そんなこと言えないよ……
旧王墓から戻った翌朝。
エルツーは、熱を出した。
朝になって様子を見に来たナナが扉を開けると、エルツーはベッドの上で上体を起こし、窓から差し込む淡い光の中で本を読んでいた。
「……何しよると?」
ナナの声に、エルツーが顔を上げる。
「おはよう」
「おはようやないっちゃけど」
ナナは部屋へ入ると、抱えていた水差しと替えの布を机へ置いた。
エルツーの頬は赤い。
目元にも熱っぽさが残っている。
それなのに本人は慌てる様子もなく、読みかけの本へ栞を挟んでいた。
「熱あるやろ」
「あるよ〜」
「あるよ〜、やない」
「まあ、いつものことでしょ?」
「いつものことでも、熱は熱やろ」
ナナはベッドの横まで歩み寄ると、断りもなくエルツーの額へ手を当てた。
「あ〜、ほら。熱いやん」
「そうだね」
「何でそげん他人事なん?」
「慣れてるからね〜」
エルツーは本へ手を伸ばした。
だが、それより先にナナが取り上げる。
「あっ」
「慣れとるって、しんどくなかと?」
「しんどくないわけじゃないけど、まあ、死ぬわけじゃないし」
「そういう話しよるんやない」
ナナは本を机の端へ置いた。
エルツーは取り返すことを諦めたのか、素直に枕へ背を預ける。
「こうならんようにできんと?」
「毎回言うけど、難しいよ」
「加減したらよかやん」
「今回は加減してたら、たぶん全員死んでたから」
さらりと言われ、ナナの眉間に皺が寄る。
「そげんこと、平気な顔で言わんで」
「もう終わったことだよ」
「ツーの中ではそうかもしれんけどね」
「怒ってる?」
「怒っとらん」
「怒ってるね」
「怒っとらんって」
エルツーは小さく笑った。
その様子には苦しさよりも、数日間何もできなくなったことへの諦めが強い。
魔力が尽きたわけではない。
身体を傷つけたわけでもない。
魔眼を使うたび、少しずつ精神を削られる。
限界を超えれば、こうして熱が出る。
薬を飲んでも治らない。
治癒魔法も意味がない。
眠り、何も考えず、削れたものが戻るのを待つしかなかった。
「薬は?」
「効かない」
「魔力回復のやつは?」
「魔力切れじゃないから」
「治癒魔法」
「怪我でもない」
「じゃあ、どうすると?」
「休む」
「本読みながら?」
「ずっと寝てるのも暇だから」
「頭使ったら痛くなるんやろ」
「ゆっくり読むくらいなら大丈夫だよ」
「駄目」
「……ケチ」
「何ね、その言い方」
子どものような悪態に、ナナの口元がわずかに緩む。
「ギルドには?」
「う〜ん、今日は無理だね〜」
「はぁ……今日どころか、数日は無理やろ」
「たぶんね」
「たぶんやない。行かせんけん」
「うん。そうしてそうして」
あまりにも素直な返事に、ナナが目を細めた。
「……抵抗せんと?」
「しても意味ないし」
「いつもは何だかんだ言って行こうとするやん」
「こうなったら何もできないからね」
エルツーは両手を頭の後ろへ回し、完全に力を抜いた。
「まあ、久しぶりにゆっくりするよ」
「開き直っとるやん」
「うん、開き直ってる」
「迷惑かけとる自覚は?」
「あるある」
「なら、もうちょっと申し訳なさそうにせんね」
「うん、ごめんごめん」
「軽い」
「……悪いとは思ってるよ」
「顔が思っとらん」
エルツーは否定せず、再び笑った。
ナナは机の上の水差しから杯へ水を注ぎ、エルツーへ差し出す。
「飲み」
「うん」
「全部ね」
「分かってるよ」
エルツーは杯を受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。
飲み終えるまで、ナナはその手元をじっと見ている。
「……何?」
「ちゃんと全部飲みよるか見とる」
「いや、飲んでるって」
「昨日もそう言って半分残しとったやろ」
「よく見てるね」
「見とるよ」
ナナは空になった杯を取り上げると、濡らした布を固く絞り、エルツーの額へ乗せた。
「冷た」
「嫌?」
「いや、気持ちいい」
「なら、そのまま寝とき」
エルツーが額の布へ手を伸ばしかける。
ナナはその手を軽く叩いた。
「こら、触らん」
「ずれたら直そうと思っただけ」
「ずれたら直すけん」
「ナナが?」
「他に誰がおると」
「女将さんとか」
「お母さんは忙しい」
「ナナも仕事あるだろ」
「今日は遅れて行く」
「そこまでしなくても、一人で大丈夫だよ」
「知っとる」
「なら――」
「一人で大丈夫やけんって、一人にせないかん理由にはならんやろ」
エルツーが口を閉じた。
ナナはベッドの横へ椅子を引き寄せ、そのまま腰を下ろす。
「今日は仕方なく看病しちゃる」
「仕方なく」
「そう。仕方なく」
エルツーは机の上へ目を向ける。
水差し。
替えの布。
食べやすいよう小さく切られた果物とパン。
その隣には、ナナ自身が読むための本まで置かれていた。
「ずいぶん準備いいね」
「長引くかもしれんやろ」
「数日はかかると思う」
「なら、なおさらたい」
エルツーはナナの顔を眺め、少しだけ口元を上げた。
「もしかして、ちょっと惚れちゃった?」
「は?」
ナナの動きが止まる。
「いや」
「熱で頭おかしくなったと?」
「いや、言い方……」
エルツーは笑いながら目を閉じた。
本当に分かっていないわけではない。
ナナが自分をどう見ているのかも、なぜここまで世話を焼くのかも、気づかないほど鈍くはなかった。
それを嫌だと思ったこともない。
むしろ、この宿にいる時だけは、何かを隠すことにも、誰かの役に立とうとすることにも疲れずに済んだ。
もっと上等な宿へ移ろうと思えば、いつでも移れた。
それでもここを離れなかった理由を、エルツーはわざわざ言葉にしたことがない。
言葉にすれば、今の居心地のいい関係まで変わってしまいそうだったからだ。
「ナナ」
「何?」
「本、本当に駄目?」
