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3/20

蛇の道の男

「あの、ギルドマスターがお待ちです」


 エルツーは、わずかに目を細めた。


 アポは取っていない。

 それどころか、今夜ここへ来ると決めたのも、ついさっきだ。


 なのに、待っている。


 夜番の職員は、それ以上なにも言わず、奥の廊下へと身体を向けた。

 だが、その前の一瞬、たしかに戸惑いがあった。


 その反応は当然だった。


 彼女から見れば、今のエルツーはただの地味な若い冒険者だ。

 黒髪で、男にしては少し長めの髪。

 細身で、目つきは垂れ気味。

 顔立ちは悪くないが、華があるわけでもない。

 まして、この時間にギルドマスターが待つような“特別な人間”には見えない。


 ほんの少し前までは違った。


 《天龍の羽》の一員として出入りしていた頃なら、職員の空気も自然と変わった。

 受付は丁寧になり、視線には緊張と期待が混じった。

 彼が主役ではなくとも、パーティの一員として扱われていた。


 だが今は違う。


 目の前にいるのは、天龍の羽の誰かではなく、ただの男一人だ。

 夜番の職員が一瞬「誰この人?」という顔をしたのも、無理はなかった。


 エルツーは、それを妙に冷静に受け止めていた。


 痛くないわけではない。

 だが、もう今夜だけで何度も似たような視線を浴びている。

 果物屋の店主。

 酒場の知り合い。

 通りすがりの親子。


 肩書きを失うとは、こういうことなのだと、少しずつ体に染みてきていた。


「ほらね」


 肩のあたりで、アムラがくすくす笑った。


「君、もうちゃんと一般人だ」


「その言い方、やめてくれない」


「でも本当じゃん」


「静かにして」


 エルツーは小さく口の端だけを動かした。


 夜番の職員が、ちらりとこちらを見た。

 また独り言に見えたらしい。

 ほんのわずかに訝しむ目だ。


 その目線が、逆に今の自分の立場をはっきりさせる。


 一般人。

 あるいは、それ以下。


 少なくともこの場では、もう“お気に入りのS級パーティの一員”ではない。


 夜番の職員に案内され、エルツーは廊下の奥まで進んだ。


 ビリジオンの内部は見慣れている。

 初めて来たわけではない。


 天龍の羽に所属していた頃、ギルドのお気に入りとして呼ばれることは少なくなかった。

 大口の依頼。

 非公開案件。

 スポンサー絡みの話。

 そのたびに、ここへ来た。


 だからこの廊下の長さも、曲がり角の位置も、突き当たりの執務室の扉も、全部知っている。


 それなのに、今日はどこか別の場所みたいだった。


 同じ廊下のはずなのに、足音だけがやけに遠く響く。

 同じ扉のはずなのに、今夜は向こう側にあるものが少し違う気がする。


 見慣れた場所なのに、立場が変わるだけでこんなにも温度が変わるのかと、エルツーは妙に感心してしまった。


 やがて、執務室の手前にある小さな受付机が見えてくる。

 昼間なら来客や書類の受け渡しをさばく場所なのだろう。

 そこに一人の女性が座っていた。


 きっちりまとめた髪。

 無駄のない服装。

 姿勢も、机上の書類の整え方も、いかにも有能な秘書という雰囲気だった。


 彼女は書類から顔を上げ、エルツーを見る。

 その視線が一瞬だけ止まった。


 驚きではない。

 戸惑いでもない。

 もっと事務的な、記憶の棚を探るような目だった。


 ――ああ、そういえば、こんな男もいたな。


 そんな表情だった。


 天龍の羽の出入りに混じって、何度か見たことはある。

 だが、目の前の男個人を強く記憶していたわけではない。

 華やかな面々の中に一人だけいた、地味な裏方。

 その程度の認識。


 次の瞬間には、彼女は机上のメモへ目を落とし、表情を切り替えた。


「……エルツー様、ですね」


 わずかに疲れの滲んだ声音だった。

 急な待機を命じられたことに、少し辟易しているのがわかる。

 それでも雑にはしない。

 ディルクの補佐を務めるだけの有能さが、その所作にはあった。


 夜番の職員が一礼して、そこで下がる。


 残った秘書の女性――サラは、書類を脇へ寄せて立ち上がった。


「本来でしたら、もう本日の面会は終了しております」


 そこまで言ってから、小さく息を吐く。


「ですが……ギルドマスターのご指示ですので」


 その“ですが”に、疲れがにじんでいた。

 急に呼ばれ、急に待機させられ、しかも来たのは見慣れない大物でもなく、印象の薄い若い男。

 正直、少し辟易しているのだろう。


 それでも仕事はきっちりしているあたり、やはり優秀だった。


「少々お待ちください」


 サラは執務室の扉の前まで進み、二度、控えめに叩いた。


「ディルク様、お客様です」


 間を置かず、中から落ち着いた声が返る。


「お通ししてください」


 サラはやはり少しだけ納得のいかない顔のまま、扉を開いて脇へ退いた。


「どうぞ」


 エルツーは一礼して、執務室へ入った。


 室内の空気は、以前と変わっていない。


 広さは十分。

 だが無駄なものはほとんどない。

 重厚な机。

 質の良い椅子。

