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2/20

幕は降りない

《天龍の羽》の拠点を出た時、帝都の夜はもう深くなっていた。


 石畳は昼間の熱をほとんど失い、吐く息が少しだけ白い。

 通りの両脇にはまだ灯りが残っていて、酒場からは酔った冒険者たちの笑い声が漏れてくる。


 帝都ガイロスは夜になっても眠らない。


 酒場では勝ち帰った冒険者たちが笑い、今日の成果を大声で語り合っている。

 報酬袋を卓に叩きつけ、女給に酒を頼み、明日にはもっと上へ行けると信じて疑わない顔をしている。


 けれど、その賑わいからほんの少し外れた路地裏では、別の景色がある。

 依頼に失敗したのか、仲間を失ったのか、血と泥に塗れたまま壁にもたれて座り込み、途方に暮れている者。

 折れた武器を握ったまま、しばらく立ち上がれずにいる者。

 包帯を巻いた腕を押さえ、虚ろな目で夜を見ている者。

 そういう人間が、この街には確かにいた。


 強い者は上へ行く。

 弱い者は落ちる。


 光は眩しいほど強い。

 だから、そのすぐ足元に落ちる影もまた濃かった。


 エルツーは拠点の前から少し離れたところで足を止めた。

 振り返ろうかと思ったが、やめた。


 今さら未練がましいことをしても仕方ない。

 きっともう、あの中では別の話が始まっている。

 次の依頼。

 次の遠征。

 次のスポンサーへの顔出し。

 天龍の羽から一人いなくなったところで、世界は何も変わらない。


 それより厄介だったのは、急にやることがなくなったことだった。


 明日の返却手続きはある。

 最終精算もある。

 形式上、片づけることはいくつか残っている。


 だが、それは“終わりの手続き”であって、“明日からの予定”ではない。


 いつもなら、この時間にはもう次の準備を考えていた。

 備品の確認。

 依頼先の情報整理。

 必要な携行品の洗い出し。

 誰に何を渡して、どこを詰めるか。


 そういう細かい段取りが、エルツーの役目だった。

 戦場の中心に立つことは少なくても、後ろでやることはいくらでもあった。

 むしろ、やることが途切れたことなんてほとんどない。


 その役目が、今はない。


 何をしていいかわからない。

 宿へ帰るにはまだ早い気がした。

 酒場へ行く気分でもない。

 誰かに会いたいわけでもない。


 ただ、自分の時間だけが急に余った。


 それが思っていたより、ずっと気味が悪かった。


「ほんとにあっさりだねえ」


 その声に、エルツーの肩がびくりと揺れた。


 まだいた。


 会議室で現れた、あの小さな妖精みたいな存在。

 少女じみた見た目。

 服まで着ている。

 羽は、子どもの絵本に出てきそうなくらいベタな妖精の羽だ。

 可愛い寄りの顔立ちをしているくせに、その存在だけが妙に現実から浮いている。


 エルツーは立ち止まり、もう一度だけ周囲を見回した。


 誰も反応していない。

 通行人も、酔っ払いも、露店の店主も、誰ひとりこの存在に目を向けない。


 喉の奥が、少し乾いた。


 幻覚か。

 追放の衝撃で頭がどうかしたのか。

 それとも、本当に自分にしか見えていないのか。


「ねえ、無視するの?」


 妖精――アムラは、面白そうに首を傾げた。


 可愛い。

 たしかに見た目は可愛い寄りだ。

 けれど、その可愛らしさが逆に不気味だった。

 まるで、最初から警戒を下げさせるための顔をしているみたいで。


 エルツーはすぐには返事をしなかった。

 返した瞬間、自分が本当におかしくなってしまう気がしたからだ。


 それでも、あまりに鮮明すぎる。


「……まだ、いるんだ」


 思わず口に出していた。


 すると、前を歩いていた通行人の男がちらりとこちらを見る。

 目が合った瞬間、男はわずかに眉をひそめ、足早に去っていった。


 エルツーはようやく、自分が完全に独り言を言っているように見えていることに気づいて、口元を押さえた。


「ひどいなあ。ぼくを幻扱いするんだ」


「そりゃするでしょ……」


 思わず小声で返す。


「だって、急に見えるし」


「見えるようになっただけだよ」


「何が違うの」


「ぜんぜん違う」


 アムラはくるりと一回転した。

 楽しそうだった。

 こっちが本気で困っているのに、向こうにはまるで緊張感がない。


 それが腹立たしい。

 だが、腹を立てる相手が本当にいるのかどうかすら、まだよくわからない。


 エルツーは目を細める。


「……何者?」


「アムラ」


「名前じゃなくて」


「妖精だよ?」


「余計にわからない」


 言った直後、近くを歩いていた子どもが母親の袖を引っ張った。


「ねえ、あの人ひとりで喋ってる」


「見ちゃだめです」


 母親はそう言って、子どもの手を引いて去っていく。