「駄目」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「1ページだけ」
「駄目ったい」
「……ケチ」
「さっきも聞いた」
「……じゃあ寝るよ」
「最初からそうしとき」
エルツーは布団へ身体を沈め、素直に目を閉じた。
普段なら、何を言っても適当な理由をつけて逃げていく。
だが今日は逃げられない。
水を飲めと言えば飲む。
寝ろと言えば、不満を漏らしながらも従う。
不謹慎なのは、ナナにも分かっていた。
心配しているのも本当だ。
それでも、たまにはこんな日があっても悪くない。
「何かあったら呼び」
「うん」
「本当に呼ぶとよ」
「分かった」
「勝手に起きたら怒るけんね」
「はいはい」
「返事が軽い」
「ちゃんと呼ぶって」
しばらくして、エルツーが薄く目を開けた。
「ナナ」
「今度は何?」
「ありがと」
ナナは一瞬だけ固まった。
だが、すぐに顔を背ける。
「……寝とき」
「うん」
エルツーは今度こそ目を閉じた。
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始める。
ナナはその顔を横目で確かめてから、机の上に置いていた自分の本へ手を伸ばした。
仕事へ行くまで、あと少しだけ。
仕方なく。
本当に、仕方なく。
ここにいることにした。
ページを一枚めくる。
もう一枚。
時折、エルツーの額に乗せた布へ触れ、温くなっていれば水へ浸し直す。
寝返りを打てば本から顔を上げ、目を覚ましていないことを確かめる。
そんなことを繰り返しているうちに、読んでいたはずの文字はほとんど頭に入らなくなっていた。
やがて、開け放した窓の向こうから、低い鐘の音が響いた。
街の中央にそびえる鐘楼から、朝の時刻を知らせる鐘が鳴っている。
ゴォン。
少し間を置いて、二度目。
ナナは本から顔を上げた。
「……あれ?」
鐘の数を、指を折りながら数える。
三度。
四度。
最後の音が街の屋根を越え、遠くへ消えていく。
ナナの顔から、さっと血の気が引いた。
「うそやろ……」
仕事へ遅れて行くつもりではあった。
少しくらいなら問題ないとも思っていた。
だが、今鳴った鐘は、もう少しで受付の仕事が始まることを知らせるものだった。
少しどころではない。
本気で急がなければ間に合わない。
ナナは椅子から飛び上がった。
その拍子に、椅子の脚が床を擦って大きな音を立てる。
「ん……?」
エルツーが薄く目を開けた。
「ご、ごめん。起こした?」
「今の鐘……」
「気にせんで寝とき!」
ナナは慌てて本を閉じ、水差しと替えの布を机の端へ寄せた。
寝癖のついた髪を手櫛で整えながら、扉へ向かう。
「もう行くけんね。勝手に起きたら駄目よ」
「遅れて行くんじゃなかったの?」
「遅れるっちゃけど、遅刻していいとは言ってない!」
「同じじゃない?」
「違う!」
ナナは扉を開けた。
しかし廊下へ出る直前、何かを思い出したように引き返す。
エルツーの額に乗った布の位置を直し、布団を肩まで掛け直した。
「お昼にはお母さんが来るけん。それまでは大人しくしとって」
「はいはい」
「本、読んだら駄目やけんね」
「分かってるよ」
「絶対よ」
「早く行かないと、本当に遅れるよ」
「誰のせいやと思っとると!」
「ナナでしょ」
「ツーのせいたい!」
言い捨てると、ナナは今度こそ部屋を飛び出した。
廊下を駆け抜け、階段を下りていく足音が宿中に響く。
「お母さん! 何で鐘が鳴る前に呼んでくれんかったと!?」
「何度も呼んだよ! 返事したのはアンタだろ!」
「覚えとらん!」
「知らないよ!」
階下から親子の声が聞こえてくる。
やがて玄関の扉が勢いよく開き、再び閉まった。
静かになった部屋の中で、エルツーは薄く目を開けた。
「……僕より寝ぼけてるじゃん」
小さく笑う。
枕元へ視線を向けると、ナナに取り上げられた本は、ベッドから手の届かない机の端に置かれていた。
「ちぇ、抜け目ないな」
エルツーは取りに行こうとはせず、そのまま目を閉じた。
遠ざかっていく鐘の余韻を聞きながら、今度こそゆっくりと眠りへ落ちていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同日の午前。
ガイロス東部は、朝から金属を打つ音に包まれていた。
鍛冶場や武具店が集まるこの区画では、通りの両側に剣や盾を象った看板が並び、開け放たれた工房からは焼けた鉄と炭の匂いが漂っている。
その中を、カイトは弾むような足取りで進んでいた。
「こっちだよ、メグ!」
「分かってるから。そんなに急がなくても、お店は逃げないでしょ」
「でも、いい物は売れたらなくなるだろ?」
「朝から来たんだから大丈夫だって」
メグは呆れながらも、少しだけ歩調を速めた。
カイトの腰には、使い慣れた安物の剣が提げられている。
冒険者を目指すと決めた頃、どうにか金をかき集めて買った物だ。
初心者が剣の扱いを覚えるには十分で、何度か研ぎ直しながら大切に使ってきた。
だが、旧王墓で本物の戦いを目にした。
そして、冒険者として初めてまとまった報酬を手に入れた。
ならば、次にすることは以前から決めていた。
「着いた!」
カイトが足を止める。
目の前にあるのは、黒塗りの木材で組まれた二階建ての建物だった。
間口はそれほど広くない。
店先に安売りの武器が積まれているわけでもなく、派手な装飾も施されていない。
軒先に掲げられた看板には、交差する二本の刀と、切り落とされた長い髭が彫られている。
武器屋。
奇妙な名とは裏腹に、ガイロス東部では腕の立つ冒険者が通う店として知られていた。
客の体格や戦い方を見極め、必要な武器だけを勧める。
安価な量産品は少ない。
代わりに、丁寧に鍛えられた質の高い武器が揃っている。
カイトは冒険者になる前から、《ヒゲキリ》へ何度も足を運んでいた。