 整然と積まれた書類。

 鍵付きの書棚。

 壁に飾られたものも最低限だ。


 高級感はある。

 けれど見せびらかすための豪華さではない。

 判断のためだけに整えられたような執務室だった。


 無駄がない。

 贅沢ではあるが、虚飾はない。

 人に見せるためではなく、仕事のためだけに整えられた部屋という印象だった。


 そして、その机の向こうに男はいた。


 緑がかった灰髪。

 整えられた口髭。

 痩せすぎず、太りすぎず、全体に落ち着いた印象。

 いかにも“ナイスミドル”という言葉が似合う三十四歳だった。


 目元は柔らかい。

 声も穏やかだ。

 けれど、その柔らかさの奥にあるものを誰も見誤れない。


 この男は、たぶん優しいだけの人ではない。


 ディルクは椅子に腰掛けたまま微笑んだ。


「お久しぶりです、エルツーさん」


 エルツーは一礼する。


「……お久しぶりです、ディルクさん」


「ええ」


 ディルクは静かに頷いた。


「ですが、こうしてあなた個人とお話するのは、案外初めてかもしれませんね」


 その言い方に、エルツーは少しだけ笑った。


「たしかに」


 今までは、いつだって《天龍の羽》の一員としてここにいた。

 交渉も説明も、主に前へ出るのはセリスやカティアナだった。

 エルツーは必要に応じて資料を出し、情報を補足し、段取りを整える側だった。


 ディルクに顔を覚えられていても不思議ではない。

 だが、真正面から“エルツー個人”として向き合うのは、今夜が初めてだった。


「お座りください」


「失礼します」


 椅子に腰を下ろす。

 その座り心地まで、妙に変わって感じた。


 アムラは、勝手に書棚のあたりをふわふわ飛んでいた。

 やはりディルクにも見えていないらしい。


「さて」


 ディルクが指を軽く組む。


「あなたが今夜ここに来ることは、少し前から予想していました」


 エルツーは目を細める。


「少し前?」


「ええ」


 ディルクは穏やかな顔のまま続ける。


「天龍の羽に動きがあったと聞いてからです」


「動き」


「編成に関する話し合いが始まっている、と」


 エルツーは何も言わなかった。


 ディルクは構わず続ける。


「私は以前から、あなたに少し興味があったんですよ」


 その一言に、エルツーの視線がわずかに上がる。


「興味?」


「ええ」


 ディルクは頷いた。


「天龍の羽は、非常にわかりやすいパーティです。

 剣士、祈り手、参謀、斥候、魔法。

 全員が華やかで、役割も明瞭で、何より商品価値が高い」


 商品価値。

 その言い方に、エルツーは少しだけ笑いそうになった。

 だが否定はできない。


 天龍の羽は、強さだけで成り立っているわけではない。

 人気があり、スポンサーが付き、帝都にとって都合のいい“顔”でもある。


 ディルクはそこで、ほんの少しだけ声音を落とした。


「その中で、あなただけが妙に説明しづらかった」


 部屋が静かになる。


「弱いわけではない。

 かといって、前に立つほど強くもない。

 補助や裏方としては優秀そうだが、それならなおさら、なぜあなたが“あの場所”にいるのかがわからない」


 一拍。


「しかも古参メンバーだ」


 エルツーは視線を逸らさない。


 ディルクもまた、まっすぐこちらを見ている。


「探れば探るほど、不思議な男だと思いました。

 この男は一体、なぜ天龍の羽にいるのか、と」


 その問いは、今まで誰にも真正面から向けられたことがないものだった。


 だからこそ、少しだけ息が詰まる。


「それで」


 エルツーは静かに返す。


「切られると思ったんですか」


「ええ」


 ディルクはためらいなく言った。


「いずれは」


 穏やかな顔のまま、あまりにもはっきりと。


「天龍の羽は若い。

 若くて、勢いがあって、正しさに迷いが少ない。

 そういう集団では、異質なものはいずれ最後に浮きます」


「……異質、ですか」


「ええ」


 ディルクの目はやわらかい。

 けれど言葉は変わらず冷静だった。


「そして、切られるならこのタイミングだろうと思っていました。

 だから待っていたんです」


「僕を?」


「あなたを、ですね」


 ディルクは微笑んだ。


「もし私の目に狂いがなければ、あなたはただ使い捨てられて終わる男ではない。

 そう思っていましたから」


 使い捨て。


 その言葉に、ディルク自身の奥に少しだけ別の色が差した気がした。

 ほんの一瞬だけだ。

 だが、ただの経営者ではない何かがそこにあると、エルツーは感じた。


 ただ、それを今ここで掘る気はなかった。


「……それで、待ってたんですね」


「ええ」


 ディルクは頷く。


「そして、来た」


 短い言葉だった。

 だが、それだけで十分だった。


 来たこと自体が、エルツーへの評価になっている。


「では単刀直入に聞きます」


 ディルクが机の上で指を組み直す。


「何をお望みですか?」


 エルツーは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 この夜ここへ来るまで、何度も頭の中で反芻した言葉がある。