 エルツーは少しだけ肩を落とした。


「ほら……」


「今のところはそう見えるね」


「他人事みたいに言わないでくれる?」


「他人事だもん」


 それはそうなのだが、言い方というものがある。


 歩き出しながら、エルツーは露店の並ぶ通りへ出た。

 夜でもやっている小さな果物屋や、串焼きの屋台がある。

 ほんの少し前まで、自分もこの辺りを普通に通っていた。


 果物屋の店主が、いつもみたいに「お、兄ちゃん」と声をかけてくるかと思ったが、何もなかった。

 ただ、前の客と同じように値段を告げられただけだ。


 笑顔もない。

 おまけもない。

 覚えてすらいないのかもしれない。


 前は、少し違った。


 《天龍の羽》の一員として歩いていれば、店主が笑顔になった。

 名前を知らなくても、あのパーティの一人だと気づけば、少しだけ態度が良くなった。

 果物を買えば「ひとつ多くしとくよ」くらいは、珍しいことじゃなかった。


 けれど今は違う。


 ただの細身の若い男だ。

 黒髪で、少し疲れた顔をした、どこにでもいそうな冒険者。


 S級パーティに所属していたという肩書きは、拠点を一歩出た時点でもう消えていた。


「買わないの?」


 アムラが肩のあたりを飛びながら言う。


「……いらない」


「お金ないの?」


「あるよ」


「じゃあ気分?」


「気分」


 嘘ではない。

 腹は空いている。

 けれど、何かを食べたい気分ではなかった。


 何をしても、自分がもう“特別な側”ではないのだと確認するだけになる気がしたからだ。


 少し歩いて、今度は酒場の前を通る。

 開いた扉の向こうに、見知った顔がいた。

 何度か依頼の場で顔を合わせた中堅の冒険者だ。


 目が合った気がした。

 だが向こうは何も言わず、すぐに視線を逸らして仲間との話に戻った。


 呼び止められもしない。

 追放されたと知られているのかもしれないし、そもそももう興味がないのかもしれない。


 そのどちらでも、大差はなかった。


「すごいね」


 アムラが、悪気なく言う。


「ほんの一時間くらい前まで、そっち側の人だったのに」


「やめてくれない?」


「事実じゃん」


「今、それ一番効くから」


 アムラは少しだけ目を丸くした。


「へえ。ちゃんと痛いんだ」


「当たり前でしょ」


「もっと平気なふりするタイプかと思ってた」


 エルツーは苦笑した。


「そんな器用じゃないよ」


 それに、本当は平気じゃない。

 かなり痛い。

 腹の底の方で、まだじくじくと熱を持っている。


 悔しい。

 情けない。

 惨めだ。


 それでも泣けるほど素直でもないし、怒鳴れるほど若くもない。

 ただ、行き場のない感情がじわじわ溜まっていくだけだった。


「で、どうするの?」


 アムラがまた同じことを聞く。


「どうするって?」


「もう終わりにする?」


「終わり?」


「うん。追放されたし。向いてなかったって言われたし。じゃあ、もういいやって」


 軽い声だった。

 試しているのか、煽っているのか、よくわからない。


 エルツーは少しだけ空を見上げた。


 帝都の夜空は思ったより暗い。

 灯りが多いせいで、星はあまり見えない。


「……それでも、続くんだよね」


「何が?」


「人生」


 アムラは、そこで初めて少しだけおとなしくなった。


「終わったって思っても、明日は来るし。宿代は払わなきゃいけないし、飯も食わなきゃいけない。手続きもある」


 小さく息を吐く。


「終わったって決めても、案外終わってくれない」


 それは、ひどく現実的な感想だった。


 受け入れたくないのに、朝は来る。

 負けたままでも腹は減る。

 誰にも求められなくなっても、次の日は始まる。


 そのことが、今は救いというより面倒に感じられた。


 アムラは、それを聞いてにこりと笑った。


「いいね」


「何が」


「君、ちゃんと続きのこと考えてる」


「考えてないよ。考えたくないだけ」


「でも、“終わった”で止まれてない」


 その言葉に、エルツーは少し黙った。


 アムラはくるりと宙を回って、エルツーの目の前に降りてくる。


「じゃあさ」


 楽しそうな顔で言う。


「追放されたついでに、もっと面白いことしようよ」


「面白いこと?」


「君が自分でS級パーティを作るとか」


 エルツーは、思わず立ち止まった。


 通り過ぎる人が肩にぶつかりそうになり、不機嫌そうに舌打ちしていく。

 それでも足は止まったままだった。


「……馬鹿じゃないの」


「そう?」


「帝都のS級がどれだけ重いか知ってる?」


「知ってるよ」


「僕は基本、裏方だよ。戦闘だって前に出る方じゃない。強さだけで言えばB級とA級の間くらいだし、見た目も地味だし、華もないし、ついさっき追放されたばっかりなんだけど」