もちろん、買える金など持っていなかった。
それでも壁に並ぶ武器を眺めたくて、用もないのに扉を開けた。
普通なら邪魔者扱いされてもおかしくない。
だが、この店の主人は一度もカイトを追い出さなかった。
刃の違い。
握り方。
手入れの仕方。
カイトが尋ねれば、面倒そうな顔をしながらも必ず教えてくれた。
いつか冒険者になったら、最初の一本はここで買う。
カイトは、ずっとそう決めていた。
「おはようございます!」
勢いよく扉を開けると、頭上に取り付けられた金具が涼やかな音を立てた。
店内には刃物油と革の匂いが満ちている。
壁には長さも形も異なる剣や槍が整然と並び、中央の陳列台には手入れの行き届いた防具が置かれていた。
カウンターの奥では、体格のいい壮年の男が剣の柄へ革紐を巻いている。
「朝からうるさいな」
男は作業の手を止め、顔を上げた。
太い首。
鍛冶仕事で太くなった腕。
顎から頬にかけて生えた立派な髭。
武器屋の店主、ニーサムである。
厳つい顔が、カイトを認めると少しだけ和らいだ。
「また見物か?」
「今日は違います!」
「ほう」
カイトは得意げに胸を張った。
「冒険者になりました!」
ニーサムの手が止まる。
「……本当か?」
「はい!」
カイトは胸元の冒険者証を見せた。
ニーサムはそれを確かめた後、カイトの顔をじっと見つめる。
「そうか。とうとうなったか」
「なれました!」
「よく試験に通ったな」
「それ、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
「ひどくないですか?」
口ではそう言いながらも、ニーサムはわずかに笑っていた。
カイトがまだ冒険者でもなかった頃から、身体の使い方に素質があることには気づいていた。
経験は浅い。
技術も未熟。
だが体幹が強く、動きに余計な癖がない。
何より、一度教えたことを素直に試し、次に店へ来た時まで覚えている。
経験さえ積めば伸びる。
ニーサムは、以前からそう見込んでいた。
「そっちのお嬢ちゃんは?」
ニーサムがカイトの後ろへ目を向ける。
「メグです。俺と同じパーティの仲間です」
「初めまして」
メグが小さく頭を下げる。
「監視役か?」
「違います」
即答したあと、メグは隣に立つカイトへ目を向けた。
「……たぶん」
「メグ!?」
ニーサムが低く笑う。
「いい仲間を持ったな」
「はい!」
「今のは私が褒められたんだと思うけど」
メグの小さな呟きを、カイトは聞いていなかった。
すでに店内へ視線を巡らせ、壁に並ぶ剣を目で追っている。
以前は眺めることしかできなかった。
今日は、その中から自分の剣を選べる。
「今日は報告に来ただけじゃなさそうだな」
ニーサムが言う。
「はい。剣を買いに来ました」
「もう依頼を受けたのか?」
「かなり大きな依頼に行ってきました」
カイトは腰に下げていた革袋を外し、カウンターへ置いた。
ずしりと重い音が響く。
ニーサムの眉が上がった。
「お前、これは……」
革袋の口を少し開き、中を確かめる。
新人が簡単な依頼を何度かこなした程度では、到底持てない額だった。
「何をした?」
「詳しくは話せないんですけど、特別な依頼です」
「盗んだ金じゃないだろうな」
「違いますよ!」
「借金は?」
「してません!」
「人から預かった金でもないな?」
「ちゃんと俺の報酬です!」
ニーサムはカイトの顔と革袋を交互に見た。
すぐには信用していない。
その様子を眺めながら、メグは心の中で小さく頷いた。
当然の確認だった。
むしろ、もっと疑ってもらってもいい。
カイトは以前、見ず知らずの冒険者から怪しい品を買わされそうになったことがある。
相手の言葉をすぐ信じる癖は、まだ治っていない。
今回も大金を持って武器屋へ行くと言い出した時、メグはかなり不安だった。
――こいつ、また騙されたりしないよね。
だが、《ヒゲキリ》のニーサムなら大丈夫そうだった。
カイトが何度も店へ通っていたのは知っている。
店に並んでいるのも、装飾だけを豪華にした見せかけの武器ではない。
何よりニーサムの最初の反応が、金を使わせる喜びではなく、金の出所への疑いだった。
「ギルドから正式に支払われた報酬です」
メグが補足する。
「私も同じ依頼に参加しました」
「そうか」
ニーサムはようやく革袋から手を離した。
「なら俺が口を出すことじゃない」
「信じてくれました?」
「お嬢ちゃんの方をな」
「俺は?」
「日頃の行いを考えろ」
「俺、何も悪いことしてないですよ」
「騙されそうな顔で大金を持ち歩くのは、十分に悪い」
「顔は関係ないでしょう」
その時、《ヒゲキリ》の扉が勢いよく開いた。
頭上の金具が、乱暴な音を立てる。
「ニーサム。できてるか」
挨拶もなく入ってきたのは、青い短髪の青年だった。
こめかみの辺りから伸びた細い三つ編みだけが、肩口で小さく揺れている。
鋭く吊り上がった目。
細身ながら、余分なものを削ぎ落としたように引き締まった身体。
腰の左右には、空の鞘だけが提げられている。
胸元には、帝都東部に本拠を置く有力ギルド《レギオン》の紋章が刻まれていた。
カイトは、その顔を見た瞬間に息を呑んだ。
「⦅蒼炎⦆のヴァルカ……!」
思わず名前が口から漏れる。
A級パーティ《烈火の勇槍》の前衛。
二本の短剣を操り、苛烈な戦い方で知られる冒険者だった。
ヴァルカが目だけをカイトへ向ける。
「あ?」
低い声だった。
「す、すみません!」
「何だ、お前」
「俺、カイトっていいます!」
「聞いてねえ」
「はい!」
「何で嬉しそうなんだよ」
ヴァルカは露骨に眉を寄せた。
名前も知らない。
どこの所属かも知らない。
見たところ、冒険者になったばかりの若造だ。
腰に提げている剣も安物。
立ち方からして、まだ素人臭さが抜けていない。