 馬鹿げている。

 笑われてもおかしくない。

 けれど、ここで引っ込めたら本当に終わる気がした。


「創設資格に至る通常ルートを飛ばす方法が知りたいです」


 ディルクの笑みが、わずかに深くなった。


 驚きはない。

 むしろ、やはりそう来たかという顔だった。


「大胆ですね」


「そうですか?」


「追放されたその日に、そこまで言う方は多くありません」


 ディルクは椅子に深く座り直した。


「ご存じの通り、追放された冒険者は、すぐに新しいパーティを創設できません。

 数回のクエストを受け、実績を積んだうえで、初めて創設面接に進める」


「ええ」


 エルツーは頷く。


「わかっています」


「建前としては、冒険者を守るための制度です」


 ディルクは淡々と言った。


「未熟な寄せ集めが無謀な編成で死なないように。

 帝国の貴重な商品である冒険者を、安く壊さないための保護制度」


 一拍。


「ですが実際には、一度折れた者の再起を遅らせる仕組みにもなっている」


 エルツーは黙って聞いていた。


 その通りだった。


 一見、やさしい制度に見える。

 だが実際は、一度落ちた者をすぐには立ち上がらせない。

 這い上がる前に埋もれさせるための時間稼ぎにもなる。


「普通なら、まずどこかに拾われるか、一時的に格を落として実績を作るところから始めます」


 とディルク。


「その間に使えそうな人材は他所へ取られ、目立たない者はそのまま沈む。

 制度は弱肉強食を抑えるふりをしながら、実際には序列を固定しやすくしている」


「だから飛ばしたいんです」


 エルツーは言った。


「通常ルートを踏んでいたら、間に合わない」


「何に?」


「まだ決めてません」


 そう答えると、ディルクは少しだけ笑った。


「正直でよろしい」


「ただ、今のままでは終わるだけです」


 エルツーは視線を上げる。


「それは嫌だ」


 短い沈黙。


 ディルクは穏やかな顔のまま、その言葉を受け取った。


「ありますよ」


 やがて彼は言う。


「表には出していませんが、ギルドマスター裁量で動かす案件があります。

 達成すれば、通常の創設資格や昇格規定など問題にならないくらいの実績になる。

 もちろん失敗すれば、誰も責任を取りたがらない類の仕事ですが」


「それを受けさせてください」


「いいですよ」


 あまりにも軽く返されて、エルツーは逆に眉を寄せた。


「……そんなに簡単でいいんですか?」


「いいえ」


 ディルクはにっこり笑う。


「当然、条件があります」


「でしょうね」


「あなたはパーティを作るおつもりでしょう?」


 その言葉に、エルツーはほんの少し目を細めた。


「そこまで読んでましたか」


「半分くらいは」


 ディルクは穏やかに答える。


「あなたは、自分一人で無理を押し通すタイプには見えません。

 なら次に考えるのは、“誰と組むか”でしょう」


 たしかに、その通りだった。


 エルツー一人では話にならない。

 だからこそ、今夜ここへ来たのだ。


「では条件を」


「ええ」


 ディルクは一拍置いた。


「まず一人、連れて来てください」


 エルツーは黙る。


「一人?」


「ええ。一人です」


 ディルクの声は穏やかなままだ。


「通常ルートを飛ばす特例をこちらが認める以上、あなた一人では話にならない。

 まずは、あなたが本当に人を集められる男なのか見せていただきたい」


「誰でもいい?」


「いいえ」


 ディルクは静かに笑う。


「誰でもいいなら、試験になりません」


 一拍。


「あなたが本気で再起するつもりなら、最初の一人はそれ相応の相手になるはずです」


 エルツーは少しだけ視線を落とした。


 頭の中で、何人かの顔が浮かぶ。

 落ちた者。

 燻っている者。

 切られた者。

 終わりかけた者。


 帝都には、そういう人間が少なくない。


「……連れて来たら?」


「その時点で、次の話をしましょう」


 ディルクは言う。


「私の勘が正しければ、あなたはここで終わる男ではない」


 勘。


 その言葉を、この男はあえて使った。

 理屈で固めた部屋の中央で、最後だけは理屈で片づけない。


 エルツーは小さく息を吐いた。


「わかりました」


 立ち上がる。


「まずは一人、ですね」


「ええ」


 ディルクは静かに頷いた。


「楽しみにしていますよ、エルツーさん」


 その笑みは穏やかだった。

 けれど、その奥にあるものは最後まで読み切れなかった。


 エルツーは一礼して、執務室を後にする。


 扉を閉める直前、アムラが楽しそうに笑った。


「面白くなってきたね」


 エルツーは答えなかった。

 だが、否定もしなかった。


 追放された男の夜は、まだ終わらない。


 むしろ今、ようやく次の幕が上がろうとしていた。

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