麗だからこそ、刺さる。
「……誰に聞いた」
「それなりに」
「曖昧だな」
「今のところは」
ライトニングは舌打ちした。
「で?」
「僕と組みませんか」
「断る」
即答だった。
迷いすらない。
「まだ何も言ってません」
「言われる前に断っとく。お前、怪しい」
「自分でもそう思います」
「なおさらだ」
ライトニングはまっすぐエルツーを見る。
「今の私に近づいてくる時点でろくでもない。しかもお前みたいな、いかにも裏で何か考えてそうな男は特にだ」
ひどい言い草だ。
でも、まあ、間違ってもいない。
「話だけでも」
「断る」
「ビリジオンの」
「断る」
「ギルドマスターが」
「断ると言ってるだろうが!」
一瞬、周囲の視線が集まる。
ライトニングはそれを睨み返して追い散らし、それから低い声で言った。
「今の私は、見世物になる気も、怪しい話に乗る気もない。わかったら二度と話しかけるな」
そこまで言われてしまえば、さすがに引くしかない。
エルツーは小さく息を吐いた。
「わかりました」
「最初からそうしろ」
「でも明日、もう一回来ます」
ライトニングのこめかみに、ぴくりと青筋が浮いた気がした。
「失せろ」
「はい」
その日は、本当にそれで終わった。
夜。
宿に戻ると、ナナは昨日より少しだけいつもの調子を取り戻していた。
それでもまだ、完全には戻れていない。
「……あんた、ちゃんと寝とると?」
「一応」
「一応じゃなくて、ちゃんと寝んね」
「はいはい」
「その返事むかつく」
少しだけ、いつものナナに近い。
エルツーはそれに少しだけ救われた。
そして三日目。
期限当日。
ライトニングは昨日と同じ場所にいた。
同じように怖い顔で、同じように焦っている。
ただ、昨日と決定的に違うのは――彼女の目の奥に、わずかな迷いが入っていることだった。
候補が、減ったのだろう。
エルツーはまっすぐ近づいた。
「また来たのか」
ライトニングの声は低い。
「来ますよ」
「しつこいな」
「三日以内なので」
「……は?」
そこでようやく、ライトニングが初めて少しだけ引っかかった顔をした。
「何の話だ」
「僕にも期限があるんです」
エルツーは静かに言う。
「ビリジオンのギルドマスターから、一人連れて来いと言われてます。三日以内に」
ライトニングは数秒黙った。
その沈黙は、昨日までとは少し違う。
怒りだけではなく、計算が混じっている。
「……本当に、ギルドマスターが絡んでるのか」
「ええ」
「お前みたいなのに?」
「ひどいですね」
「事実だろ」
「それもそうです」
ライトニングは眉間を押さえた。
周囲の喧騒が、そこだけ少し遠くなる。
「お前、何が目的だ」
「再起です」
「……」
「終わりたくない」
短い言葉だった。
飾り気もない。
綺麗でもない。
でも、その一言だけは嘘じゃなかった。
ライトニングはじっとエルツーを見た。
この男は怪しい。
信用もできない。
細くて、地味で、どう見ても自分より弱い。
けれど、妙に目だけは逸らさない。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけ引っかかった。
「……私はな」
ライトニングが、ぽつりと言う。
「お前みたいな得体の知れん男、嫌いだ」
「光栄です」
「褒めてない」
「でしょうね」
「それに、こんな話、普通なら信じるわけがない」
「はい」
「最悪、私を売るつもりかもしれん」
「否定はしますけど、信じなくていいです」
ライトニングはそこで、大きく息を吐いた。
更新まで二週間。
パーティなし。
時間なし。
候補なし。
そして目の前には、どう考えても怪しい男。
最悪だ。
最悪だが、それでも他に道が見えていないのもまた事実だった。
「……いいだろう」
低い声で、そう言った。
その顔は、まさに苦虫を噛み潰したようだった。
承諾というより、敗北を認めないまま選んだ妥協。
そういう顔だった。
「ただし仮だ」
「はい」
「怪しいと思ったらその場で斬る」
「穏便にお願いしたいです」
「安心しろ。刺突は得意だ」
エルツーは小さく肩をすくめた。
ライトニングはなおも不機嫌な顔のまま続ける。
「勘違いするなよ。背に腹は変えられんだけだ。こんな男に負けることはないし、最悪ぶっ飛ばせば済む」
「そうですね」
「軽く流すな。腹立つな……」
そう言いながらも、もう完全に拒絶する気はないらしい。
アムラが肩のあたりで、けらけら笑った。
「やったね」
「静かに」
「ぼく妖精だもん」
「またそれ」
だが今は、その軽さが少しだけ助かった。
一人目。
それはまだ、たった一人だ。
パーティには程遠い。
再起なんて言うには、まだ小さすぎる一歩だ。
それでも。
幕は、まだ降りていなかった。