ヴァルカにとっては、どこの馬の骨とも知れない新人に過ぎなかった。
それでも、睨まれてなお目を輝かせているカイトを、完全に不快だとは思わなかった。
「朝から新人を脅すな」
ニーサムが呆れたように言う。
「勝手に怯えてるだけだ」
「怯えてません!」
「うるせえ」
「はい!」
そんなやり取りの横でメグは小さくため息を吐いた。
ヴァルカはカウンターまで来ると、空の鞘を指で叩いた。
「俺のは」
「終わっている。油を馴染ませているところだ」
「なら早くしろ」
「武器を預けた人間の態度ではないな」
「金は払う」
「そういう問題じゃない」
ニーサムはそう言い残し、店の奥へ入っていった。
残されたヴァルカは、苛立たしそうにカウンターへ背を預ける。
カイトは何度も横目でその姿を見ていた。
話しかけたい。
だが先ほど、名乗っただけで切り捨てられたばかりである。
それでも、我慢できなかった。
「あの、ヴァルカさん」
「何だ」
「いつもここで武器を手入れしてもらってるんですか?」
「見りゃ分かるだろ」
「俺も今日、剣を買いに来たんです」
「知らねえよ」
「店で一番いい剣を買おうと思ってます!」
ヴァルカは面倒そうに顔を向けた。
カウンターに置かれた、重そうな革袋へ視線が落ちる。
「新人が?」
「はい!」
「金持ってんな」
「依頼の報酬です」
「へえ」
わずかに興味を示したものの、それ以上は聞かなかった。
カイトが何の依頼を受け、どうやって大金を得たのか。
ヴァルカには関係のない話だった。
「いい剣を買ったら、すぐ依頼に行こうと思ってます」
「勝手にしろ」
「ヴァルカさんは、最初にどんな武器を買ったんですか?」
「覚えてねえ」
「どうやったら自分に合う武器が分かりますか?」
「しつけえな、お前」
ヴァルカは苛立ったように舌打ちした。
しかし、店を出て待とうとはしなかった。
「振れ」
「え?」
「気になる物があるなら、持って振れ。違うと思ったら戻せ」
「それだけですか?」
「それだけで分からねえなら、何本振っても同じだ」
「なるほど……!」
「感心すんな。適当に言っただけだ」
「適当なんですか!?」
その時、ニーサムが細長い革張りの箱を抱えて戻ってきた。
「待たせたな」
箱をカウンターへ置き、蓋を開く。
中には二本の短剣が並んでいた。
細身で鋭く、曇り一つない刀身。
柄や鍔には無数の細かな傷が残されている。
磨き上げられてはいるが、飾り物ではない。
何度も命を奪い、何度も持ち主の命を守ってきた武器だった。
ヴァルカは一本ずつ手に取る。
刃を光へかざし、僅かな歪みも見落とさないよう目を細めた。
指先で重心を確認し、軽く手首を返す。
二本の刃が同時に空気を裂き、鋭い音が重なった。
カイトは、その一連の動きを食い入るように見つめていた。
「……すごい」
「何がだ」
「今の、もう一回やってもらえませんか?」
「嫌だ」
「一回だけ!」
「嫌だっつってんだろ」
「お願いします!」
「うるせえな、馬の骨」
ヴァルカは二本の短剣を、左右の鞘へ滑り込ませた。
刃を収める音は、寸分のずれもなく重なった。
「剣を買いに来たんなら、自分の剣だけ見てろ」
「はい!」
「だから何で嬉しそうなんだよ」
ヴァルカは代金をカウンターへ置いた。
「ニーサム。次はもう少し早く仕上げろ」
「予定どおりだ。お前が勝手に早く来ただけだろう」
「俺を待たせるな」
「武器を預けている側の態度じゃないな」
ニーサムが呆れたように言う。
ヴァルカは返事もせず、出口へ向かった。
その途中、カイトの横を通り過ぎる。
「おい」
「その金で、変な物を買わされんなよ。馬の骨」
「はい!」
「元気に返事すりゃいいってもんじゃねえ」
ヴァルカは不機嫌そうに眉を寄せたが、そのまま追い払うことはしなかった。
「ニーサム。そいつに妙な物を売るなよ」
「誰に物を言っている」
「ならいい」
それだけ残して、ヴァルカは《ヒゲキリ》を出ていった。
「あの⦅蒼炎⦆のヴァルカさん、俺のことを心配してくれました!」
「え?……たぶん違うと思う」
メグの冷静な返答を聞きながら、カイトも店の外へ視線を向ける。
開いた扉の向こうに、ヴァルカとは別の大きな影が見えた。
店先の壁へ背を預け、一人の竜人が腕を組んでいる。
カイトより頭二つは高い。
太い首から頬、額にかけて、深い青色の鱗が隙間なく覆っていた。
陽光を受けた鱗は水面のような艶を帯び、その間から覗く瞳は、淡い琥珀色をしている。
身体つきは大きい。
だが、筋肉を誇示するような立ち方ではない。
背筋を伸ばし、静かに立っているだけで、周囲の人間が自然と距離を取っていた。
竜人の背には、長大な棍棒が背負われている。
持ち手はカイトの腕ほど太く、先端へ向かうほど大きく膨らんでいた。
黒ずんだ金属で補強され、無数の細かな傷が刻まれている。
装飾らしい装飾は一つもない。
何かを斬るためではなく、叩き砕くためだけに作られた武器だった。
ヴァルカが店から出ると、竜人はゆっくりと顔を向けた。
「遅い」
低く、腹の底に響く声だった。
「ニーサムが細けえんだよ」
「面倒なのは、お前の方だろう」
「うるせえな、ラカン」
青い竜人――ラカンは、ヴァルカの腰に収まった二本の短剣を見る。
「仕上がりは」
「やっぱ、悪くねえ」
「なら、待った意味はあったな」
「俺は待ってねえ。待ったのはお前だ」
「待たせた側が言うことではない」
ヴァルカは鬱陶しそうに顔をしかめた。
「四半刻くらいで細けえんだよ」
「四半刻は、待ち合わせに遅れていい時間ではない」
「エイルならもっと遅れる」
「エイルを基準にするな」
淡々と返され、ヴァルカが舌を鳴らす。
カイトとメグは、店の中からそのやり取りを眺めていた。
《烈火の勇槍》のヴァルカ。
その男と対等に言葉を交わしている。