「うん」


「うん、じゃない」


 思わず口調が荒くなる。

 だが、その馬鹿馬鹿しさのせいで少しだけ肩の力が抜けた。


 現実離れしている。

 あまりに現実離れしていて、逆に笑いそうになる。


 でも、たしかにその通りでもあった。

 追放される前の自分に戻ることができないなら、別の場所へ行くしかない。


「無理だよ」


「やってみないとわかんないよ」


「まず人がいない」


「いるでしょ」


「どこに」


「落ちた人とか、はみ出した人とか、終わりかけた人とか」


 その言葉に、エルツーは少しだけ目を細めた。


 帝都ガイロスには人が多い。

 強い者も多い。

 そして、切り捨てられた者も多い。


 更新に怯えている者。

 実力はあるのに居場所を失った者。

 頂点に届きかけて、そこから落ちた者。

 そういう人間は、たしかにいる。


 アムラは面白そうに笑った。


「人生ってさ、失敗しても案外終わらないんだよ」


 慰めではない。

 説教でもない。

 もっと勝手で、もっと当たり前のことを言うみたいな声だった。


「終わったと思ったあとも、続いていく。だったら、そこから何するか考えた方がいいよ」


 エルツーはしばらく黙っていた。


 少し前まで、自分は《天龍の羽》の一員だった。

 今は違う。

 それは変えようがない。


 だったら、次はどうするのか。

 その問いだけは、どこまでもついてくる。


「……ギルドに行くか」


「お」


「一応、顔を出しておきたい」


「真面目だなあ」


「他に行くとこもないし」


 それも本音だった。


 宿へ帰れば、今日が本当に終わってしまう気がした。

 酒場へ行くには気分が悪い。

 だったら、まだ少しだけ“次”の可能性がありそうな場所へ行くしかない。


 ビリジオン。

 帝都の中心から少し外れた中規模ギルド。

 派手さはないが、堅実に実績を積んできた場所だ。

 大手ほど洗練されていない代わりに、癖のある人間も流れ着く。


 そこへ向かって歩くうち、エルツーは何度かアムラをちらちら見た。


 まだいる。

 消えない。

 見間違いではないらしい。


「……本当に何者なんだよ」


「妖精だって言ったじゃん」


「そんな都合よく納得できると思う?」


「できなくても、ぼくはここにいるし」


 たしかにそれはそうだった。


 やがて、ビリジオンの建物が見えてくる。

 遅い時間だが、さすがにギルドの灯りはまだ消えていない。

 ただ、昼間の喧騒はすでに落ち着いていて、表には酔っ払いの冒険者が数人たむろしている程度だった。


 そのうちの一人が、近づいてきたエルツーを見て鼻で笑う。


「なんだ、お前。そんななりで今さら依頼か?」


 別の男が肩を揺らしながら寄ってきた。

 酒臭い。

 目は据わっているが、完全に潰れているほどではない。

 面倒だが、危険というほどでもない。


 エルツーは一歩だけ足を緩めた。


 男の立ち位置。

 もう一人の重心。

 入口の扉。

 受付の見える角度。

 通りを横切る人影。


 視界の中の情報が、自然に並ぶ。


「すみません」


 エルツーは穏やかに言った。


「ちょっと通りますね」


「は?」


 男が肩を掴もうと手を伸ばす。

 その瞬間、エルツーは半歩だけずれた。


 ただそれだけで、男の手は空を切る。

 つかみ損ねた勢いのまま、男の体がもう一人にぶつかった。


「おいっ」


「てめ、何して――」


 小さく揉める。

 だが喧嘩になるほどではない。

 酔っ払い同士の、ただの間抜けなもつれだ。


 エルツーはその横を、何事もなかったように抜けた。


 アムラが肩のあたりで、くすくす笑っている。


「うまいねえ」


「静かに」


 そのまま受付へ向かう。

 夜番の職員らしい女性が顔を上げ、ほんの少し目を見開いた。


「……あ」


 エルツーが名乗るよりも早く、彼女は奥の方へ視線をやった。

 まるで、最初から誰かに言われていたみたいに。


「あの、ギルドマスターがお待ちです」


 エルツーはわずかに目を細めた。

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