胸元に刻まれた《レギオン》の紋章を見れば、ラカンも同じパーティの一員なのだろう。
「すごい……⦅雲龍⦆のラカン……」
カイトが思わず声を漏らした。
その声に、ラカンが店内へ目を向ける。
カイトと視線が合った。
見た目の迫力に、カイトの背筋が自然と伸びる。
「誰だ」
ラカンが尋ねる。
「どこぞの知らねえ。馬の骨だ」
「初対面の相手を馬の骨と呼ぶな」
「名前も知らねえんだから合ってんだろ」
「名前を聞けばいい」
「興味ねえ」
そう言い切りながら、ヴァルカはまだその場を離れようとしない。
ラカンは小さく息を吐くと、カイトへ身体を向けた。
「すまない。こいつは口が悪い」
「いえ! 知ってます!」
「何で知ってんだよ」
ヴァルカが睨む。
「有名ですから!」
「それ、褒めてねえだろ」
「褒めてます!」
「うるせえな」
ラカンは僅かに目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「名前は」
「カイトです! こっちはメグです!」
「よろしくお願いします」
メグが頭を下げる。
「ラカンだ。《レギオン》で、こいつと同じパーティにいる」
「《烈火の勇槍》の方ですよね!存じてます!」
「ああ」
カイトの視線が、ラカンの背にある棍棒へ移った。
「その武器、すごいですね」
「これか」
ラカンは肩越しに棍棒を見る。
「故郷で作られた物だ」
「ものすごく重そうです」
「重い」
即答だった。
「でも、軽い武器の方が動きやすいんじゃないですか?」
「相手による」
ラカンは短く答えた。
「速さが必要なら、軽い武器を使えばいい。刃が通る相手なら、剣の方が扱いやすい」
太い指が、棍棒の柄へ触れる。
「だが、重くなければ壊せない物もある」
カイトは棍棒を見上げた。
深く考えた様子はなく、素直に頷く。
「なるほど!」
「分かってねえ顔だな」
ヴァルカが吐き捨てる。
「今、分かりました!」
「分かった奴は、そんな軽い返事しねえよ」
ラカンはヴァルカへ視線を向けた。
「お前も説明する気がないなら黙っていろ」
「俺は最初から黙りてえんだよ」
「なら黙れ」
ヴァルカは眉間へ深く皺を寄せた。
それでも反論はせず、ラカンの横へ並ぶ。
「行くぞ。エイルが待ってる」
「待っているのではなく、食べているだけだろう」
「置いていきゃいい」
「あとで尻を拭くのは俺たちだ」
「面倒くせえパーティだな」
「……はあ、その原因の一人が言うな」
二人は通りへ歩き出した。
数歩進んだところで、ヴァルカが足を止める。
振り返りはしない。
「おい馬の骨!」
「はい!」
「買った剣で、いきなり無茶すんなよ」
カイトが目を輝かせる。
「やっぱり心配してくれてるんですか!?」
「してねえ!」
怒鳴り声が東部の通りへ響いた。
ラカンは隣を歩きながら、静かに言う。
「なら、わざわざ声をかける必要はなかったな」
「黙れ、ラカン」
「図星か」
「黙れっつってんだろ」
二人の姿が人混みの向こうへ消えていく。
カイトは、しばらくその背中を見送っていた。
「ヴァルカさん、絶対俺のこと気に入ってるよ」
「どうして、そう前向きに受け取れるの?」
「無茶するなって言ってくれたから」
「馬の骨とも呼ばれてたけど」
「でも名前は名乗ったから、次は覚えてくれてるかもしれない」
メグは否定しようとして、やめた。
おそらくヴァルカは、カイトの名前など覚えていない。
けれど、あの短気な男が見知らぬ新人へ忠告を残したのも事実だった。
「それより、剣を選ぶんでしょ」
「あ、そうだった!」
カイトは慌てて店内へ戻る。
ニーサムは腕を組みながら、呆れた顔で待っていた。
「有名人に会えたのは分かった。そろそろ自分の剣を選べ」
「はい!」
「それで、どんな剣が欲しい?」
ニーサムが尋ねる。
カイトは少し考えた後、力強く答えた。
「強い剣です」
「帰れ」
「えっ!?」
「まったく……さっき何を聞いていたんだ……」
「武器屋で一番困る注文だ。何をもって強いと言っている」
「よく切れて、頑丈で、魔物を倒せる剣です」
「なら槍でも斧でもいいだろう」
「剣がいいんです」
「なぜだ」
「格好いいからです!」
迷いのない答えだった。
メグは片手で額を押さえた。
しかしニーサムは、カイトを馬鹿にしなかった。
「よし、最初はそれでいい」
「いいんですか?」
「武器を好きになれない奴は手入れもしない。持っていて嬉しいと思える物を選ぶのも大事だ」
ニーサムはカウンターから出ると、カイトの前へ立った。
肩幅。
腕の長さ。
腰の位置。
現在使っている剣の長さ。
それらを確かめるように目を動かす。
「抜いてみろ」
「今の剣をですか?」
「他に何がある」
カイトは腰の剣を抜いた。
「軽く振れ。店を壊すなよ」
「壊しませんよ」
カイトは周囲に気をつけながら、剣を構える。
上段から斜めへ振り下ろし、そのまま手首を返して横薙ぎへつなげる。
まだ粗い。
だが力任せに振り回すだけではなく、剣の重みを前へ流そうとしている。
「前よりはましになったな」
「本当ですか?」
「少しだけだ」
ニーサムはカイトの手元を見つめる。
「片手剣。今より少し長くても扱える。重さは増やしすぎない方がいいな」
「おすすめがありますか?」
「ある」
ニーサムは迷わず、店の奥へ向かった。
しばらくして、細長い木箱を両腕で抱えて戻ってくる。
中央の陳列台へ置き、二つの留め金を外した。
「お前に見せたい物がある」
重い蓋が、ゆっくりと持ち上がる。
中に収められていたのは、一本の黒い剣だった。
華美な宝石はない。
余計な装飾もない。
刀身は深い黒色で、光を受けても眩しく反射せず、表面に淡い銀の筋だけが浮かんでいる。
鍔は小さく、全体の意匠も驚くほど簡素だった。
だが、その剣だけが周囲から切り離されているように見えた。
「……すごい」
カイトが思わず呟く。
ニーサムは剣を持ち上げ、カイトへ柄を向けた。
「握ってみろ」
「いいんですか?」
「落としたら買い取りだ」
「どっちにしても買うつもりです!」
「値段を聞いてから言え」
カイトは両手で剣を受け取った。
見た目から想像していたよりも軽い。
だが軽すぎるわけではなく、手の中には確かな重みが残る。
重心が鍔の少し先にあり、切っ先を動かしても手首が振り回されない。
柄に巻かれた革は柔らかく、吸いつくように掌へ馴染んだ。
「持ち手には、火竜の腹皮を使っている」
「火竜……」
「竜の鱗は硬いが、腹側の皮は柔らかい。熱と摩耗に強く、汗をかいても滑りにくい。使い込めば、持ち主の握り方に合わせて馴染んでいく」
カイトは柄を握り直した。
指へ余計な力を入れなくても、剣が掌から逃げない。
「刀身は高純度の鋼に、高級ミスリルを混ぜて打った黒刀だ」
ニーサムが黒い刀身を指先で軽く弾く。
澄んだ高い音が、店内に響いた。
「ミスリルだけで打てば、もっと軽くできる。だが軽すぎる剣は、打ち合いで負ける。こいつは必要な重さを残しながら、魔力の通りを良くしてある」
「魔法も使えるんですか?」
「剣が勝手に魔法を使うわけじゃない。使い手の魔力や、外から加えた魔法を邪魔しないという意味だ」
メグも近くまで歩み寄り、黒い刀身を覗き込んだ。
「属性魔法を流しても大丈夫なんですか?」
「順応性は高い。炎でも雷でも、使い手の魔力に合わせて受け入れる。後から術式を刻むこともできる」
カイトは、旧王墓で見たライトニングの剣を思い出した。
刀身へ雷をまとわせ、白亜の外殻を貫いた一撃。
いつか自分も、この剣へ魔法を乗せられるかもしれない。
そう考えただけで、胸が高鳴った。
「どのくらいの冒険者が使う剣なんですか?」
「普通ならA級だろうな」
「A級……」
「手入れさえ怠らなければ、腕が上がっても買い替える必要はない。長く使える」
カイトは両手の剣を見つめた。
火竜の腹皮を使った柄。
高級ミスリルを含んだ黒い刀身。
魔法への高い順応性。
A級冒険者が愛用するような一品。
かつて店の外から眺めていた憧れが、今、自分の手の中にある。
「これにします」
「待て」
ニーサムが即座に止めた。
「まだ値段を言っていない」
「いくらですか?」
ニーサムが金額を告げる。
メグの目が大きく開いた。
旧王墓で得た報酬がなければ、とても払えない額だった。
カイトも一瞬だけ固まる。
だが、すぐにカウンターの革袋へ手を伸ばした。
「買います」
「早い」
ニーサムが眉を寄せる。
「もう少し考えろ」
「考えました」
「今の一瞬で?」
メグが横から口を挟む。
「店に入る前から、良い剣を買うって決めてたから」
「良い剣にも色々あるでしょ」
「でも、これが一番なんだろ?」
カイトがニーサムへ尋ねる。
ニーサムは剣を見つめ、少しだけ考えた。
「今、この店に置いている片手剣の中では一番だ」
「じゃあ、これにします」
カイトの返事に迷いはなかった。
「お前には、まだ早いかもしれんぞ」
「だから欲しいんです」
「どういう理屈だ」
「今の俺にちょうどいい剣を買ったら、強くなった時に買い替えないといけないでしょう?」
カイトは黒い剣を持ち上げた。
「これなら、俺が強くなるまでずっと使えます」
単純な答えだった。
だがニーサムは笑わなかった。
カイトがこの剣の価値を、すべて理解しているとは思わない。
A級の剣を持てば、A級になれるわけでもない。
それでも、良い道具を使うことでしか身につかない感覚もある。
切れる刃が、どの程度の力で対象を断つのか。
重心の整った剣が、どれほど素直に動くのか。
握りやすい柄が、使い手の余計な力をどれだけ抜いてくれるのか。
粗悪な道具に合わせて身についた癖は、後から直す方が難しい。
「分かった」
ニーサムは頷いた。
「売ってやる」
「ありがとうございます!」
「ただし、条件がある」
「何ですか?」
「ひと月に一度は持ってこい。刃と柄を俺が見る」
「無料でですか?」
「調子に乗るな。手入れ代は取る」
「はい!」
「それと、何でも斬れる剣だと思うな」
ニーサムの声が少し低くなった。
「刃物には、刃物の仕事がある。良い剣ほど、使い方を間違えれば壊れる」
カイトは黒い刀身を見つめた。
その言葉の意味を理解したつもりで、力強く頷く。
「大事にします」
「言葉じゃなく、手入れで見せろ」
ニーサムは黒刀に合う鞘を選び、腰へ提げるための革帯とともにカウンターへ置いた。
カイトが代金を数えている間、メグは改めて店内を見渡した。
剣。
槍。
短剣。
戦斧。
杖。
どれも質の良い物なのだろう。
しかし、自分がどれを選ぶべきなのかは分からなかった。
「お嬢ちゃんは何か買わないのか?」
ニーサムに尋ねられ、メグは少し迷ってから首を横に振った。
「私は、まだ何が自分に合うのか分からないので」
「普段は何を使う」
「剣も槍も弓も、一通りは。でも、どれが一番かは……」
器用であるがゆえに、選べない。
それは以前、オリオンたちからも指摘されたことだった。
何でも使えることと、何を使うべきか決められることは違う。
カイトのように憧れだけで即決することもできなかった。
「なら、今日は買わなくていい」
ニーサムはあっさりと言った。
「分からないまま高い物を買う必要はない。使いたい物が決まったら来い」
「売ろうとしないんですね」
「必要ない物を売れば、次から来なくなる」
「商売人ですね」
「武器屋だ」
メグは小さく笑った。
その隣で、カイトは新しい革帯を腰へ巻き、黒刀を鞘ごと提げる。
以前の剣よりも少し長い。
だが重心が身体の近くにあるため、歩いても腰で暴れない。
「どう?」
期待に満ちた顔で、カイトがメグを見る。
「かっこいい」
「本当?」
「剣はね」
「俺は?」
「これからじゃない?」
「そこは一緒に褒めてくれてもいいだろ」
不満を口にしながらも、カイトの頬は緩みきっていた。
壁に掛けられた磨き板へ、何度も自分の姿を映す。
黒い剣を腰に提げた姿は、昨日までよりも少しだけ、一人前の冒険者へ近づいたように見えた。
「ニーサムさん」
店を出る前に、カイトは深く頭を下げた。
「絶対に、この剣に似合う冒険者になります」
ニーサムはカウンターの奥から、その姿をじっと見つめる。
「まずは、剣に使われないようにしろ」
「はい!」
返事だけは、すでに一人前だった。
二人が《ヒゲキリ》を出る。
東部の通りには、朝よりも多くの人が行き交っていた。
カイトは歩きながら、何度も黒刀の柄へ触れる。
そのたびに、火竜の腹皮が掌へ心地よく馴染んだ。
「次は依頼を探しに行こう」
「今日から?」
「もちろん!」
「少しくらい剣の扱いを試してからの方がよくない?」
「実戦が一番だろ?」
メグは答えず、カイトの腰にある黒刀へ目を向けた。
剣は間違いなく良い物だった。
ニーサムも信用できる。
騙される心配は、もうない。
問題は、カイトがこの剣を手に入れたことで、どこまで気持ちを大きくしているかだった。
そして、ラカンが残した言葉も、すでにカイトの頭の片隅へ追いやられている。
重くなければ壊せない物もある。
その意味を身をもって知るのは、もう少し先のことになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昼時のビリジオンは、朝とは異なる賑わいに包まれていた。
午前の依頼を終えた冒険者たちが戻り、併設された食堂からは焼いた肉と香辛料の匂いがロビーまで流れてくる。
依頼の報告をする者。
仲間と卓を囲み、今日の成果を語り合う者。
午後からの仕事を探し、依頼板を眺める者。
そんな喧騒の中、ライトニングとプリシラはロビー脇の卓で昼食を取っていた。
卓上に並んでいるのは、鶏肉と葉野菜を挟んだ白パンと、温かい豆のスープ。
だが、ライトニングの食事はほとんど進んでいない。
片手でパンを持ったまま、もう一方の手が何度も腰へ伸びていた。
そこに提げられているのは、普段使っている刺突剣ではない。
屋敷に保管していた予備の一本だった。
刀身の長さも、柄の形も、普段の物とほとんど変わらない。
傍から見れば、違いなど分からないだろう。
プリシラも特に気に留めてはいない。
しかしライトニングには、鞘が腰へ触れる感覚からして違っていた。
重心が僅かに手元へ寄っている。
柄を握った時の太さも、ほんの少しだけ違う。
同じように振れば使える。
戦えないわけでもない。
それでも、長く使い続けてきた剣とは明らかに別物だった。
ライトニングは腰の位置を直し、短く息を吐く。
「姉様。スープが冷めてしまいます」
「分かってる」
言いながら、ライトニングは一口だけスープを飲んだ。
すぐに器を戻し、今度は入口へ視線を向ける。
誰かを待っているというより、ここから動きたくないようにも見えた。
「今日は、エルツーさんを待つのですか?」
「一応」
「昨日は、お話しできませんでしたものね」
「別に、急いで聞くことでもないのだがな」
ライトニングは素っ気なく答える。
旧王墓でエルツーが使った魔眼。
あれが何だったのか、気になっていないわけではない。
しかし、今すぐ問い詰めるつもりもなかった。
本人が話したくないのなら、それなりの理由がある。
無理に聞き出すほど、ライトニングも他人の事情へ踏み込む性格ではない。
それ以上に、今のライトニングの頭を占めている問題は別にあった。
壊れた剣を、刀匠のもとへ持っていかなければならない。
ライトニングが普段から剣の製作と手入れを任せている刀匠は、腕だけなら間違いなく一流だった。
だが、ひどく気難しい。
必要なこと以外、ほとんど口を開かない。
ライトニングが強い口調で何を言おうと、眉一つ動かさない。
脅しも、催促も、言い訳も、まるで通じなかった。
剣を粗末に扱えば、ただ黙って睨まれる。
その沈黙が、怒鳴られるよりも遥かに恐ろしい。
今回は粗末に扱ったわけではない。
相手が大型《白亜》であり、《轟雷衝天》を使わなければ倒せなかった。
正当な理由はある。
それでも、剣を一本失ったという事実は変わらない。
どのような経緯を説明したところで、最後には必ずどやされる。
口数の少ない刀匠が、珍しく長く話すことになる。
ライトニングには、それが分かっていた。
だから朝から、なかなか足が向かなかった。
エルツーを待つという理由を作り、ビリジオンで時間を潰している。
「姉様」
「何」
「そろそろ行かなくてもよろしいのですか?」
「どこに」
「お話の刀匠様のところです」
ライトニングの手が止まった。
「……まだ早い」
「もうお昼です」
「そうだ、きっと今日は忙しいかもしれない」
「昨日、先に使いを出したのでは?」
「出したな」
「では、お待ちになっていると思います」
「別に、今日行くとは伝えてない」
「壊れた剣を持っていくとは伝えたのでしょう?」
「……伝えた」
プリシラは困ったように耳を伏せる。
「早く行った方が、怒られずに済むのではありませんか?」
「何時に行っても同じ」
「それなら、なおさら早く済ませた方が……」
「プリシラ」
「はい!?」
「今は食事中だ、うん、食事は大切だ」
「はい……」
プリシラは素直に引き下がり、自分のパンへ口をつけた。
ライトニングも食事を再開する。
だが速度は遅い。
普段なら数分で食べ終える量を、今日は不自然なほど時間をかけて口へ運んでいる。
その時、ギルドの入口が勢いよく開いた。
「あわわ、すみません!」
慌ただしい足音とともに、ナナがロビーへ駆け込んできた。
いつもより髪が少し乱れている。
制服の襟を直しながら、受付台の内側へ急いで入った。
「間に合った?」
ナナが近くの同僚へ尋ねる。
「もう鳴った、ギリギリアウトだよ」
「直後なら、まだ間に合ったことにしていいでしょ!?」
「全く、こっちで言い訳しといたよ、また貸しだからね?」
「ごめん、助かる!」
ナナは頭を下げると、鞄を置き、慌ただしく受付の準備を始めた。
その姿を認め、ライトニングが立ち上がる。
「ナナ」
「はい?」
「エルツーは?」
ナナの手が僅かに止まった。
「えっと数日は来れません」
「なぜ」
「熱を出して寝込んでいます。帰ってくると、時々こうなるんです」
ライトニングは、ほんの僅かに目を細めた。
「症状は重いのか?」
「本人は慣れていると言っています。朝も普通に話していました。ただ、考え事をすると長引くらしいので、今は休ませています」
「そう」
それ以上、ライトニングは聞かなかった。
見舞いに行くとも、様子を見てこいとも言わない。
本人が休む必要があるのなら、余計な干渉をしない方がいい。
「なら帰る」
ライトニングは卓上に残っていたパンを掴み、一口で食べる。
「戻ったら、伝言を残すように言っておけ」
「分かりました」
ライトニングは代金を卓上へ置いた。
「プリシラ、行く」
「はい、姉様」
プリシラも急いで残りの食事を口へ運び、席を立つ。
先ほどまで時間を引き延ばしていたとは思えないほど、ライトニングの動きは早かった。
エルツーが来ないと分かった以上、ここに残る理由はない。
残るのは、避け続けていた刀匠のもとへ向かうだけだった。
ライトニングは腰の予備剣へ手を添え、重い足取りで入口へ向かう。
「姉様」
「何」
「大丈夫です。わたしも一緒に謝ります」
「プリシラは何も悪くない」
「ですが――」
「余計なことを言うと、お前まで説教される」
「刀匠様は、わたしにも怒るのでしょうか」
「剣に関しては誰にでも同じ」
「では、黙っています」
「そうして」
二人が扉の近くまで来たところで、外から勢いよく扉が開いた。
「こんにちは!」
よく通る大きな声が、昼時のロビーへ響く。
入ってきたのは、カイトとメグだった。
カイトはいつも以上に胸を張り、隠すつもりもなく上機嫌な笑みを浮かべている。
腰には、見覚えのない黒い鞘。
新しい革帯から提げられた一本の剣が、歩くたびに小さく揺れていた。
ライトニングの足が止まる。
黄色い瞳が、すぐにカイトの腰へ向けられた。
「剣、変えたのか?」
「あ!気づきました〜?」
カイトの表情がさらに明るくなる。
「買いました! 《ヒゲキリ》で!」
ライトニングはカイトの前まで戻る。
「見せてみなさい」
「はい!」
カイトは嬉々として腰から剣を外し、鞘ごと差し出した。
ライトニングはそれを受け取る。
鞘から数寸だけ刀身を抜いた。
深い黒色の刀身。
光の中に浮かぶ、淡い銀の筋。
刀身を見た瞬間、ライトニングの目つきが僅かに変わった。
「高級ミスリル」
「分かるんですか?」
「見れば分かる」
ライトニングはさらに僅かに引き抜き、柄へ指を滑らせる。
「火竜の腹皮。それに、魔力を流す前提で打ってある」
「ニーサムさんも同じことを言ってました!」
「いい剣」
短い一言だった。
だが、ライトニングが武器をはっきり褒めることは珍しい。
カイトは嬉しさを隠せず、メグへ顔を向ける。
「ほら、やっぱりすごい剣なんだよ!」
「剣はね」
「またそれ言うのかよ」
ライトニングは刀身を鞘へ戻し、カイトへ返した。
「刃が素直。変な癖もない。ちゃんと使えば長く持つ」
「はい!」
「でも、何でも斬れるわけじゃない」
カイトの返事が一瞬遅れる。
「……それも、ニーサムさんに言われました」
「なら覚えておいて」
「はい!」
ライトニングはそれだけ言うと、再び入口へ向き直った。
カイトが慌てて呼び止める。
「ライトニングさん、もう帰るんですか?」
「用事がある」
「依頼は受けないんですか?」
「当分は受けない」
答えながら、ライトニングの手が無意識に予備剣の柄へ触れた。
これ以上ここにいても、刀匠の機嫌が良くなるわけではない。
むしろ遅くなればなるほど、睨まれる時間が長くなるだけだ。
「カイト」
「はい」
「その剣で浮かれて、無茶しないこと」
「大丈夫です!」
即答するカイトを、ライトニングは無言で見つめた。
「……その返事は信用できない」
「えっ」
「メグ、しっかり見ておくように」
「分かりました」
「メグ!?」
ライトニングはもう取り合わず、扉を開けた。
プリシラもカイトたちへ小さく頭を下げ、その後を追う。
「では、失礼します」
「あ、プリシラさん!」
「はい?」
「俺、《烈火の勇槍》のヴァルカさんにも会ったんです!知ってますか??⦅蒼炎⦆のヴァルカですよ!!」
プリシラの耳がぴくりと動いた。
「……あ、あの方に?」
「はい! 俺のことを心配してくれたみたいで!」
「えっと、よかったですね?」
プリシラは珍しく怪訝な顔をした。
「えっそれだけ??」
「姉様、参りましょう」
「ん」
プリシラはそれ以上ヴァルカについて触れず、ライトニングとともに外へ出ていった。
扉が閉じる。
カイトは納得できない顔で、その場に立ち尽くしていた。
「ヴァルカさん、プリシラさんに何かしたのかな」
「なんか、聞かない方がいい気がする」
メグはそう答え、カイトの腰に戻された黒刀へ目を向ける。
ライトニングが一目で認めたほどの剣。
買い物そのものは、間違いではなかった。
「それで、どうするの?」
「もちろん、依頼を受ける!!」
カイトはすぐに表情を戻し、ロビーの奥にある依頼板へ目を向けた。
「エルツーさんが戻ってきた時に、この剣を見せるだけじゃなくて、依頼を成功させたって報告したいんだ」
「はぁ、まずは簡単な依頼からね」
「分かってるって」
カイトはそう言いながら、意気揚々と依頼板へ歩き出した。
その腰で、新品の黒刀が小さく揺れていた。




